<1074> 言 葉
言葉とは気圏の翼 羽ばたかば 天使の使命のごとくあるべし
ここに主体としての自分という存在がある。この存在は、意識無意識を問わず、自分以外の客体としての他者にあい対する。主体たる自分は、この客体たる他者と直接、間接に関わりを持ち、その関わりによって感情を得、思惟する存在になる。こういう主体と客体の関係において、この主体というのは自分のみにはあらず、自分以外の客体たるすべての他者にも等しくあるもので、それは数多の錯雑たる関係に及ぶ。そして、その関係性は主体にも客体にも公平にあって成り立っていることが言える。
これが、つまり、私たちの社会で、この社会は、主体が客体としてあり、客体が主体としてもある輻輳した相互接触の関係生によって成り立っている。いわゆる、この社会というのは数多の言葉が複雑に絡み合い、ある種の秩序によって営まれ、互いのさまざまな感情が展開し、その感情に思惟、思考が加えられ、それが相互の様相となって輻輳し、時の経過の上に流動するという構図にある。
その相互の接触に関与し、仲立ちとなっているのが言葉であって、その言葉はいたる方向から発せられる。つまり、主体(自分)は自らの意志、意向を客体たる他者(相手)に伝えんとし、ここに言葉の必要性と働きが認められるわけで、この言葉の関与は往古より連綿と続き、現在へと微妙な変遷を辿りながら受け継がれて来ているものである。
言葉もて埋めんとするに埋められぬこともあるなり我らの器
ところで、私たちは生身であって、完璧な存在ではない。なので、この主体(自分)と客体(他者)は常ながら、十分ではない関係にあるとも言え、常に揺れる心の持ち主として、互いに接しているという存在でもある。で、そこには不安とか悩みとかも生じるところとなって、軋轢なども生じて来ることになる。このような関係性にあるゆえ、言葉は極めて大切であると言える。そして、言葉を伝える方法として文字の発明がなされ、文字を使うようにもなった。そして、私たちが考えたり、思ったりするときは言葉や文字表現によるということがあるわけで、私たちに言葉や文字がなかったら考えはまとまらず、自分の考えを相互するところの相手に伝えることも出来ないということになる。
言葉とは人なり 人は人生を歩む存在 人とは言葉
私は常々、人は言葉をもって考える動物であると思って来た。それを実証することはなかなか難しいが、例えば、次のようなことが言える。岡倉天心(覚三)の『茶の本』について、茶道に通じた人に「いい本ですね」と、感想を述べたら、原文(英文)で読むともっと味わいがあると言われたことがある。英文で読んだことのない私には、比較することが出来ないが、そうかも知れないという気がした。
哲学の本でも、翻訳された西洋のものを読むと、小難しい言葉が羅列して出て来たりして、何のことやらさっぱりわからないということがしばしばある。これなんかを思うに、原文ではもっと分かりやすく書いてあるのではないかと思われたりする。それは『茶の本』と同じだろうと思われる。つまり、西洋人は西洋の言葉や文字によって考え、自分の述べたいことを述べているわけで、日本語に訳すとき、どうしても訳せない言葉や文字がそこにはあることが言えるということである。
そんなこんなで、言葉というのは非常に大切なものであると思われる。『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」には「最初に言葉ありき」と言っているが、それは言葉の重要性をもって信仰心に訴えている宗教上の教示としてあるもの。とにかく、言葉や文字がなければ、私たちは人たり得ないほどであることがわかる。写真は『茶の本』と『新約聖書』。
人生はいろはにほへと言葉もて歩むものたちちりぬるをわか