大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年09月12日 | 写詩・写歌・写俳

<740> 死について (2)     ~<739>よりの続き~

         悲しみは必然にして生まれ来る生死の生の さだめにあれば

 古希という年齢にもなると、知り合いの少ない私でも、年に一、二回は知人の訃報というものに接し、死や死に纏わることが思われて来る。今夜も救急車の走り行くピーポーの音が聞こえて来たが、もしや、悲嘆の前兆かも知れないと思ったりする。では、その死について、いま少し話を続けてみることにする。

 昨今の状況で言えば、この三つに分類される死というのはどういう様相になっているのだろうか。まず、他者によって命を奪われる磔刑図的死について言えば、テロや戦禍は言うに及ばず、「殺し」と呼ばれる事件一つをあげてみても動機の解明し難い凶悪化の傾向が見られ、平和という美名の下で、狂っているとしか言いようのない戦慄を覚えるような死が見受けられる。これも世相的背景をもってあるということか。

 凶悪な事件が多いということは、その犯罪に対する刑罰にもその傾向が現われて来ることになり、極刑である死刑もまた増えるということになるわけである。言ってみれば、この類の死が増えることは社会の殺伐さを物語ることにほかならず、社会にとって宜しからざることであり、この状況を世界的に言えば、人類の不幸が言えるわけで、憂慮されて然るべき情勢にあるということが出来る。

 次に、自分で自分の命を絶つ自刀図的死については、一種美的精神に支えられて自刀した昔の図とは明らかに異なる現代の様相がある。年間三万人に及ぶと言われる我が国の自殺者の状況がそれを物語る。この種の死は絶望による厭世的な一面が色濃く見られる点にあり、この死が交通事故死をはるかに上回る異常な状況には社会環境が問題視されて然るべきと言ってよい。この死は本人だけでなく、家族をはじめ、多くの近親者を巻き込むという点で、暗い世相を広げて行くことに繋がり、憂慮される。

                       

 一方、涅槃図的自然死の形の死においては、貧困の究極に顕現される飢餓の死(殊に十歳以下の子供の死)があるのに対し、食生活の豊かさが招く糖尿病の蔓延などとともに癌、心臓病、脳卒中といった生活習慣による病死のあることがあげられる。また、長寿社会はよいとして、この長寿をみんなが不足なく暮らして行ければよいのであるが、貧富がその差によって社会をおかしくし、高齢化による介護の問題も含み、老後の悲惨が言われるところで、誰にも看取られずに死んで行く孤独死というような死も増え、状況は深刻さを孕んでいる。わが国は後者の状況に属し、国家的な課題としてあるのがうかがえる。

 このことについて、軍医でもあった明治の英知森鷗外は当時すでに看破し、「世界はどんどん進化しても老病困厄は絶えない」、「苦は進化とともに長ずる」(『妄想』)と言っている。この状況を笑っていられるものは幸せな部類に属するかも知れない。だが、己の明日など誰にもわからない。で、「日常坐臥において十分に、聡明に、注意深く生きよ」というような教示も聞かれる次第である。

 つまり、いかなる死もあわれの範疇を出るものはなく、ここに掲げた歌などもそこのところが言いたいわけであるが、生の終わりの死に際してはいくらかでも納得のゆくものでありたいと願う気持ちは誰にもあって、なるべく、安らかにとは思う。で、納得は何をもって納得と言い得るかであるが、目指すところは未知であり、言えることは、天地の間、常日ごろ精進してあること。「ぴんぴんころり」は理想であろうが、不安は誰にもつき纏う。この不安を安らげるものは、状況の如何にかかわらず、覚悟と精進のほかにはないように思われる。 それにしても、人の死の類型は時代の世相によって現れ、時代の様相は人の死の類型の傾向を見ることによってわかることが言えそうである。 写真はイメージ。夜間走り行く救急車のピーポーの光跡。