<960> 訃 報
一時代過ぎしを語る人の死と 廃屋脇に咲きし蒲公英
季刊の社報が届いて見ていると、訃報もうかがえる。「ああ、あの人も亡くなったか」と思う年齢の人がいる一方で、「えっ」と思われる年齢の人もいる。それはさまざまで、勤めていたころの顔が思い浮かんで来たりするが、この四月に送られて来た春季号でもそれがうかがえた。
そして、時は移ろい時代は過ぎて行くものだと、訃報に接しながらそのようにも思われることではあった。享年が九十歳前後とあれば、天寿が思われ、まずまずと言えそうであるが、加えて思うに、人の一生なんて短いものだとも言え、そういう感慨にも至る。
廃屋は誰の住まいであったか、主には運命に翻弄された人生であったのであろうか。果たしてこの家の人たちはどこに移っていったのだろう。この廃屋は暮らす者がいなくなった寂れに寂れた風景であるが、それでも季節は巡り、また春が来て、傍らの草地にはタンポポの花が咲き出すといった具合である。
このタンポポと同じように、人もそれぞれに命を繋ぎ、仕事をつなぎ、暮らしを繋いでいる。廃屋の主もきっとどこかで暮らしを立て、次の代にバトンタッチしていることだろう。明るいタンポポの花を見ていると、そのようなことが思われて来る。写真は崩れかけた石垣の傍に咲くタンポポの花。
過去があり 現在があり タンポポが咲きさかりゐる 未来を点し
少子化と高齢化対になってゐる この世の真っただ中のわが生