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Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

見果てぬ夢

2022年02月11日 | Weblog

「立派な人間になりたい」という思いの有無が、社会にとって大きな意味や影響を持つのだと思います。そうした思いが、一人の人間の学び方や生き方に大きな影響を与えていくからです。

しかし、「立派な人間とはどのような人か」がわからなければ、そうはなれません。

だから、歴史上の偉大な人物たちの足跡を学ばなければなりません。

立派な人間とは、社会の発展や平和、科学技術の進歩など、社会のために力を尽くして下さった人たちのことです。つまり、多くの人々のために、社会の課題を解決し、社会に貢献した人たちです。

ということは、社会の課題について知らなければ、自分が今の時代に何をすべきかは見えて来ず、立派な人間にはなりようがないということです。

だから、本を読み、歴史上の人物に学ぶことや、新聞を読み、今の社会の課題について知ることが大切なのです。

それが面倒で、自分の享楽のことしか考えていなければ、立派な人間になろうなどと思うことは無いと思います。

立派な人間になりたいと思っても、なかなかそこに到達できるものではありません。いわんや、そう思わなければ、近づくこともできないと思います。

そうした心の持ち方が、今日の日本社会の停滞を招いているのかもしれません。

立派な人間になりたいという、見果てぬ夢を追い続けることを忘れてはならないのだと思います。

 

 

 

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気高さとは

2022年02月11日 | Weblog

「子曰く、人の己を知らざることを患(うれ)えず。人を知らざることを患うなり」

「孔子が言った。他人がこちらの真価を知ってくれなくとも、気にかける必要はない。それよりも、自分が、他人の真価を認めないことを心すべきである。」(『論語抄』史跡足利学校版訳)

この言葉は、折に触れて思い出される言葉です。

孔子はその門下生がどんどん諸侯に召し抱えられるようになりながら、自らは不遇の日々が続きます。

特に、57歳を過ぎてから、69歳で魯の国に戻るまで、孔子は召し抱えられることもなく、時には飢え、時には命の危険にさらされながら、諸国流浪の旅を強いられました。

その人生の辛酸を思うとき、「子曰く、人の己を知らざることを患(うれ)えず。人を知らざることを患うなり」という言葉が、孔子の口から出ていることに、私は深い畏敬の念を抱きます。

自分が他人に認められたい、自分が他人から評価されたいと願う思いに凝り固まった人が多い昨今、「他人に認められなくても良いじゃないか。それより、自分が他人を認めてあげられる人であることが大切だよね。」と、苦境の中で思える孔子の心の強さと大きさを思います。

他人にどう思われるかは、自分の力ではどうにもできないことです。それに一喜一憂しても仕方が無いことなのです。

ただ、自分は、他人の素晴らしさを心から理解できる人間でいよう。

人間の心の醜さを知りながら、それに塗れず、それに囚われない、孔子の精神の気高さに涙が溢れる思いがします。

 

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努力について

2022年02月10日 | Weblog

フィギュアスケートの羽生結弦選手が4位に終わりました。心から健闘を称えたいというのもおこがましいのですが、以下の記事を読んで感じたことを。

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反省

2022年02月08日 | Weblog

ブログを読み返すと、強気すぎたり、弱気すぎたり、まだまだ私は人格未熟だなぁと思うことが多々あります。

酔っ払って書いたときのブログなど特にそんな気がします。

でも、消さずにいるのは、そのままの私を反省し、改善し、より高いところへたどり着けるように学び続けていこうと思うからです。

言い訳すれば、このブログは徒然なるままの呟きなのですから、お許しいただけたらと思います。

いつかは立派な人間になれるように努力し続けます。

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人生の楽しみ

2022年02月07日 | Weblog

一日の目的がなければ、何となく一日は過ぎていきます。

一年の目的がなければ、何となく一年は過ぎていきます。

何年もかかって実現できるように大きな目的がなければ、一日の目的も、一年の目的も、刹那的なものになり、刹那的な時間で終わってしまいます。

だから、人生の志を持つことが大切だと私は思います。一歩一歩を踏みしめるように、一日一日を生きていくのです。

志を立てるためには、四つのことが必要です。

1.読書、2.師友、3.逆境、4.感激

この四つのことをやるには当然のことながら時間が必要です。

一冊の本を読むことだって、良き出会いを得てその人から学ぶことだって、逆境の中での心の持ち方を磨くことだって、感激を与えてくれるものとの出会いだって、多くの時間が必要です。

同時に、自分と向き合うことが必要です。自分は何者か。自分の強み、弱みは何か。自分は何がやりたいのか。何を達成できれば満足なのか。

当然のことながら、志を立てることは簡単なことではないとも言えます。

しかし、自分が好きなことが人生の早い段階で見つかった人にとっては、さほど困難なことではないのかもしれません。

ただ、志は自分自身のものですから、他人に流されたりしていては、立志が覚束なくなることもあるでしょう。だから、そこには不羈独立の精神も必要です。

しかし、四つのことを意識して生きていけば、いつか必ず自分の人生のテーマ、志は見えてくるものだと思います。

志ある人生の方が、絶対に楽しく豊かだと思います。少なくとも私はそうです。志を立てるということは、何も堅苦しいことではありません。楽しくパワフルに、そして、豊かに生きるための大きな支えを持つことです。

今、学校が制度疲労を起こし、学ぶ目的もなく、受験にしか使えないような勉強をさせられ、無気力な人生を送っている子どもたち、若者たちも多いと感じます。

みんなが楽しく生き生きと人生を生きていって欲しいと思います。そして、幸せであって欲しいと思います。

だから、私は志の大切さを子どもたちにも伝え続けていきます。

自分の会社と共に生きている私には定年はありません。また、本来、教育者にも定年などないと思います。公務員や勤め人に定年があるのであって、教育を志す人間が、自分で定年を決め込むというのは、それほど教育に思い入れがなかったということでしかありません。

だから私は死ぬまで教育を続けます。いいえ、教育しているなどとは、おこがましくて言えませんから、子どもたち、周囲の人たちと、共に遊び、共に学び続ける人生でありたいと思います。

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苟安を事とすることを恥ずる

2022年02月06日 | Weblog

「随(したが)って苟(いやしく)も文明国たるものは苟安(こうあん)を事とすることを恥ずる。言うまでもなく、苟安を事とするとは、単なる生存を謀ること。ー無理想ー迷執の生活を意味するからである。」

山鹿素行の中朝事実の序文には、我が国を中華として(中華とは文明の中心にあるという意味)考えるということが書かれており、それが、吉田松陰の「華夷の弁」の考えへと繋がっています。

つまり、人として生をうけたからには、ただ生きているだけではだめだ。何のために生きるのかということを明確にしなければ、禽獣と変わらぬということです。

文明国の一員であることの意味とは、お金持ちになり、贅沢をすることではない。生きる意味を見いだし、理想を掲げ、世のため、人のため、後世のために力を尽くすということだというのです。

何の目的もなく、漂うように、酔生夢死の人生を生きることを恥とするということを、江戸時代の山鹿素行は思い、吉田松陰もまた考えていました。

時代が進んで、私たちの社会は文明化されたと言いますが、科学技術は進んだとしても、人間は本当に進んでいるのだろうかと思います。

これほど端的に、明確に、人間の生きる意味を言い表していた先人たちの考え方と生き方と共に、私も生きてみたいと思います。

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教育的価値

2022年02月06日 | Weblog

一人の教師として、世の中に何を遺せるのか。それをずっと考えてきました。

県立高校の教師を辞めてから、教師としての本当の人生が始まったのだと思います。

20年近くの時が流れ、自分の選んできた道はこれで良かったのだと思います。正しかったかどうかはわかりませんが、少なくともこれで良かったとは思います。

退職して、全ての世間的肩書きは一旦白紙に戻り、0から歩み始めるということは、肩書きというものに対する考え方が変わるということでもあったのだと思います。

今までは、組織に属し、組織に貢献し、組織に与えられるものが肩書きでした。組織の評価が自分の肩書きの評価に繋がっていくものでした。

しかし、独立してからは、自分の肩書きへの評価は、自分で歩んできた道程で決まっていくものに変わりました。私の学びと、努力で、一歩一歩、信頼を勝ち取っていくしかないのです。

つまり、肩書きの価値を決めるのは自分でしかないのです。

勿論、多くの方に支えられての教育活動ではありますが、私を支えてくださる経営者の皆様の社会的評価と、一教師である私の評価とは全くの別物です。

走り続けている最中には、そんなことを考える余裕もありませんでした。人生の創立60周年を迎え、ふと振り返って見た時に、そんなことをちらっと思いました。

まだ、振り返るには早いと思っています。これから更にパワフルに走り続けます。少しでも、世の中に、良き教育的価値を遺すことができるように全力を尽くします。

ただ、これからは、ひとりでも多くの方と共に歩んでいけるように考えていきたいと思います。なぜなら、教育的価値というものは、直接、人に手渡す以外にないものだからです。

 

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愚か者の生き方

2022年02月04日 | Weblog

子育て支援員なるものを養成するそうです。

こうしたことは常に資格試験を伴います。

資格を作り、資格をとらせるということは、ある程度のマニュアル化をする必要があります。

マニュアル化するということは、仕事を定型化するということです。

一方、教育という仕事は、非定型の極みにあるようなものです。

受験産業化した教育であれば定型化できる部分が多いと思います。

しかし、人間が人間を育てるという、本来の意味の教育を定型化しようとしても、うまくいかなくなるだけのように私は感じます。

非定型の教育で成果を出すためには、マニュアルに頼らないこと、五感を研ぎ澄まし、子育ての体験から得たことをいかに応用できるかが大切です。また、親も人間として成長しなければ、良い子育てはできません。だから人間とはいかなる存在か、その心の在り方に目を向ける力がなければなりません。そして、社会生活全てに関連するのが子育てですから、生きる力と教養も大切です。また、自然環境や子育ての歴史にも造詣が深いと一層良いと思います。これらは到底、定型化して何とかできるものではありません。

でも、定型化することこそが仕事だと思う人がいて、法律を作って、制度化して、やり方をマニュアル化して、資格を売って、ビジネスにするのが世の常です。

私は教育は非定型だと思っていますからいつもマニュアルなどありません。実際に困ったご家庭があれば足を運び、共に語り、共に笑い、共に未来を考えていこうとします。お金や勤務時間のことなど考えていたらできるものではありません。

昔、ビジネスコンサルタントに、そのような非定型の仕事の仕方は駄目だと否定されたのですが、それでも私は私のスタイルを貫き通しました。

最近、フレンチの三國清美シェフの本を読んでいたら、「私はレシピは残していない」という言葉を語っていらっしゃいました。素材と向き合い、お客様と向き合い、自分のコンディションと向き合い、その瞬間のベストを尽くすのが最高の料理だという考えに巡り会って、やっと私のやってきたことの意味が腑に落ちた感じがしました。

無限にある教材と向き合い、全く一人一人が違う親子と向き合い、今現在の、自分が本当に伝えたいことや意識の流れと向き合い、その瞬間のベストの教育を生み出していく。そのためには、自分を磨くしかない。

このスタイルの教育を私は貫いていきます。

ま、私の意見など、誰も省みないから、ここで語るのもどうでも良いことですけどね(笑)。

それでも私は語り続け、真剣に、全力で、実践し続けていきます。愚か者には愚か者の生き方しかできませんから(笑)。

しかし、絶対に結果は出し続けます。そのための努力を誰にも負けないようにやり続けます。

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バッカーズ寺子屋&バッカーズ九州寺子屋

2022年02月04日 | Weblog

バッカーズ寺子屋、バッカーズ九州寺子屋の、来期生募集パンフレットが完成致しました。

東京は17期、九州は14期を迎えます。

入塾説明会もスタート致しますので、それぞれのホームページから日程の確認をお願い致します。

表紙は、今年は日南の海です!

昨年は高千穂の朝日と雲海のかすかに残る写真でした。

二年連続、私の撮った写真を使わせていただきました。

でも、何となく撮ってたものを使っただけですから、もっと良い写真が撮りたいと思います。

なかなか表紙のイメージ写真って難しいものです。

それはさておき、お申し込みをお待ちしています!

オミクロン株の流行で、少しブレーキがかかっていますが、夏以降は、きっと大丈夫であろう事を私も期待しています。

最近、バッカーズ寺子屋、「敷居が高くて・・・」という話を時々耳にしますが、全然、そんなことはありません。

「みんな違って、みんないい」のですから、どうぞお気軽にご参加下さい。

楽しく、かけがえのない学びになるよう、私も全力を尽くします。

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御為ごかし

2022年02月03日 | Weblog

アサリの産地偽装の問題を考えていて、ふと「御為ごかし(おためごかし)」という言葉が頭をよぎりました。お互いの利益のために、皆が、誤魔化しあっているからです。法律を作る人間だって、取り締まる人間だってそうです。実行する人たちの善意に期待するなら、法律など不要です。

「御為ごかし」という言葉を辞書で引くと、次のような説明でした。

「表面は人のためにするように見せかけて、実は自分の利益を図ること。じょうずごかし。「―の親切」「―を言う」」

よく「○○さん、あなたの体調はいかがですか?」といってメールを送ってくる食品メーカーがありますが、所詮は御為ごかしなのが透けて見えます。

私には、「△△を買ってね。」と言われた方が、よほど正直で気持ちが良い気がします。

最近、「御為ごかし」という言葉が死語になっていると感じていたのは、「御為ごかし」が一般化されてしまったが故なのでしょう。

互いの御為ごかしで成り立っている薄気味の悪い社会にはしたくないものです。

そうしない方法はただ一つ。

「自分が御為ごかしはしないと決め、断固、正直に、誤魔化しをせずに生きること。」

それだけだと思います。

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