<1092> 水 底 の 石
ゆく川の流れは何処 あこがれてゐる身の思ひ 水底の石
水は流れる。遡上した鮎たちは流れとともに下る季節。猫柳が銀白色に輝いて見えた春先の岸辺の眺めが懐かしい。今は代わって薄や荻の出番である。子供たちの声は徐々に遠ざかり、夕になるとどこからともなく虫の声が聞こえる。
時は過ぎゆく。間もなく紅葉の季節を迎えるだろう、そこここの山。次は雪の季節。寒風に薄や荻は枯れ萎れ、そして、また、猫柳が芽吹く春の訪れを迎える。空の雲は千変万化。移りゆく定めを思わせる。川の水はその空を映して流れ、止まず流れ、飽きることのない四季の巡り。
流れる水は何処へ流れ下るのか。広い海にあこがれているのだろうか。にぎやかに、また、ときには静かに流れはとめどもない。涯は果して何処なのか。水底の石は呟く。「我は思う身」と。
中島みゆきは歌う。「おまえ おまえ 海まで百里 坐り込むには まだ早い 砂は海に 海は大空に そしていつか あの山へ」と。――「小石のように」あこがれを抱く身がここにも見える。流れゆく水にも言えよう。移りゆく時を抱いているものたち。
小石は山にあっては見はるかす大岩の一片であった。昼は太陽の恵みに与かり、夜は満天の星に語りかけることの出来る存在であった。その一片は大岩を離れ、いつしか小石となって岩を離れ、山を下り、砂になって流れの中。その流れ下るもののあこがれの先は、果たして広い海であろう。だが、まだその先があると中島みゆきは歌う。
水底の石は水の流れを見送りながら、ときに沈黙を破って、そのものたちに声をかける。「俺もそのうち後を追ってゆくよ」と。みんな涙ぐましい存在なのだ。よく考えてみれば、あこがれ焦がれは故郷で、故郷は母の胎内。言わば、水底の石も流れゆく水も等しく人生の裏表。それは長くも短くも時の流れに寄り添いながら生まれ故郷を指す回帰への旅。そうに違いない。「砂は海に 海は大空に そしていつか あの山へ」である。