大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年08月26日 | 写詩・写歌・写俳

<1087> 写真について (1)

           写真はメカによって光を捉え表現するものである

  写真は光を捉えて実景を再現して見せるものである。概ね五つの基本的要素がそこには関わる。一つにはレンズにおけるピントの問題。一つには望遠 広角等レンズの特性とフレーミングの問題。一つにはフィルムの感度における露出の問題。一つには色彩表現に関わって来る色温度の問題。一つにはカメラのシャッタースピードにおけるブレの問題。写真はこれらの問題を克服するのに知恵と労力 時間と費用を費やし、いまはデジタル主流の時代にある。

 このブログには欠くことなく写真を載せているということもあって、少し写真のことを取り上げてみてはどうかという思いに至り、今回は写真について触れてみることにした。写真は十九世紀に発明され、その歴史はまだ二百年にも及んでいないが、現代人の写真に対する欲求は言語にも劣らないほどで、その技術は日進月歩の勢いにある。言うまでもなく、写真は機械装置(カメラ)の光学的メカの働きによって実景を写し取り、それを再現して見せるもので、今や多くの役割をもって利用されている。では、まず、写真の歴史と変遷から見てみたいと思う。写真は絵画と違って、機械装置の光学と化学の応用乃至は電子の技術によって成るものであるから、その歴史は光学と化学と電化にともなう写真技術の歴史であり、変遷であると言ってよい。

 写真は絵画の手法の一手段として、最初はその欲求によって始まったと言われる。それは、十六世紀ごろからとされ、穴を開けた暗い部屋をつくり、その小さな穴から入る外の風景をその部屋の壁に投影させ、その像をトレースして実景に近い絵を描くことを考えた。カメラ・オブスクラと呼ばれる装置で、これが写真の基礎になったと言われる。私は子供のころ、遊び場であった観音堂で、締め切った雨戸に小さな節穴があって、暗い部屋の背後の壁に外の風景が逆さに映っているのを見た経験がある。カメラ・オブスクラはこれに等しいもので、まだ写真にはなり切っていないが、実像をトレースして写し取ったことは写真に近く、写真の息吹に繋がるものであった。

 このカメラ・オブスクラにヒントを得て、一八二七年、フランス人ジョゼフ・ニセフォール・ニエプスが光に当たると硬くなって水に溶けなくなるアスファルトを塗った板を画像投影部に取りつけ、長時間露光によって自宅からの外景を撮った。これが最初期の実験的写真として知られる。その後、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがニエプスの技法を参考にして、銅板にヨウ化銀を塗布し、これに投影する方法を発明し、一八三九年、世に発表した。これがダゲレオタイプと呼ばれる写真術で、この方法はこの銅板に光が当たると隠れた像(潜像)が出来、これを塩水に浸けると像が固まるというものである。この方法では複製を多数作ることは出来ないので、まだ、十分ではなかったが、これが写真の起源と見なされたわけである。

            

 ここから始まったのが、写真技術の一つの要である感光剤の開発で、次に現れたのが、イギリス人ウイリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットであった。彼は一八四〇年ごろ、紙に塩化銀を塗布し、中間的な陰画をつくり、これから別の感光紙に密着させて焼きつけ、陽画を得るという方法を発明した。カロタイプと呼ばれ、紙を用いたため、金属板のダゲレオタイプよりも不鮮明であったが、陰画を何回も使うことが出来ることにより、複製が可能となり、これが銀塩写真の基になった。

 次に、一八五一年、イギリス人フレデリック・スコット・ア―チャ―が、金属板の代わりにガラス板に感光乳剤を施した陰画(ネガ)板を作り、この方法をコロジオン法と呼び、これによってダゲレオタイプの欠点とカロタイプの欠点を克服し、写真の表現力を増し、静物、風景、肖像などを主にしていた絵画的写真だけでなく、記録写真が撮れるほどになった。この方式によって撮影に当たったのが、クリミア戦争を撮ったイギリス人ロジャー・フェントンやアメリカの南北戦争を記録したマッシュ・ブレディなどで、写真は新しい独自の道を切り拓き、報道写真の先がけとして評価され、写真が大衆にも注目されるに至った。これは湿板と呼ばれ、板が乾かない間に処理しなくてはならなかったので、撮影現場に大がかりな用具が必要で費用がかかり、感度の低かったことにもより、戦闘シーンなどの動きのあるものはまだ撮る能力がなく、写真はカメラやレンズ並びに感光剤の更なる開発を待たねばならなかった。

 その後、一八七一年、イギリス人リチャード・リーチ・マドックスがゼラチンに混ぜた感光乳剤をガラス板に塗布した乾板を開発し、工場で生産可能にし、写真の世界を大きく広げた。これがヨーロッパを中心にした初期における写真の発展史であるが、写真の初源に当たるダゲレオタイプによる写真が、十九世紀の産業革命のさ中、ヨーロッパの中産階級による肖像画の需要に応えるべく開発されていったのと時を同じくして、アメリカにもその写真技術はもたらされ、両地域において発展を見ることになった。アメリカでは一八八四年、ジョージ・イーストマンが紙に乾燥ゲルを塗布した紙フィルムを手がけ、イーストマン・コダック社を立ち上げて製造を始め、一八八八年には箱型カメラとセットで発売し、現像サービスのラボを開設し、写真の普及に貢献するに至った。一八八九年には紙からセルロイドに変更し、カメラの小型化やレンズの性能などとともにシ―トフィルムやロールフィルムを可能にして、写真の世界を飛躍させた。

 以上は主に、投影された映像を写し取るフィルム部分の変遷を見て来たわけであるが、その後は感度の優れたものや、カラ―対応などのフィルム開発が進み、最近はカメラがデジタル対応に傾斜してゆく中、フィルムレスが進み、一世を風靡した銀塩写真の世界は姿を消してゆくところとなっているのである。では、カメラの方に目を転じてみたいと思う。  写真は左からカメラ・オブスクラによる風景写真(一八二六年)。ダゲレオタイプカメラ。ダゲレオタイプによる静物写真(一九八七年)。いずれも『写真の技法』より。右端の写真はブレディの「壕の中で死んだ兵士」 (一八六一年・南北戦争)。『世界の写真家』より。     ~ 続 く ~