大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年04月01日 | 創作

<941> 短歌の歴史的考察  (16)       ~ <940>よりの続き ~

        鄙にあり 都にあり 且つ 集ふあり 歌を思ふに 詞華集のあり

 まず、短歌の隆盛について触れてみたいと思う。現在、我が国の短歌人口(短歌を作る人の数)がどのくらいにのぼるか、定かなところはわからないが、五十万人とも十五万人とも言われる。上下にあまりの差があり過ぎるので、中を取って約三十万人としても、これは多い数である。俳句は小学生なども大いに作っていて膨大な数にのぼり、百五十万人とも言われる。川柳も最近は多くなっているので、我が国独自の定型短詩が如何に愛好されているかがわかる。そして、これはやはり、戦後の状況、つまり、自由を標榜してある社会環境と生活のゆとりから来ていることが察せられる。また、教育の存在も大きいと思われる。

 歌謡曲とかポピュラーとか童謡とか民謡とかは短い歌詞によってあるが、半ば以上は音楽がその魅力を担っているから、短歌や俳句のように純然たる言葉の力が示されているわけではない。この点を考慮すれば、短歌形式や俳句形式の短詩の親しまれ方は、他の国に例を見ないものと言ってよいほどであることがわかる。この親しまれ方は日本語が有する五七あるいは七五の韻律に負うところと見てよく、この短歌や俳句は、この考察のはじめに述べた須佐之男命の歌の通りで、この日本語の特徴から必然的に生じて来たものと考えられる。

 短歌には以上のような環境の土壌があって、次のことがその隆盛に関わって来たと言えるように思われる。それは近代短歌にも見られた結社とその機関誌の存在で、まず、これがあげられる。明治時代には数えるほどしかなかった結社とその機関誌は今や七百以上、もっと小さなグループを含めれば、千を越えるのではないか。その活動は全国津々浦々に及び、そこを拠点に作歌がなされ、作品の発表が日々行なわれている。もちろん、結社に所属しない一匹狼的な歌人もいるが、この結社が短歌の世界を支え、そこに属する歌人たちが短歌の世界の牽引役になっていることは間違いないところである。

 これに角川書店の『短歌』や短歌研究社の『短歌研究』、現代短歌社の『現代短歌』などの短歌総合誌があり、新聞各紙が設けている投稿による新聞歌壇がある。また、テレビではNHKが短歌や俳句に力を入れているのがうかがえる。いわゆる短歌ジャーナリズムと言われる分野で、この分野の働きも大きいものがある。また、インターネットを活用したネット短歌が若い人たちに支持され、広がりを見せているのが最近の短歌事情として見られる。

             

 また、現代歌人協会、日本短歌協会、日本歌人協会といった歌人の団体による短歌祭などの催しによって短歌の盛り上がりが見られ、各地に記念館としてつくられている短歌関係の文学館による短歌作品の募集などがあって、現代短歌の世界は活況を呈しており、商業ベースで見ても、一つの事業として定着しているところがうかがえるほどである。こんな中で、宮内庁が主催する歌会始めが厳然と伝統に則って存在するところが短歌の短歌たる存在を示していることが指摘出来る。天皇、皇后の御歌とともに選ばれた歌人の短歌が披講されるというもので、毎年お題が出され、一般国民からそのお題に沿って短歌が募集される。明治期よりある伝統の宮中行事で、これは一つの国民性としてある伝統的短歌の意義を示すものと言える。

 次は口語による短歌の出現について触れたいと思う。日本語には古い時代からある文語と新時代、主に戦後になって用いられるようになった口語による文字表現がある。これは文法の旧と新をはじめとし、仮名遣いの旧と新、字体の旧と新とともに短歌が変化を来たして現在に至っている現われを言うものである。口語の使用は、西洋詩の導入に刺激されて模索された明治期に見られ、作歌の主題を生活に求めた大正期の歌人にも一時期口語に傾斜した者がいた。だが、定着するほどには至らなかった。

 それから太平洋戦争の敗戦を機に、いよいよ著しい欧米文化の導入が進み、外来語が氾濫するに至り、文章も縦書きから横書きに移り、文語にこだわるのは伝統に則った短歌や俳句くらいになって来た。そこに戦後教育の影響を受けた若い歌人たちが登場するようになり、口語短歌が短歌の世界へ違和なく入り込んで来ることになった。

  そのきっかけを作ったのが、バブル景気さ中の昭和六十二年(一九八七年)に出された俵万智の第一歌集『サラダ記念日』であった。角川短歌賞を受賞した直後で、伝統的な詩形の短歌がもっとも最先端を行くコピーライターたちに衝撃をもたらしたという宣伝文句を加味してたちまち冊数を重ね、ミリオンセラーになったことによる。その凄さは、五月八日に初版が出され、八月三日には七十二版を重ねたことである。この口語表記の歌集が短歌のその後に大きく影響し、短歌の口語への傾斜に拍車をかけたのであった。

   「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

   大きければいよいよ豊なる気分東急ハンズの買物袋

 この二首を見てもわかるが、『サラダ記念日』には外来語の片仮名表記が目立って多いことに気づく。これはこの時代の反映、つまり、欧米文化の影響下の産物であり、二番目にあげた「東急ハンズ」の歌にあってはバブル期をよく表している歌で、その時代精神を写している歌と言え、明治時代末期から大正時代初期に出された石川啄木の第一歌集『一握の砂』や遺歌集『悲しき玩具』に似るところがうかがえるのである。

 ともに、卓越した感性によって時代を写し取り表現した歌人であるが、その歌には隔世の感があり、万智の短歌はまさに戦後日本の歩んで来た道における一つの頂点にあった時代に詠まれたもので、その時代とその感性、そして、外来語の片仮名表記に適合する口語がぴったり一致して評価されたことが分析出来るのである。

 戦後の短歌は難しい言葉や言い回しを駆使して象徴主義的傾向にあったことにもよって、わかりやすい口語短歌の出現は多くの目を瞠らせたのであった。で、短歌の口語化は、以後、堰を切った濁流のように広がりを見せ、今や口語によって作歌を行なう歌人が増えている次第である。そして、万智が示したように感性を第一義として気軽に短歌を楽しむ風が、殊に若い歌人の間で見られるようになった。これは一つに俳句や川柳にも言えるが、短歌の大衆化ということではなかろうか。

 ネット短歌もその一つで、時代の流れを感じさせる。だが、短歌を作る人が増えれば、粗雑な作品も見られるようになるのは自然なことで、それはいずれの分野にも言える。で、その質が問われ、短歌や俳句に対してもの申す批評家も現われることになるわけである。これは戦後間もない時であるから問題の質が異なるかも知れないが、誰でも作れる気安さがあるゆえに低級と見なされる向きも出るわけで、芸術論をもってこれを批判した桑原武夫の短歌、俳句に対する第二芸術論なども現われることになった。この論が如何なるところから生じ、如何なる者へ発せられたのか、この論は短歌にとって重要な意味を持つので、少々反論めくが、次に触れてみたいと思う。 写真はイメージで、実り。