大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年08月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1089> 写真について (3)

            写真は真を汲み取ることにある

     真とはいわゆる真実の真を指す

     私たちは言わば真実の真に憧れ

     それを欲求のうちにもっている

     写真はこの真実の真に関わるが

     真の如何なるに重きを置くかで

     写真のあり方見方は変わるから

     写真の題名や説明は大切になる

 写真の初源が投影された映像をトレースして作画する絵画の手法にあったことは先に触れた通りである。これは絵画におけるリアリズム(現実主義)への指向によるもので、産業革命によって登場を見た中産階級の欲求にも支えられ盛んになっていった肖像画に代表され、進化して肖像写真に現れた。我が国においても、写真技術が伝来した幕末から明治時代の初期には、カメラの性能にも起因するが、同じような状況が写真には見られた。言わば、そこには絵画よりも実像に近い存在の絵が出来上がるという期待があった。つまり、写真の原点は写真が有するこのリアリティーに目が向けられたところにある。

 その後、写真はカメラ、レンズ、感光剤の開発が各方面でなされ、日進月歩、段階的にその技術を伸ばし、二百年足らずで、今のデジタル化の時代を迎えているわけで、これについては前述した通りである。初源の十九世紀は絵画との接点が強かったが、写真技術の向上にともない、カメラが小型化するに至り、写真はその独自性を発揮し、それに魅せられた写真家とともに二十世紀は写真の時代と言ってもよいほど写真が盛んになったのであった。

                      

 殊にそのリアリティーは、絵画の追随を許さず、一つには商業主義や大衆化に迎えられ、一つにはドキュメントを適える方法として評価され、フォトジャーナリズムの分野を開いて行った。中でも、戦争の描写に写真は大きく関わり、写真の記録としての重要性が認識されるに至った。そして、これと同時に写真が象徴としてあることも認識されるところとなったのである。これは写真家の勇気と努力にもよるが、写真の成長の姿でもあったと言ってよい。写真はリアリティーを有する存在であるから、その時々の時代を写し取り、その時代を象徴するものになった。時が過ぎて振り返り見るとき、その写真の象徴としてある意味がよくわかると言え、写真の真が時と所の実体であるということを物語るものであることがわかるのである

 二十世紀は如何にあったか、また、昭和は如何にあったか、このことに思いを馳せるとき、写真はその問いによく答え得ると言ってよい。これはやはり写真の初源のころから気づかれていた写真が写生に等しくリアリティーを有しているからであると思われる。では、ここで写真の特性について私見を少々述べてみたいと思う。 思うに、私には、概して次の五つの特性が写真には秘められていることが言える。記録性、発見性、芸術性、信憑性、象徴性。ほかにも考えられるかも知れないが、概ねこのようではないかと思われる。

 記録性―――写真の多くはこの役目に属するが、殊に記録が有効に働きとしてある写真は調査、報道に関する写真がこれに該当すると言ってよいように思われる。調査や報道には観察が重要で、観察は写真のみによるものではないが、観察に写真は大いなる働きをなす。それは写真に記録性が秘められているからである。

  二十世紀のドキュメンタリー映画制作者で、記録映画の先駆者として知られるイギリス人ジョン・グリーア―ソン(John Grierson)は情報を収集し伝える側にいる者がいかにあるべきかについて次のように言っている。「Observe and analysis. Know and build. Out of research poetry comes.」 と。

  意訳すれば、「ものごとはよく観察せよ、そして、よく分析せよ。その分析に基づいてよく知り、よく認識せよ、そして、その認識したものをよく構築せよ。そうすれば、こうした一連の作業(調査)から美しい詩が生まれて来る」ということになる。つまり、十分に観察し、記録することによって美しい詩が生まれて来るという次第である。ここで言っている詩とは報道の記事に等しく、その意義は大多数の人々に受け入れられる。写真は記録性においてまずは成り立っているということがわかる。

 発見性―――私たちは多くの情報を自らのものにして暮らしている。しかし、その情報は全体からすると微々たるものである。そういう意味で言えば、私たちの日々は新しい情報を常に加えながら暮らしているということになる。この情報の中で、視覚によってもたらされるものは多く、その中でも写真(映像)によるものは結構多いと言える。ここに写真の発見性が認められるわけであるが、ここでは写真の機能に即する発見を指す。これは前述したが、ブレッソンの「決定的瞬間」にも関わるところで、シャッターとシャッタースピードが捉える被写体の瞬間の映像がこの発見性を言うところである。また、未知の被写体にカメラを向けて撮り得た写真などもある。これは写真家の努力によるが、写真の醍醐味でもあると言ってよい。

 芸術性―――感動性と言ってみてもよかろう。これは視覚に訴える美の対象としての価値評価に属する領域の写真で、絵画との対比で語られるところがあるが、写真はカメラのレンズを通して来る光を扱うという特徴がある。カラ―写真の色彩も光の三原色の捉え方にあるから、やはり、光による。その光の捉え方の美しさが、まず、写真の芸術性には関わる。そして、今一点は被写体の有する形や動きの美しさを表現するところより来るものがある。

 信憑性―――信頼性とも言える。写真の真は真実の真であると言って来たが、写真はカメラの能力においてこの真を写し取る。この意味で言えば、写真は概して信憑性(信頼性)を得て、信頼されるに足りている。証明写真なんかがその典型例であるが、その信憑性(信頼性)を悪用して嘘写真を作ることを人間の姑息は時に行なうから、これについては写真を読む力というものを私たちは鍛えてゆかなくてはならないと言える。

 象徴性―――私は報道写真について、記録性もさることながら、象徴性に長けた写真が求められていると思って来た。今もその考えに変わるところはない。嘗て、中国の四川省で大地震があり、多くの校舎が倒壊し、子供たちに多数の犠牲者が出た。そのときの写真に被災して亡くなった子供の鉛筆を握り締めた右手のアップ写真が新聞の一面に掲載された。この写真は部分的ではあるが、遺体を扱った写真であるため、当時、物議を呼んだ。死者の尊厳とか、家族への配慮とか、いろいろと掲載に対する非難の言葉が出た。だが、私にはその非難に疑問が生じた。率直に言って、その写真に感動を覚えたからである。思うに、この写真に疑義を挟んだ論評は、この写真を単なる報道の記録として見たことによるからだと私には思えた。

  この写真は単なる記録ではなく、大地震を象徴した写真として受け止めるべきものと、私には直観され、常識的に見えるこれらの非難が不当に思われた。この写真が象徴としてあるというのは、まず、授業中に起きた震災であること。即死であったろう彼は一生懸命勉強していたのである。これこそ彼の名誉であり、尊厳であって、この写真が尊厳を冒しているという論評は当たらない。

  彼は若い命をむざむざ落としたが、この写真は彼が懸命に生きていたことを実証し象徴したもので、そう受け止めるのが人情であると言ってよい。そして、写真は校舎が手抜き工事によって被害の拡大を招いたという告発をもしており、更に、国の一人っ子政策にあって、子供をなくする親の気持ちをも訴えかけている写真だった。この写真は、報道写真が記録性だけでなく、象徴性をも有し、フォトジャーナリズムの真骨頂がこの象徴性にも裏打ちされていることを思わせた。

 以上、写真について述べて来たが、写真は主に時と所の光を有する実体を捉える作業であり、そのリアリティーに活路を見出して来たことが思われる。写真は左から爆発炎上するドイツの飛行船「ヒンデンブルク号」。暗殺されたキング牧師の葬儀で、娘を慰めるキング未亡人。ヌードと静物。アンドロメダ銀河(230万光年の渦巻き銀河)。  ~終わり~