大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年04月15日 | 写詩・写歌・写俳

<955> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (69)

              [碑文]   はるきぬといまかもろびとゆきかへりほとけのにはにはなさくらしも                          会津八一

 会津八一は明治十四年(一八八一年)に生まれ、昭和三十一年(一九五六年)に亡くなった大和をこよなく愛した歌人であり、書家であり、東洋美術史家であった。この歌は、大正十三年(一九二四年)四十二歳のとき出された処女歌集『南京新唱』に初出する歌で、説明によると、詠まれたのは明治四十二年以降で、歌の並びから見て、大正時代初期までの歌と考えられる。歌には「興福寺をおもふ」という詞書があり、自註によると、興福寺は当時衰微していたが、境内に桜樹が多く、諸人の行き帰りでにぎわったと同時に、盛況を誇った天平時代を想起することが出来るという。

 興福寺は藤原鎌足の夫人の鏡王女が鎌足の病気平癒を願って山背国山階(京都市山科区)に建てた山階寺(やましなでら)が起源で、壬申の乱後、藤原京の厩坂に遷され、その地名を採って厩坂寺(うまやさかでら)と称した。それを和銅三年(七一〇年)の平城遷都に際し、鎌足の子藤原不比等が現在地に移し、興福寺と名づけたという。

 その後、藤原氏は天皇家と結びつきを強くする中で、興福寺は権勢を振るうようになり、奈良時代から平安時代へと移った。殊に諸堂宇が成った天平時代は盛況を誇ったと言われる。だが、その権勢は政治を進める側にはやり難いところともなり、「南都北嶺」と呼ばれるように、興福寺を中心とする南都の諸大寺は北の叡山とともに朝廷に強訴する厄介な存在にもなって行った。

 こうした興福寺の権勢の時代は平安時代末まで続くが、武家が台頭し、貴族が衰退するところとなって、武士との間に衝突が起きるようになり、治承四年(一一八〇年)の平重衡による南都焼討ちの騒動が持ち上がり、興福寺をはじめ東大寺などで、堂宇が悉く焼かれた。興福寺はその後再建されるが、何度か火災に遭い、その都度、罹災、再建を繰り返した。そして、江戸時代の享保二年(一七一七年)大火に遭い、またしても、西金堂、中金堂、講堂、南大門等を焼失した。それ以後は再建されず明治時代を迎えた。

                                   

 明治時代になると、今度は廃仏毀釈という災難が降りかかり、興福寺は藤原氏の氏寺でもあったため、春日大社と一体に見られ、僧侶はその職を剥奪され、建造物も二束三文に扱われる始末だった。だが、制度の行き過ぎに批判がもたらされ、明治三十年(一八九七年)、古社寺保存法(のちの文化財保護法)が制定され、古社寺の価値が見直された。これによって興福寺はその難局を凌いだのだった。八一が興味を抱いて奈良、大和に通い、この歌を作ったのはこの約十年後のことである。

  この時代から昭和時代にかけ、奈良、大和は多くの文人たちの訪れを見るようになり、一種のブームのようになって、和辻哲郎の『古寺巡礼』なども書かれた。そして、時代はなお進み、第二次世界大戦の戦中、戦後となるわけであるが、日本の主要都市のほとんどが米軍の空爆によって焦土と化したのに対し、古都の奈良、京都には空爆がなかったため、古社寺などはみな無事に済んだ。これは奈良、京都に歴史的建造物が多く、その価値を米側が認めたからと言われる。

 全土への空襲は戦争が長引いたのが一因だろうが、米側の文化財への評価がなかったならばほかの都市と同様、古都の奈良、京都も焼かれていたろう。で、戦後になって、平和を持続する中で、平成十年(一九九八年)、諸大社寺を中心とする奈良の文化財はその価値を認められ、ユネスコの世界文化遺産に登録され、現在に至っているわけである。その中に興福寺も当然のこと含まれている。

                   

  興福寺のみならず、古都奈良を思うとき、盛衰の波は世の常としてあるけれども、八一のような昔を思う心持ちが歴史を繋いで今日にあるということが思われて来る。また、空爆しなかった米軍の配慮も然りで、広島、長崎の原爆投下をはじめとする全土の空襲にもかかわらず、この古都に対する米側の配慮というものが思われる次第である。興福寺では現在、中金堂が平成三十年(二〇一八年)完成を目指して再建中であるが、寺域に塀など巡らさず、八一が歌にしたように、衆生(市民)が自由に行き交うことの出来る現在の状況を維持してもらいたいものである。

  古都奈良の一番のよさは、広大な奈良公園にあると私は思っているが、この公園は誰もが自由に散策出来る広さをもった空間である。興福寺も東大寺も春日大社もこの一角にある。三条通りから石段を上がり、興福寺を抜けて奈良国立博物館の前を通り、東大寺の参道に出る。または、春日大社への道を選ぶ。または、春日野から若草山に向かうという具合に歩く。そこには自然と歴史の整然とした調和が見られる。今回は八一の碑文の歌碑を見ながら以上のようなことを思い巡らせた。

  なお、この碑文の歌碑は興福寺五重塔の東側、道を隔てた湯屋跡の一角に建てられている。金網越しにうかがうことが出来るが、鹿は入ることが出来ても人は出入り出来ないので碑陰の有無はわからない。結構、新しい碑に見える。   写真上段は満開の桜のもとで花見を楽しむ行楽客ら。写真下段の左は行き交う人でぎっしりの東大寺参道。右は会津八一の「はるきぬとーー」の歌碑。

    奈良の春 うらうらうらら 外人も見え