大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年08月22日 | 写詩・写歌・写俳

<1083> 広島の土砂災害に思う

       また被災したる人らが嘆きゐる 嘆きゐるなり 列島日本

 広島におけるこの度の土砂災害は、崩れやすい風化花崗岩の堆積した砂質の山地に想定を越えた大雨が降り続いたことによるという。気象にしても地形地質にしても原因の解かりやすい災害であったということが出来る。多くの死者や行方不明者が出たのは、災害が深夜未明に起きたことによる。これが自然災害というものであろうと認識されるが、この災害が大きくなったのは、一つには人為によることが言え、人災とする見方も出来るように思われるところもうかがえる。

 西日本、殊に広島辺り一帯は崩れやすい真砂土(まさど)の地質にあり、広島市の周辺では以前にも何度か大きな土砂災害に見舞われ、その都度、家屋の倒壊や犠牲者を出し、注意喚起がなされて来た。こうした教訓になる事例が多に及んでいたにもかかわらず、それが生かされることなく、今回の土砂災害は起きた。これはどういうことを物語っているのだろうか。

  それは、山地の急斜面が迫っている山際のところまで宅地開発がなされ、家々が建てられているというこの地域の住宅状況によることが考えられるということである。これは一見、その地域の発展的光景に見えるけれども、発展的状況に乗ずる無謀な開発がなされた結果として起きた災害であるという一面が指摘されるところである。無謀が言い過ぎであるならば、教訓を考慮しないノ―天気と言ってもよかろうか、そういう安易な開発に今回の土砂災害は起因していることが現場の航空写真を見ているとわかる。今回の土砂災害の根本的問題はまずこの点にあると言ってよかろう。

 これは発展の光景にのみ目を奪われ、利便と豊かさを進める中にあって、世の中すべてが安全に対する注意深さというものがなくなり、リスクに無頓着になって、行政も一般住民もこれに追随して来たことが思われる。極端な言い方をすれば、土石流のあった一帯に住宅地が開発されず、家屋がなかったならば、今回のような悲惨な結果にはならなかったということが出来る。

                             

 ここで思われるのが、今回は運よく災害を免れた山際の家々についてである。今回は無事であったけれども、そこに住まいしている住民には、今後の暮らしに不安がつき纏って来るに違いなく、雨が降る度に土石流の心配をしなくてはならなくなる。これに対し、住民はどのような方策を立て得るかであるが、一番よい方法はそこに住まないことであるが、現実にはなかなか難しい。

 ここで、私には福島第一原発の事故後、ほかの原発に再稼働の動きが出ていることに思いがゆく。事故のあった福島第一原発は現在事故の後始末をしている最中で、終息がいつになるかその目途は立っていない。また、事故原因の究明もなされていない。このような状況下にあってほかの原発の再稼働が進められている。安全基準に基づく再稼働であるから大丈夫として再稼働に踏み切るようであるが、事故時の責任体制なども出来ていない状況である。果たして、このような状況下で再稼働出来るのかということが問われるわけで、今回の広島の土砂災害に似るところがある。

 土砂災害の場合は山を切り崩してなくするわけにはいかないので、住民の方がそこから移住する方法が考えられるが、それには個々の思案によるしかない。一旦開発して住宅地になって多くの人が住みついていることで、簡単にことは運ばない。これに対し、原発の場合は廃炉にして原発をなくしてしまうということは出来ない話ではない。一旦、実施したものをなくすることは難しい面もあるが、意志があれば可能である。こちらの方は、リスクの原因をなくすればよいわけである。南方熊楠は言っている。「哲学などは古人の糟粕、言わば小生の歯の滓一年一年とたまったものをあとからアルカリ質とか酸性とか論ずるようなもので、これを除き畢らば事畢る」と。つまり、糟粕をリスクと置き換えてみれば、この熊楠の言葉は原発にも今回の災害にも当てはめて言えることがわかる。

  この二つの事例とも、所謂、世の中の発展過程におけるリスクについての問題であって、このリスクをどのように考えるかということになる。土砂災害の場合で言えば、そこから移住するか、住み続けて、山に防災措置を施すかであるが、想定外のことが自然には起こり得ると見なした方がよいから、当然のことながら、その山に対する完全なる防災は出来ないと見るべきで、これは、原発にも当てはめて言えることだと言ってよい。

  いくら安全基準を満たしているとしても、そのリスクには想定外がつきものである。だからこそ、基準は作っても責任を取るとは言わないのである。この両事例における問題は、一つに選択の問題であるが、原発に全き安全などないのであるから事後処理の出来ない大きなリスクを考えると、止めてしまう勇気が必要なように思われる。自然災害にはどうしようもないところがあるが、人災に類するところについては、人が知恵を出し合って、その災いを回避する道を探ることが求められる。 写真は広島市の土砂災害現場(テレビ映像による)。