大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年09月15日 | 写詩・写歌・写俳

<743> 福島第一原発の汚染水問題について

        私たち生きとし生けるものはみなすべて

      自然のバランスの上に生き 生かされている

      如何なる人工の作物も 如何なる人工の場も

      この自然のバランスを抜きには 成り立ち得ない

      私たちの進化は 人工に彩られて見えるけれども

      それは自然のバランスに従属する光景にほかならない

      如何に優れた科学者も どんなに秀でた技術者も

          この自然のバランスをさし置いて働くことは出来ない

      すべての生は自然のバランスの上に成り立っている

 二〇二〇年開催のオリンピック候補地の最終プレゼンテーションにおいて福島第一原発の汚染水問題が東京に対して質問されたとき、安倍首相は、既に汚染水はブロックされ、対策は十分に出来ているので心配ない旨の答弁をした。この汚染水の問題について、今回は、門外漢ではあるが、門外漢だからこそ見えて来るところに触れて話を進めてみようと思う。

 今、問題になっているのは、メルトダウン状態に陥っている核燃料を冷却し、放出されている高濃度放射能を閉じ込めて置くべき冷却水に地下水が流入して、それが流れ出し、海に及んでいるというものである。また、地下水の流入によって溜まり続けている冷却水を汲み上げ、別に設えたタンクに貯め置くことをしているわけであるが、そのタンクにも支障が生じ、このタンクからも放射能に汚染された水が漏れ出し、海に流れているというものである。

 まず、地下水の場合を考えてみると、自然というのはバランスされて成り立っていることが思われる。このバランスは宇宙規模のことから、私たちの人体内部に見られるような微小なものまで、すべてがこの自然のバランスにおいて成り立ち、私たちはそのバランスのうちに生き、生かされているということが言える。

                                 

  このことを念頭に置いて福島第一原発の事故から今日の汚染水問題までを考えると、ことの本質がわかって来る。言わば、原発は、事故の起きる前まで(支障なく稼働していたとき)、その自然のバランスのうちで、私たちの活動になくてはならない有用性にばかり目をやって、私たちに不都合な部分は人工の技術によって防ぐようカバーする形で運転して来た。自然からすれば、このカバー状況は私たちにとって100パーセントの安心を得ない危険のリスクを伴うものであるが、科学や技術を手中にした人間はそのリスクに対し自信を持ち、その自信はいつしかそのリスクというものを私たちから忘却させ、100パーセントの安心、つまり、安全神話を生んで来た。

  言うならば、原発は人工の技術によって人間に不都合な部分をクリアしながら自然のバランスのうちに動かす仕組みを考え、稼働して来た。だが、大地震はその人工の技術では及ばない想定外の事故を起こすに至った。人間にとって都合のよい状態にあった自然のバランスがこの事故のときは崩され、人間に宜しくない状況を生み、騒動になっているわけである。これが、言わば、福島第一原発の事故の現状であり、安全神話の失われた状況ということが出来る。

  自然というのは人工をも含み、変化するものながら、変化しても常にバランスされているのが常で、そのバランスのうちにあって私たちは生き、生かされている。で、ここでは人間にそれが都合のよいバランスか、そうでないバランスかが問題になるわけで、福島第一原発の事故は人体によくない放射能の影響が及ぶということで、これは、私たちにとって後者の立場になったことが言えるわけである。

  この放射能を大量に出す核燃料は封じ込められた状態でなくてはならないわけであるが、原発でこれを可能にしているのは人工の技術である。しかし、この技術によって補完されたバランスの状況は自然のバランスから独立してあるものではなく、技術によって補完された状況も、言ってみれば、自然のバランスの部分的な状況にほかならず、なお、それをも含んで自然のバランスは大きく影響してあり、私たちの生の世界を成り立たせている。

  で、ここで思われるのが、この人間に不都合な状況を如何にして変え、解決するかということになるわけであるが、ここが今問われている次第である。この問題を解決するには、何と言っても、人工によって変容され、成り立っている自然のバランスを元に戻すこと、つまり、問題の元凶になっている暴走状態の核燃料を一日も早く処置すること、これが最も大切なことだと言える。これが処置出来れば、事故の大半は解決される。だが、これに手がつけられないというのが現代技術の限界状況だということである。

  これについては、以前にも触れたが、南方熊楠の「哲学などは古人の糟粕、言わば小生の歯の滓一年一年とたまったものをあとからアルカリ質とか酸性とか論ずるようなもので、いかようにもこれを除き畢らば事畢る」というのと同じで、福島第一原発の状況を解決するにはメルトダウン状態にある核燃料の始末をすることに尽きるということが言える。これを始末すれば事はすべて終わる。

  しかし、原発というのはここのところに手がつけられないから、使用済み核燃料の問題なども指摘され、問題になるわけである。この状況下のままで、いくら派生して起きている問題に対処しても、それはアルカリ質とか酸性とかを論ずるのと同じで、根本的な解決にはならないということになる。汚染水の問題が仮に解決したとしても、元が解決されていない状態では、そこに、また、新たな問題が生じて来る可能性があるわけで、憂慮はいつまでもつき纏って来ることになる。それは、自然のバランスが私たちに不都合な状況を含んだままバランスされた状態になっている上に、その不都合な状況を人工の技術がカバー出来ない状態にあるからである。

  ここで思われるのが、地下水が流れ込んでいる現在の自然のバランスを、人工的にブロックして止めた場合、当然のことながらその地における自然のバランスがそれによって変質を来たし、そのバランスにおいて周辺の環境に影響を及ぼすことになるということが懸念されて来ることである。例えば、地下水のブロックを実施すると、核燃料がメルトダウンしていると思われるところの地盤等に影響を及ぼし、冷却されている核燃料に障るのではないか。流れを遮断された地下水は行き場を失うわけだから、どこかに影響を及ぼすことになるが、それはどうなのか。言ってみれば、そういうことが次々といつまでもつき纏って来ることになる。

  次にタンクの問題であるが、ただでさえ欠陥品であるタンクは、また地震による打撃がないとも限らないというような心配も大いにある。この点なども関係者はどのように考えているのだろうか。思うに、困った挙句、流出も已むなしということで、汚染水は基準以下というような理屈をつけて海へ流すことになるのだろうことが想像される。 だが、となると、濃度如何にかかわらず、海を生活圏にしている漁業者には打撃になり、ここでまた一つの問題が生じて来ることになる。否、既にその兆しは現われている。汚染水を流せば、基準内だということであっても風評被害は当然のこと、免れない。ましてや海は公のもので、他所の国へもかかわることで、難題は尽きないことになる。

  汚染水の問題は、急を要することであるが、地下水のブロックにしても何にしても、自然のバランスにおいていろいろな面から検討を加えて対処することが大切だと思われて来る。地下水の問題は、汚染を食い止めるということに止まらず、その地の環境に及ぼす変化などにも注意を払う必要がある。 何はともあれ、一番の問題はメルトダウン状態にある核燃料であって、これをどうにかしなくてはならないが、その肝心な核燃料がどのような状態になっているのか、それすらもわからないまま事故対応に追われているというのは、実にお寒い話だと言わざるを得ない。  写真は事故が起きる前の福島第一原発 (NHK総合テレビによる)。