「随(したが)って苟(いやしく)も文明国たるものは苟安(こうあん)を事とすることを恥ずる。言うまでもなく、苟安を事とするとは、単なる生存を謀ること。ー無理想ー迷執の生活を意味するからである。」
山鹿素行の中朝事実の序文には、我が国を中華として(中華とは文明の中心にあるという意味)考えるということが書かれており、それが、吉田松陰の「華夷の弁」の考えへと繋がっています。
つまり、人として生をうけたからには、ただ生きているだけではだめだ。何のために生きるのかということを明確にしなければ、禽獣と変わらぬということです。
文明国の一員であることの意味とは、お金持ちになり、贅沢をすることではない。生きる意味を見いだし、理想を掲げ、世のため、人のため、後世のために力を尽くすということだというのです。
何の目的もなく、漂うように、酔生夢死の人生を生きることを恥とするということを、江戸時代の山鹿素行は思い、吉田松陰もまた考えていました。
時代が進んで、私たちの社会は文明化されたと言いますが、科学技術は進んだとしても、人間は本当に進んでいるのだろうかと思います。
これほど端的に、明確に、人間の生きる意味を言い表していた先人たちの考え方と生き方と共に、私も生きてみたいと思います。