大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年09月02日 | 写詩・写歌・写俳

<730> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (35)

     [碑文1]  ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音(かはと)高しもあらしかも疾(と)き      柿本人麻呂歌集

       [碑文2]  巻向の山邊響(とよ)みて行く水のみなあわの如し世のひと吾は              同

 この二基の万葉歌碑は、このシリーズの(28)で紹介した 「痛足河(あなしがは)河波立ちぬ巻目の由槻が嶽に雲居立てるらし」(巻七・1087)と「あしひきの山川の瀬のなるなべに弓月が嶽に雲立ち渡る」(巻十・1088)とともに柿本人麻呂歌集に見える巻向川を詠んだ歌で、碑は巻向川の川筋、桜井市穴師、箸中の山の辺の道の傍とその近くに建てられている。

 巻向川は 三輪山と穴師山の奥に位置する巻向山(五六七メートル)に源を発する川で、箸中で大和平野が一望出来る里に出て、ほぼ南西に下り、卑弥呼の墓説で知られる箸墓古墳の南側を流れ、桜井市の芝運動公園の西で、初瀬川(大和川)に合流する。巻目川、纏向川とも記され、穴師川や痛足川とも呼ばれて来た。それほど大きくはないが、それなりの流量がある川である。

 巻向山(纏向山)は大和の平野部から見ると、三輪山(四五七メートル)と穴師山が前面に位置し、その後方に峰を見せる奥山であるが、万葉人は三輪山とともにこの山に注目したようである。『万葉集』で言えば、殊に、万葉の代表歌人である人麻呂の歌にこの巻向山を望む巻向川の扇状地において詠んだ歌の多いのがわかる。それも、西の大和平野や金剛、葛城、二上の山並に目をやるのではなく、ほとんどが巻向山や三輪山の檜原の方に目線を向けて詠んでいる特徴がうかがえる。

                      

 この辺りに人麻呂の歌が多く見られるのは、当時は通い婚の時代で、この近くに人麻呂の妻が住まいしていて、よく通っていたことによるのではないかと言われる。これを証づける歌が『万葉集』巻二の挽歌の項に見える。この歌については後に別の項で取り上げたいと思うが、天理市中山町の竜王山(五八六メートル)を望む山の辺の道に歌碑が建てられている。

  この妻が幼い子を遺したまま亡くなり、その悲しみを「妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌」と題して長歌二首と短歌五首に詠んでいる。その中の短歌一首が歌碑になっているわけであるが、歌は「衾道(ふすまじ)を引出の山に妹を置きて山路を行けば生けりともなし」というもので、引出の山に妻を葬って山路を帰り来れば悲しみのあまり生きている心地もない」と悲嘆に暮れているのがわかる。なお、「妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌」には長歌三首と短歌七首が一連になり、長歌の一首目の妻は後の二首とは歌の内容から見て別人であると思われるので紛らわしいところがある。

  「引出の山」は巻向山の北方に連なる竜王山で、「衾道」は竜王山の麓の衾田陵付近ではないかと言われる。で、この歌を考慮に入れると、巻向川の辺りは都のあった明日香、藤原京方面からこの妻の許に通うか、この辺りに住んでいて、人麻呂にはこの妻とよく行き来出来、その都度この巻向山や巻向川の風景、また、隣接する三輪の檜原などにも接し、魅せられていたのではないかと想像が広がるのである。

 この件については、桜井市巻野内のJR桜井線(万葉まほろば線)の巻向駅の東側に「カキノモト」という地があり、人麻呂がここに居を構えていたことによってこの辺りを詠んだ歌が人麻呂に多いとみる説がある。つまり、この「カキノモト」は、ここに人麻呂が住まいしていたので、これが伝承され、後世の人が地名にしたのだろうという。言わば、これもこの辺りに人麻呂の歌が多く集中しているところから来ている話で、妻と同居していたという論も展開している。地名の「カキノモト」と人麻呂の住居の一致についてはにわかに信じ難いが、論拠としては傾聴に値する。

 この論を展開しているのは『柿本人麿屋敷考ー人麿は桜井に住んでいたー』(吉岡義信著)で、参照されたいが、どちらにしても、論は人麻呂の歌から推察されたものにほかならず、その歌がこの巻向、檜原に多く集中しているからは、生活実態の如何に関わらず、この辺りが人麻呂にとって極めて関わりの深い所縁の地であったことは間違いなく、それが言えると思う。

  碑文1の歌は、『万葉集』巻七の1101番の歌で、「夜になって来ると、巻向川の流れの音が高い。嵐が烈しいのであろうか」という意である。歌碑は山の辺の道が巻向川の谷間を出て笠方面に通じる道から西に少し下って、穴師集落に入るとっかかりの植え込みの中に作家で詩人の武者小路実篤の筆によって建てられている。

 一方、碑文2の歌は、『万葉集』巻七の1269番の歌で、「巻向山の山辺を、音を響かせながら流れ行く水の泡のごとくはかないものであるよ、この世の我らは」という意である。この諦観したような歌は妻を葬った「引出の山」の悲歌に通うところがある。この碑は笠に通じる道が谷間を出たところ、山の辺の道と合流している地点に、仏文学者の市原豊太の揮毫によって建てられている。 写真は左から碑文1の歌碑、巻向川の小滝、碑文2の歌碑、巻向川の流れと水沫。   古碑の背の 茂みに秋の 点りけり