今、心配なことは、「気が利かない」人が増えているように思うことです。「気が利く」とは、細かな変化や違いに、まず気づくことが大切です。汚れやほこりなどに気づき、すぐにきれいにしようと思うような人間の感性です。
これまでは、そうしたことに気づくことができる人が多かったから、そのあとに来るであろう機械の不具合や自然災害や人心の荒廃などを未然に防げたことが多々あるのではないかと思います。何かの「兆候」に気づくことのできる感性は、人間や動物にしかないものなのかもしれません。
そして、この感性は、四季折々の自然の中で育つことや、細かい目を持つ人から厳しく叱責をされながら身につくようなものかもしれません。言葉では説明できない「感覚」を伝えようと叱責されるので、叱られることに理不尽さを感じることもあるでしょう。私自身、そう思った経験はたくさんあります。しかし、それが大切だったのです。理屈では得られない価値を、子どもの頃の親の一見、理不尽と思えるような数々の𠮟責から学んでいたのです。もちろん、そこには暖かな愛情と、信頼に包まれた親子関係、人間関係がなければならないのは言うまでもないことです。
今、そうした厳しさを持つ大人はいなくなってしまいました。叱ること自体が悪だと思われるようにもなってしまいました。みんな近視眼的にしか物事を見ることができなくなってしまったのでしょうか。
色々なことは、AIに代替されることが多くなると思います。ただ、「気を利かせられる」というのは、人間に残された最後の強みになるのかもしれません。それを失わないようにしていこうと思います。
ディープラーニングである程度、経年劣化など予測できるようになったとしても、それに対処する動作を、機械で行う実際の動作に落とし込むまでには、相当の困難があるだろうと素人ながら想像できます。
そもそも、ちょっとしたことにお金をかけるわけにはいきませんから、人間がちょっとしたことに気づいて、ちょっとした動作を積み重ねていく価値は、やはり人間のものにならざるを得ないのではないかと思います。
私も「言ってることは正しいけど、お前が言うな。」と言われないように、努力を重ねたいと思います。