Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

苟安を事とすることを恥ずる

2022年02月06日 | Weblog

「随(したが)って苟(いやしく)も文明国たるものは苟安(こうあん)を事とすることを恥ずる。言うまでもなく、苟安を事とするとは、単なる生存を謀ること。ー無理想ー迷執の生活を意味するからである。」

山鹿素行の中朝事実の序文には、我が国を中華として(中華とは文明の中心にあるという意味)考えるということが書かれており、それが、吉田松陰の「華夷の弁」の考えへと繋がっています。

つまり、人として生をうけたからには、ただ生きているだけではだめだ。何のために生きるのかということを明確にしなければ、禽獣と変わらぬということです。

文明国の一員であることの意味とは、お金持ちになり、贅沢をすることではない。生きる意味を見いだし、理想を掲げ、世のため、人のため、後世のために力を尽くすということだというのです。

何の目的もなく、漂うように、酔生夢死の人生を生きることを恥とするということを、江戸時代の山鹿素行は思い、吉田松陰もまた考えていました。

時代が進んで、私たちの社会は文明化されたと言いますが、科学技術は進んだとしても、人間は本当に進んでいるのだろうかと思います。

これほど端的に、明確に、人間の生きる意味を言い表していた先人たちの考え方と生き方と共に、私も生きてみたいと思います。

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教育的価値

2022年02月06日 | Weblog

一人の教師として、世の中に何を遺せるのか。それをずっと考えてきました。

県立高校の教師を辞めてから、教師としての本当の人生が始まったのだと思います。

20年近くの時が流れ、自分の選んできた道はこれで良かったのだと思います。正しかったかどうかはわかりませんが、少なくともこれで良かったとは思います。

退職して、全ての世間的肩書きは一旦白紙に戻り、0から歩み始めるということは、肩書きというものに対する考え方が変わるということでもあったのだと思います。

今までは、組織に属し、組織に貢献し、組織に与えられるものが肩書きでした。組織の評価が自分の肩書きの評価に繋がっていくものでした。

しかし、独立してからは、自分の肩書きへの評価は、自分で歩んできた道程で決まっていくものに変わりました。私の学びと、努力で、一歩一歩、信頼を勝ち取っていくしかないのです。

つまり、肩書きの価値を決めるのは自分でしかないのです。

勿論、多くの方に支えられての教育活動ではありますが、私を支えてくださる経営者の皆様の社会的評価と、一教師である私の評価とは全くの別物です。

走り続けている最中には、そんなことを考える余裕もありませんでした。人生の創立60周年を迎え、ふと振り返って見た時に、そんなことをちらっと思いました。

まだ、振り返るには早いと思っています。これから更にパワフルに走り続けます。少しでも、世の中に、良き教育的価値を遺すことができるように全力を尽くします。

ただ、これからは、ひとりでも多くの方と共に歩んでいけるように考えていきたいと思います。なぜなら、教育的価値というものは、直接、人に手渡す以外にないものだからです。

 

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