つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

8歳で米国留学に旅立った津田梅子 2

2024-03-30 | Weblog

■5.「一生懸命国のために働いて、義務を果たさなければ」

 帰国してから梅は、ランマン夫人あてに、こんな手紙を書いています。
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 父は先日、私のために費やされたお金の話をしました。その額は、日本で一家が豊かな暮らしをするに充分なほどのもので、それを国が出したのだと言いました。
だから私は一生懸命国のために働いて、義務を果たさなければなりません。[大場、129]
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 仙は、捨松と梅を連れて、文部卿(文部大臣)の福岡孝弟(たかちか)に挨拶に行きました。福岡は二人が日本語がもう忘れていると知って、こうため息をつきながら、言いました。
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 それなら女の御雇外国人と同じだな。大金をかけて十一年も留学させるくらいなら、御雇外国人を何人も呼べたであろうに。黒田どのは女子留学生を、開拓使の宣伝に使ったのだな。帰ってきてから何をさせるかも考えずに。[植松、p146]
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 帰国時に、こういう考えの人物が文部行政を見ていたのが、二人が活躍の場を与えられなかった原因です。しかし、二人の「一生懸命国のために働いて、義務を果たさなければ」という志は、こんなことではへこたれません。

 やがて、渡米の際に岩倉使節団の一員として同じ船に乗り合わせた伊藤博文から、その妻や娘に英語や洋式作法を教える家庭教師役を頼まれました。すると、他の政府高官の夫人たちからも「私も」「私も」と次々に希望者が殺到しました。さらに華族女学校が開校すると、伊藤の紹介で教授として迎えられました。


■6.「日本人であることを忘れないように」

 やがて、梅は、日本の女子の高等教育の確立こそ、自分の使命だと考えるようになりました。政府は英語教育者の資格制度を設けましたが、試験を受ける女性はほとんどおらず、そのための教育をする学校もありませんでした。国立の女子師範学校は教員養成はしていますが、英語の分野はありませんでした。梅は女性の英語教師を育てる専門学校を作ろうと志ざしたのです。

 梅の凄いところは、その志をとことん実行してしまう力量です。まず、自分の学校を創立する前に、私学を運営するためには、せめて捨松と同様の大学教育を受けなければと考えました。

 しかし、すでに国費で10年以上、留学しているので、もう一度と頼むわけには行きません。そこで、一回目の留学の時に知遇を得ていたモリス夫人に相談しました。夫人は東部知識人社会に有力な人脈を持っており、話を聞いた新設の女子大学の学長は授業料の免除と寄宿舎の一室を与えてくれる約束をその場でしてくれました。

 また、華族女学校の校長からは、二年間の留学期間中、給料をそのまま支払い続けるという計らいを受けました。こうして、梅は明治22(1889)年7月、20代半ばで二度目のアメリカ留学に旅経ったのです。


■7.「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」を目指して

 帰国後の明治30(1900)年、梅は36歳にして「女子英学塾」を創設して、世間を驚かせました。年俸800円(国会議員が年収2千円)の華族女学校教授の地位を投げ打って、つつましい日本家屋を借り、わずか10人の塾生を、ほとんど無報酬の個人教授の形で教え始めました。

 梅が目指したのは、今日の津田塾大学でも継承されている「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」でした。開校式では、次のように述べています。
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専門の学問を学びますと兎角(とかく)考へが狭くなるやうな傾があります。………英語の専門家にならうと骨折るにつけても………完(まっ)たい婦人即ち allround women となるやうに心掛けねばなりません。[大場、2,397]
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 明治日本が独立を維持し、国際社会に伍(ご)していくためにも、狭い英語の専門家ではなく、男性と対等の立場で力を合わせる全人的な人格を持つ女性が必要でした。そして、それこそ黒田清隆や父・仙の目指したものでした。

 梅の授業ぶりにも、この志がよく現れています。当時、梅から直接教えを受けた岡村しなという女性のこんな思い出話が記録に残っています。

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・・・・・・先生は、アメリカは好きだけどね、・・・・・・頭に染みこんだ・・・・・・日本のspirit、………日本人であることを忘れないようにせい、英語をしゃべることは何でもない、日本のspiritを忘れるなって。それが偉いところで、先生の。本当、たしかにそうなの。それを頭にたたきこまれた。[大場、2,599]
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 帰国時に文部卿が言った「女の御雇外国人」では、こういう教育は望めません。「自分は日本人である」という自覚と愛国心をしっかり持ってこそ、国のために本腰を入れた貢献ができるのです。梅が育成した日本女性たちは、祖国否定のアメリカかぶれでも、男性と対抗しようとするフェミニストでもありませんでした。


■8.周囲の無私の恵みのお陰で

 女子英学塾を創立してからは、梅を応援するアメリカの夫人たちから、次々と信じられない額の寄付が寄せられました。梅は塾運営のための経費をアメリカと日本の賛同者たちの寄付に頼り、その依頼で、月に300通もの手紙を書いた時もあったといいます。

 自分は年俸800円の華族女学校教授の地位を投げ打って、ほとんど無給で塾を続け、寄付金は生徒の奨学金にあてて、貧しい小学校卒業だけの生徒も受け入れていました。そして梅は、その一人ひとりに寄り添って、細やかな、しかし厳しい指導を続けて、一人前の英語教師として育てていったのです。

 そうした梅の無私の姿勢に共感して、多くの人々が無私の思いで梅の志を助けてくれたのです。数え年わずか8歳で渡米し、帰国後は理想の学校を創設するという志を実現した梅の一生は、厳しい寒さの中でも凜と花を咲かせた梅の木のごとく見えます。しかし、その梅の木は祖国という土壌からの養分や、太陽の光、アメリカからの風など、豊かな恵みを一身に受けて、見事な白梅を咲かせることができたのでした。
(文責 伊勢雅臣)
写真は光受寺の白椿


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2 コメント

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時代に生きる (アナザン・スター)
2024-03-30 10:16:51
津田梅子の一生は、正に己の為ではなく、知識や諸々の学びを、後世に伝える意思の強さであったことと拝察致します。

天命でしょうか。
明治時代の背景もありますが、困難にもめげず嵐の風評へと向かう勇気に感服。

難題を、熟考し、努力を惜しまない。
躊躇わず、厭わず、地盤を築き、明日へと。

こういう人の、生き方は鮮やかな存在です。

有難うございます。
アナザン・スターさま (matsubara)
2024-03-31 08:10:39
またまた応援メッセージありがとうございます。

確かに天命であることを感じます。
このWebを見るまで、二度も米国に留学したことは
知りませんでした。

確かに意志の強さですね。
お札にようやく採用されますが、遅すぎですよね。

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