大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年04月16日 | 万葉の花

<956> 万葉の花 (118) かつら (桂、楓) = カツラ(桂)

          かつら咲く 「花か」と訊けば 「花」の声

        目には見て手には取らえぬ月の内の楓の如き妹をいかにせむ                   巻 四 (632)    湯 原 王

      向つ岡の若楓の木下枝(しづえ)取り花待つい間(ま)に嘆きつるかも            巻 七 (1359 ) 読人不知

      黄葉する時になるらし月人の楓の枝の色づく見れば                     巻 十 (2202)  読人不知

      天の海に月の船浮け桂楫かけて漕ぐ見ゆ月人壮子                          巻 十 (2223)  読人不知

 『万葉集』に樹木のカツラ(桂)が登場する歌は四首で、一首を除き、ほかは「月の桂」の用法によって見える歌である。これは月にカツラが生えているとする中国の俗信によるものである。原文では2223番の歌だけが「桂」の字を用い、ほかの三首は「楓」の字を用いている。「楓」はマンサク科のフウにもカエデ科のカエデにも用いられる字体であるが、カエデの方は誤認によるとされている。『倭名類聚鈔』によれば、「楓」を「乎加豆良(おかつら)」、「桂」を「女加豆良(めかつら)」と説明し、ともに月と抱き合わせで詠まれていることから万葉歌における「桂」と「楓」は同じものであることが言える。

 カツラ(桂)はカツラ科の落葉高木で、大きいものでは樹高が二十数メートルにも及び、株立ちになることが多く、北海道から九州まで分布し、谷沿いなどでよく見られる。山と渓谷社版『樹に咲く花』によるとカツラ属は日本と中国に二種一変種が分布し、カツラ自身は日本固有の樹種という。葉は両面とも無毛の心形で、裏面は粉白色を帯び、秋には黄葉する。落葉するころ微かな香が漂うので、一説には「香出(かづ)」が和名の由来としてあげられている。なお、柄を有する葉は対生する。

                                                

  雌雄別株で、花は葉の開出前に花弁も萼もない紅紫色の雄しべや雌しべが目につく花を枝ごとにほぼ対生してつける。花はフサザクラによく似ているが、フサザクラは花が互生するので判別出来る。雄花と雌花では雄花がよく目につく。『倭名類聚鈔』が言う「乎加豆良」と「女加豆良」はこの雌雄別株を言うものと考えられる。 だが、万葉歌ではその区別はない。 写真はともにカツラの雄花。

 ここで思われるのが、日本のカツラ(桂)が日本固有の樹種で、中国には存在しないということである。つまり、「月の桂」と言われて来た中国のカツラと日本のカツラは異なるカツラではないかということ。これは、この「月の桂」の俗信が中国からもたらされたとき、日本においてはカツラ科のカツラ(桂)に当てたと想像出来る。

 因みに、中国における桂はモクセイ科のモクセイやクスノキ科のニッケイのような香木に当てられ、楓は前述したようにマンサク科の落葉高木で、江戸時代に渡来した中国原産であるから万葉当時日本には存在していなかった樹種であり、また、楓をカエデとすることも誤りであるとされるから、『万葉集』に見られる「桂」も「楓」も文字のみが用いられ、日本特産のカツラ(桂)をもってこれに当てたということになる。

 では、以上の点を踏まえ、湯原王の632番の歌から順に歌意を見てみたいと思う。まず、632番の歌は、相聞の項に見える歌で、「目には出来るけれども、手にすることの出来ない月のかつらのような妹を如何にすればよいのだろうか」という意である。次に、1359番の歌は譬喩歌の項に見える歌で、詠人未詳であるが、男の歌であるように思われる。その意は「向かいの岡の若かつら、その下枝を取り、花を待つ間も嘆いていることだ」というほどになろうかと思われる。下枝も花も女と見なすことが出来る。

 また、次の2202番の歌は、秋の雑歌の項に見える歌で、その意は「どうも黄葉のときが来たらしい。月の中のかつらが色づくのを見ている」となり、2223番の歌は擬人法によるもので、その意は「天の海に月の舟を浮かべ、かつらの櫓をもって月の男が漕いで行くのが見える」となる。