大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年04月10日 | 写詩・写歌・写俳

<950> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (68)

        [碑文1]          吾妹子を去来見山を高みかも大和の見えぬ國遠みかも                                  石上麻呂

        [碑文2]            白雲に峯はかくれて高見山見えぬもみちの色そゆかしき                               本居宣長

 今回は大和と伊勢を結ぶ街道の国境(現在の奈良三重県境)に当たる東吉野村の高見山(一二四八メートル)付近の旅の途において詠まれた古歌の碑二基について触れてみたいと思う。この街道は伊勢街道の一つで、紀州にも繋がっていたので和歌山街道とも呼ばれる。この国境は峠越えの難所であったが、往古より往来が見られ、歌にも詠まれた次第である。

  碑文1の歌は『万葉集』巻一の44番に「石上大臣の従駕にして作る歌」の詞書によって見える歌で、「右、日本紀に曰はく、朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔の戊辰、浄廣肆廣瀬王たちを以ちて留守の官(つかさ)となす。ここに中納言三輪朝臣高市麻呂その冠位(かがふり)を脱きて朝(みかど)に上(ささ)げ、重ねて諌めて曰はく、農作(なりはひ)の前に車駕(きみ)未だ以ちて動くべからず。辛未、天皇諌に従はず、遂に伊勢に幸す。五月乙丑の朔の庚午、阿胡の行宮(かりみや)に御(いでま)すといへり」という長い左注をともなっている。

                             

 左注等によれば、朱鳥六年(持統六年・六九二年)三月、持統天皇は伊勢神宮に赴いた。このとき随行した石上麻呂が大和と伊勢の国境にある去来見山(いざみのやま)の峠越えをしたとき、遠くまで来たという感慨に浸って、都の留守宅を思い浮かべ、この歌を詠んだというものである。去来見山は去来(往来)する旅人が見上げた山、或いは旅人を見守る山という意の名であろう。今の高見山だとされる。

  現在は国道一六六号の高見トンネルを車で数分もあれば抜けることが出来るが、歩く旅であった昔は峠を越える旅人には遥かなる道のりであった。その旅の国境越え、歌の意は「留守宅の妻を思うが、いざみの山が高いからか、それとも遠くまで来たからか、大和の国の見えないことではある」というもので、この歌には、旅の途上の気持ちがよく現われている。

  一方、碑文2の歌は、江戸時代の国学者本居宣長が詠んだものである。歌碑の説明によると、宣長は父母の吉野水分神社への祈願によって享保十五年(一七三〇年)、伊勢国松阪に生まれた。家業は木綿商であったが、これを引き継がず、京都で医学を修め、帰郷後、松阪で医業の傍ら、古典の研究に取り組んだ。三十四歳のとき、江戸の国学者賀茂真淵に出会う機会を得て門弟になった。それ以後、『古事記』の研究に専心し、三十五年後の六十九歳にして『古事記伝』四十四巻を成し遂げた。その間、全国より訪問者や入門者が訪れ、六十三歳のとき、紀州藩徳川家より藩主へ学問を講じる要請があり、紀州藩お抱えの学者になった。

                 

  この歌は、このような経緯により、松阪から紀州へ初めて赴いたときに作られたもので、この紀州に向かう伊勢街道の一つである和歌山街道の高見山の峠を越え、東吉野村に入ったとき詠んだとされる。寛政六年(一七九四年)六十五歳の晩秋のことで、その日は天候がよくなかったのか、山の頂は雲に被われ、紅葉も見えなかった様子が歌にうかがえる。だが、その風景もまた宣長には印象的に映ったのだろう。まだまだ遠い旅路を歌に慰めたというところである。

  宣長にはこの和歌山街道を辿るしかなかったが、持統天皇には伊勢本街道を避け、何故、難所続きの高見山の山中越えを選んだのだろうか。思うに、左注が言うように、農繁期の忙しい時期に当たり、重臣たちから反対され、行幸があまり目立たない山中の道を選んだのではなかったか。天皇にはそのようにまでして参宮する必要があった。それは、孫に当たる後継の軽皇子を次期天皇に置くことがあった。こうみると、女性の身には厳しいこの山中の峠越えも納得出来る。復路はどうであったのか。

  この国境の旅情を思うに、持統天皇の一行は東に向かい、宣長は西に向かって去来見山(高見山)の峠を越えて行った。ということで、石上麻呂の万葉歌碑は、高見山山頂の神武東征ゆかりの高角神社の祠の傍に建てられ、宣長の歌碑は高見山登山口の一つである大峠(高見峠)の広場の一角に建てられている。 写真は上段左が石上麻呂の万葉歌碑、右が宣長の「白雲に――」の歌碑。写真下段は均整の取れた山容を誇る国境の山である高見山(木津峠付近から写す)。  萌ゆる木々 その香を抱いて 高見山