かつて、公教育について考えていたとき、
公教育は、いわば、「ここに木を植えて良い。
しかし、特定の木を植えてはいけない。」
そう言っているようなものだと思っていました。
例えば、あまり特定の人物の考えを教えるのは
いかがなものかという意味です。
しかし、「木」という「木」はないのです。
それぞれが、「杉」であり「松」であり、
「梅」てあり「桜」なのです。
抽象概念である「木」を教える教育というのは、
結局、実態のない、空疎な概念を、
言葉遊びのようにして教えているだけに過ぎません。
それでは、時代の変革者たちの強烈な生き様や、
苦しい時代を乗り越えていく人間の崇高さなど、
伝わろうはずがありません。
右でも左でも中道でも、とにかく、
人の生き様を学ぶべきだというのが私の考えです。
立場を超えて、歴史という風雪に耐えて残っている
人の生き様には、
必ず学ぶべき事がたくさん含まれているからです。