大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年04月08日 | 写詩・写歌・写俳

<948> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (67)

              [碑文1]        よし野にてさくら見せふぞ檜木笠                                            松尾芭蕉

             [碑文2]             花ざかり山は日ごろの朝ぼらけ                                            

 伊賀上野の人である松尾芭蕉は延宝三年(一六七五年)三十二歳にして江戸に出た。だが、江戸に居を移してからも一庵に籠ることなく、よく江戸を出て行脚の旅をした。帰郷もよくし、合わせて大和へも足を運び、何回か訪れ、各地を巡っている。目的はいろいろあったようであるが、その旅は門人とつれなうことが多く、芭蕉の人柄が偲ばれるところである。

  また、芭蕉には門人や弟子が各地に点在していて、そこを頼りにしたことも頻繁に行った行脚の旅を可能にしたように思われる。一方、芭蕉は歴史に造詣が深く、歴史に寄せる思いが強かったからであろうか、名所、旧跡を辿る旅の多かったことも言える。その名所、旧跡の一つである吉野山には二度ほど訪れている。この項では、この芭蕉の吉野山における桜の花の句碑にスポットを当ててみたいと思う。

  年譜によると、吉野山を訪れたのは、まず、貞享元年(一六八四年)四十一歳のときで、落葉する秋であった。奥千本の最も奥深いところにある西行庵旧跡や中千本の如意輪寺、後醍醐天皇御陵などを訪ね、『野ざらし紀行』等にその記事や句が載せられている。二度目は貞享五年(一六八八年)四十五歳のときで、前年の十月に江戸を発ち、郷里の伊賀上野で越年した後、三月十九日に門人の坪井杜国とともに吉野などに向った。このときの旅については『笈の小文』に見えるが、吉野へは吉野山の花見と西行庵旧跡の再訪が目的だった。

                                               

  という次第で、芭蕉の吉野山に関する句は秋と春に限定されていることがわかる。で、今回とり上げるのは、その後半の四十五歳にして吉野山の花見に出かけた貞享五年の句で、この度、その句碑の探索に出かけた。吉野山は史実に彩られ、それにもよって、歌碑や句碑の多いところで、芭蕉の句碑も幾つか見られるが、吉野山の桜の花に関わる句碑は冒頭にあげた碑文1、2の碑に限られているようで、この二基しか確認することが出来なかった。

  碑文1の句は、『笈の小文』に登場し、前述の通り、貞享五年三月十九日、杜国をともなって吉野に向かい、伊賀上野を出立したとき詠んだもので、前文によると、出立に際し、芭蕉が「よし野にて櫻見せふぞ檜木笠」と詠み、この句を笠に書きつけた。これに倣って、万菊丸と童子の名を自分につけて芭蕉の旅に同行した杜国が「よし野にて我も見せふぞ檜木笠」と呼応して詠んだ。で、『笈の小文』には「乾坤無住同行二人」の題詞によってこの二つの句が並べられて見える。

  多分、杜国もこの句を自分の笠に書きつけたのであろうと想像される。旅は道連れ、師匠と弟子の二人、まさに風流の趣向による出立であった。いつも旅をともにする檜の網代笠に「お前さんにも名高い吉野の桜を見せよう」と言いかけている気分の句で、何とも微笑ましく、旅を楽しまんとする二人の様子がうかがえる。

  碑文2の句は、『泊船集』に「よし野」、『蕉翁句集』に「よし野にて」と題して見える句で、その意は、「桜が今を盛りに咲いているが、その花に関わりなく、朝は明けて来ることだ」というもので、この句には単なる桜が咲き満ちる山の自然を言うに止まらず、そこに暮らしている人たちの様子までが、言外に想像出来る句であることがわかる。

                

  吉野山の桜の花を詠んだ句は、ほかにもう一点、「しばらくは花の上なる月夜かな」という句が貞享五年吉野の作として『蕉翁句集』等に見える。この句については碑になっているかどうか定かでない。多分、句碑は存在しないと思われるが、芭蕉の句碑は作られた年代が江戸時代に遡り、自然石を用いた小さな碑が多いため、風化によって文面が読み取れないものが多く、よって確認出来ないところがある。調べる側の能力不足にもよるが、これが芭蕉の句碑の実情であり、はっきりしない点になっている。

  因みに、『笈の小文』によると、貞享五年の吉野山の花見に三日滞在している。だが、それにもかかわらず、昔の名だたる歌や句ばかりが脳裡に浮び、「われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたる、いと口をし」と自分の句が思うように作れないもどかしさを言っているから、碑文2などの句と矛盾めく。この『笈の小文』の言質からすると、『笈の小文』に出て来ない上述の二句は旅の後で思い浮かんで詠んだ句なのかも知れないと思えたりもする。

 また、『笈の小文』の吉野山「苔清水」の記事の前に、「櫻」の題で、「櫻がり奇徳や日々に五里六里」など桜の詠み込まれた三句が並べられている。この句は「花見のため殊勝にも日々五、六里歩いていることだ」という意であるから、吉野山の句と見なせなくもないけれども、そのすぐ後に、「いたづらに口をとぢたる」と言っているので、吉野山での句ではないようにも思われ、解釈に難しいところがうかがえる。

  芭蕉の吉野山の桜に寄せた句は以上のようであるが、碑文1の句碑は吉野山の入口に当たる大駐車場と下千本が見渡せる展望地との中間地点の道の傍に建てられている。大変眺めのよいところであるが、句碑は注意深く見て歩かないと、風化が進み、かろうじて下五の「檜木笠」が読める程度で、碑とも思えないほどの句碑である。

 一方、碑文2の句碑は、碑文1の句碑から二百メートルほど歩いたところにある芭蕉塚の一角に建てられている。この句碑も上句の「花ざかり」の冒頭の「花」の一字のみが確認出来る風化の著しい碑で、見ていて何か痛ましいような趣の句碑である。だが、これが芭蕉の句碑の特徴で、芭蕉の人柄を彷彿させるようなところが感じられ、愛しい気持にもさせられるのである。

  それにしても、とにかく花の吉野山はその昔から天下の吉野山である。花の時期には人も満ち溢れる。今年もその花の時期。吉野山は今まさに満ち溢れる花と人に被われ、春爛漫の季である。 写真の上段は左が碑文1の句碑、右が碑文2の句碑。写真の下段はヤマザクラが満開の吉野山中千本付近。   花に花 なにはともあれ 吉野山