<1078> 大和寸景 「東大寺二月堂の舞台欄干」
ゆく夏や 鬼子母神より 二月堂
私の散策コースの一つに興福寺から飛火野、春日大社、春日野、東大寺大仏殿、二月堂を巡る道がある。ところによっては芝地の道なき道を歩く。秋から春にかけてはときに若草山にも足を運び、疲れると中途で止めることもある。適度な運動にもなり、思索も出来る自由な道である。四季に変化の見られるのもこのコースのよいところで、この間も歩いた。この散策コースで目にとまるものがあったので、ここに紹介したいと思う。
東大寺二月堂の舞台欄干の南北両隅に凹みのある部分が見られること。欄干が擬宝珠に取り付けられた上段根っこのところ。私が説明を加えるよりも写真を見ていただいた方が一目瞭然でよくわかる。ここに示した写真は西側隅の欄干部分であるが、波打つ凹みが見られる。諸兄諸氏には既にお分かりであろうと思う。これは修二会本行のお水取りのとき、法要に向かう練行衆の僧の足許を照らす道明かりに運行される大松明を童子が舞台欄干の両隅から突き出して振り回す際、欄干に孟宗竹で作った大松明の太い柄の部分をのせることによって擦り減った凹みである。
お水取りは旧暦二月に行なわれるので修二会と呼ばれるが、近年は三月一日に始まり、十四日間法要が行なわれ、三月十五日に満行となる。この十四日間、毎夜大松明が運行され、十二日目のクライマックスの夜は一段と大きい篭松明が練行衆の数に当たる十一本運行され、十四日の最後の夜は舞台の欄干に十一本の大松明が並ぶ。残りの十二日間は練行衆の一人が準備のために明るい間に堂内に入るため、十本の大松明が用いられる。この計算でみると、一回のお水取りに用いられる大松明の数は百四十二本となり、欄干の両隅で振り回される大松明は百三十二本ということになる。
二月堂は江戸時代前期の寛文七年(一六六七年)、失火によって焼失し、二年後の寛文九年(一六六九年)に再建され、現在の建物はその当時のものであるという。回廊、舞台、欄干も当時のものとすれば、三百四十五年の歳月を経ていることになるので、その間、四万五千五百四十本の大松明の運行によって欄干の凹みは出来たということになる。なお、南側の欄干には添え木が施されている。この回数もさることながら、この欄干の凹みは大松明が勢いよく振り回された証であり、火粉を仰いだ幾千万人かの感動を示す痕とも言える。写真は二月堂の北隅の欄干に出来た凹み(左)と欄干の隅から突き出し掲げられた大松明(平成二十五年のお水取りによる)。