大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年04月11日 | 写詩・写歌・写俳

<951> 写真の視点から探るSTAP細胞問題

           小さな真実の積み重ねが

              大きな真実を成り立たせている

     大きな真実は小さな真実が

              言わば 内包された姿である

     例えば これを実証しているのが

              私たちの人体であり 生命である

       日々 口にするものを見よ

             小さいものたちが 膳に上る

             ものも言わず 抵抗も見せず

             そこには 真実の真の姿がある

      その真実の真の姿に支えられて

      私たちの大いなる生命の真実はある

  今日は写真の視点からこのところ話題になっているSTAP細胞の問題について考えてみたいと思う。その前に、写真の特性について述べておいた方がよいように思われるので、それに触れた後、本題に入りたいと思う。以前 「 写真とは 真を写すといふ意なり 真とはつまり 真実の真 」 という歌を披露したことがあるが、写真というのはカメラの能力において真を写すものであると言ってよい。

  けれども、私たちの能力ではその写真の真が読めず、写真を見誤ることが往々にしてある。このカメラの目に対する信頼性を利用するがごとき、写真の悪用が行なわれるケースが間々起きるが、これはやはり、私たちの眼力、即ち、能力がないことの現れと見てよかろう。では、この「写真とは真を写す」という意を念頭におきながら、このSTAP細胞の論文の問題に触れてみたいと思う。

 私は常々、写真について大きく三つにわけてみることが出来ると思い、写真展なんかでもよくその思いによって見ることがある。一つにはレンズの絞り優先、即ち、露出に重きをおいて撮る写真がある。風景写真や静物写真がその典型であるが、これは光線の加減を考慮して美しく仕上げることを価値の第一に置く写真である。三脚を用いて大型のカメラで撮る写真はこの部類に入る。

                 

  次に、シャッタースピード優先に撮る写真がある。スポーツ写真やスナップ写真がこれに該当し、報道写真もこの部類に入る。被写体の決定的瞬間を捉えて表現する写真で、小型カメラが登場し、その役割を発揮し始めた。今では携帯電話(スマホ)にもカメラが装着される時代になり、この写真の世界は一般に広く用いられるようになった。

  これに加え、今一つには、発見を第一義とする写真がある。この写真は未だ誰も捉えたことのない珍しい被写体の写真である。秘境の写真がその典型であるが、肉眼の限界を越えたところの被写体を捉えるという特徴があり、マクロ(宇宙)からミクロ(細胞)までその被写体は千差万別であることが言える。この部類の写真には「発見」の歓びがつきもので、今回のSTAP細胞に関する論文に添付された写真もこの部類に入る。説明では画像と呼ばれているが、コンピュータによる一種の写真であるから写真と言える。

 もちろん、写真の評価として言えば、この三つの要素がすべて盛り込まれていれば、写真として完璧なものになるが、それは極めて難しいものである。だからどの要件に価値の重点をおいて写真を撮り、見るかである。そして、このような写真を理解する上でもっとも重要なのは、先にも触れたが、写真は真を写すけれども、その真が私たちの能力では見えずわからないということが往々にしてあるという認識を持っていなくてはならないということである。

  この認識に注意散漫になれば、そこに問題が生じて来ることは否めない。例えば、撮影者が自分でサンゴに傷をつけ、誰かが傷つけたサンゴと偽って写真にし上げ、報道したサンゴ礁事件というのがあった。この事例は、写真が真を写すゆえに嘘をも本当にしてしまうということになったわけであるが、そこには写真の真を読み解けない人間の目の能力不足が言えることになる。

  写真を美的な感覚のみの評価において見るような写真であるならば、まだしも、真実を追求しなくてはならない報道写真では許されないことは言うまでもないことで、真(真理)を探求する科学写真においてもこの種のご都合主義は通用しない。今回のSTAP細胞論文の画像写真の件にも当てはまる。

 この写真が有する特性より見るに、この点が一つ問題として指摘出来る。そして、今一つ、こちらの方が今回の件では問題が大きいと思われるが、それは、やはり、画像写真の解読能力の問題がそこには明らかに横たわっているということである。説明では黄緑色に着色された画像上の細胞がSTAP細胞であるという。それがSTAP細胞かどうかということは、言われてはじめ「そうか」と納得させられるものであるが、そう言われても、なおわからないのが門外漢の一般人である。

 ここで問題になるのは、それが確実にSTAP細胞だとわかるのは論文を書いた実験者だけだということになり、そこのところが極めて曖昧であるのが、記者会見などでも指摘された。実験者本人はその画像写真の主がSTAP細胞であると認識し、信じているが、人間の眼力の能力においてカメラの目が捉えた真の主がSTAP細胞以外のものではなかったかという疑問符にも行き当たるわけである。

 だから、この問題を解決するには、実験者一人だけでなく、複数の目によって再度それを確認すること以外に方法はない。このSTAP細胞の写真を見る限り、このことが言えるように思われる。もっと疑義をもってこの問題を見るならば、理研という組織の人間関係が高じて起きた騒動ではないかということも思えて来るのである。

  このSTAP細胞の論文におけるいざこざは、未確認物体様のものが空なかに見え、UFOに違いないと騒いでいるのと似ている。何か、実に稚拙なやり取りが見えて来るのである。実験によって二百回以上もSTAP細胞を作り得たというのであれば、その二百回分の実験データを示せばよいことであり、そのデータに沿って再度実験してSTAP細胞を作り出せばいいわけで、この問題の解決にはこの方法しかないと言ってよかろう。

  写真は真を写しているから、写真だけはその真偽の真相を知っている。しかし、その真相を、今回の場合、写真から読み解くことが私たちに出来ず、科学者にも半信半疑で不確かにあり、騒動は納まりを示せずにいるのである。 写真はカット。左からエドワード・ウエストンの「砂丘」、デビッド・シーモアの「モンテ・カシーノの孤児院」(以上は重森弘淹著『世界の写真家』)、雪片の拡大写真(恩藤知典編著『理科事典』)。