大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年08月27日 | 写詩・写歌・写俳

<1088> 写真について (2)

        写真の真は時と所の実体を意味する

      時を捉えてないものは写真と言えず

      所を捉えてないものも写真とは言えない

      時も所も特定出来ない写真はあるが

      それは私たちの肉眼の能力において

      特定出来ないまでのことにほかならない

     真を写す写真は真たる時と所の実体なくしては

     成り立ち得ない特性にあるからである

  写真は絵画と異なり、実景を写し取ることに特徴を有している。これは写真技術の進歩とともに認識されて来たことは前述の通りであるが、それを叶えようとするには使いやすいカメラの開発が不可欠で、カメラの性能と写真技術の向上が求められるところとなり、その希求に沿ってカメラや写真技術の開発は進められて来た。ダゲレオタイプ時代のカメラは大きく機動性に欠けるもので、被写体をカメラの前に持って来なければならないようなところがあった。カメラの歴史はまず、この不便さを克服し、使いやすいものにすることから始まった。

 十九世紀半ば、クリミア半島を舞台に繰り広げられたクリミア戦争やアメリカの南北戦争のとき写真が記録の役割を果たしたが、その記録に役立てられたカメラは、絵画では得られない写真独自の表現の道を開いたと言われる。南北戦争の北軍の統帥であったリンカーンは写真を記録に用い、自分自身もその写真に納まっているほどで、報道写真の生みの親とも称せられている。だが、なお、そのときは写真撮影に大がかりなセットがなくてはならず、ドキュメントをこなすには甚だ不便なものであった。写真はそもそも絵画の脇役的存在としてヨーロッパに展開したが、アメリカにその技術が渡り、合理主義的アメリカの風土に接することによって、フイルムの登場とハンドタイプの箱型カメラの登場を見るに至り、写真はその機能を飛躍的に伸ばし、その表現領域を広げていったのであった。

               

 ヨーロッパでも十九世紀末になるとドイツで写真関連の技術開発が進められ、箱型の単玉カメラが登場するなどし、写真は華々しい展開が見られる二十世紀へと歩を進めて行った。まず、一番に登場したのが「二十世紀初頭の巨頭」と呼ばれるアメリカ人の写真家アルフレッド・スティーグリッツで、彼のスナップ手法による作画は写真の本領を発揮したものと言われ、絵画的写真から次の時代への方向性を示したのであった。これはひとえに写真技術の進歩にともなうもので、カメラはいよいよ小型化の時代に向かった。

 一九九九年、イーストマン・コダックが箱型カメラブロー二ーを出し、この時代の主流であった乾板によるカメラと競うことになった。ヨーロッパでもドイツにおいて小型カメラの開発が行なわれ、一九二五年、エルンスト・ライツによって24×35ミリ判の35mmカメラ ライカⅠが出された。ライカは小型で使いやすい堅牢なカメラとしてスナップ写真に好適で、「決定的瞬間」の美学で知られるフランス人の写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンはこのライカを肌身離さず持ち歩き、この愛機によって多くの優れた写真を生み出した。殊に戦争の世紀と言われた二十世紀の報道写真には欠かせないカメラとなり、ほかの写真家ともども大いに用いられ、ライカは不朽の名機としてその名を残したのであった。

 レンジファインダーのライカはこうして一世を風靡したが、ほどなくして、レフレックスカメラが登場し、戦後に至って、一眼レフカメラの革新が見られ、一九四八年、ペンタプリズムと跳ね上がりミラーを使用したアイレベルファインダーの一眼レフカメラが登場し、五〇年代にはカメラメーカーが一眼レフカメラに凌ぎを削るに至った。一眼レフカメラは撮影レンズを通して被写体を見ることが出来るため、ファインダーで見たままを写真に仕上げられる特徴があり、撮影レンズを通さず他の窓から被写体を見るレンジファインダーカメラとは異なり、フレーム(写真の写る範囲)が確認しやすく、超望遠レンズや超広角レンズも使いやすい利点がある。

 その後、自動露出や自動ピントのカメラ、一本で広角から望遠までこなすズームレンズが登場し、撮影と同時に写真が出来上がるインスタントカメラも現われ、大判写真のテスト撮影や締め切り時間に追われる報道写真などに利用されて来た。その後、デジタルカメラの開発がなされるようになり、今世紀に入るころになると、高画素数の競争がメーカーの間で展開され、その結果、報道写真やコマーシャル写真の分野にもデジタル化が進み、今やフィルムレス時代に至り、携帯電話(スマホ)にもこのデジタルカメラが内蔵され、誰もがカメラマンの立場にいる時代になった。携帯電話はインターネットに接続され、通信手段にも用いることが出来るので、誰もが世界に向けて撮影した写真を発信することが出来るようになった。

 多数を対象とした瞬時における双方向のコミュニケーションを可能にした情報通信の革命であったインターネットと軌を一にして写真のデジタル化は進み、パソコンの機能と連動して今やなくてはならないものになった。このデジタル化は銀塩写真からの決別を意味し、写真における革命と言ってよい。なお、写真の歴史を見るに、今一つカラー写真の歴史がある。次にこのカラー写真について触れ、写真の歴史については終わりたいと思う。カラー写真はネガカラ―方式とポジカラ―方式があり、ネガカラ―は加色法の光の三原色の赤、青、緑によるそれぞれの分解版をモノクロの銀塩方式で作り出し、その分解版を重ねて光を当て、実像を作り出すという方式である。ポジカラ―もこの三原色と補色の関係にある減色法の絵具の三原色を利用し、フィルターや発色作用等によって作り出す。

 カラー写真の研究開発は十九世紀ごろから行なわれ、近代的なカラ―フィルムが登場したのは一九三五年のイーストマン・コダックのコダクロ―ムが最初で、次の年にドイツのアグファが出したことで知られる。なお、日本における写真は西洋の模倣から始まり、江戸時代の嘉永元年(一八四八年)にお目見えし、幕末の安政四年(一八五四年)、薩摩の島津斉彬の銀板による肖像写真が最初とされている。カメラは木製の箱型で、外国産のレンズが用いられていた。

 日本の写真は戦後飛躍的に発展し、カラー写真については一九四〇年に国産のフィルムが出されている。なお、デジタルカメラにおいては日本のメーカーは優れており、世界をリードするに至っている。以上、写真の歴史と変遷を大まかに見て来た次第で、次に写真の特性について触れてみたいと思う。写真は左からブレッソンの「英国王戴冠式」。ロバート・キャパの「ノルマンディー上陸作戦」。(以上『世界の写真家』より)。光の三原色の図解(『カラー写真の写し方』より)。カラー写真の例、アケボノツツジ。 ~ 続 く ~