途中大和郡山城・柳沢文庫にも寄ってから帰途につきました。再再建の城ですが、柳沢文庫には古文書が多く残されています。最初に築城したのは、筒井順慶。戦国時代で、信長の命令です。その後豊臣秀長、柳沢氏と城主が移ります。とにかく城に近づきにくく、柳沢氏の旧宅であった文庫だけで諦めました。石垣を入れて下の道路から全体を撮ろうとしたら、石垣に「全国金魚すくい大会」の横断幕が大きく掲げてあり、撮る気分が消失。下の写真はネットです。ここは金魚の産地でもありました。
文庫には、6代に亘って城主だった柳沢氏の公用日記や祭礼図や藩札が展示されていますが、撮影禁止。城は明治に、競売、解体されたため、再建。現在の石垣は秀長によるもの。最初の城郭は大阪夏の陣で戦火に会っています。
これまで訪ねた城でこんなに近づきにくかったところはありません。近鉄が石垣を貫いて走っていて、城の周囲を遠回りに一周するにも、二回も踏切を渡らねばなりません。城への通路すら分からないのです。
草むす中から文庫の屋根が見えてきます
あずまやも草の中
堀の石垣も草に覆われています
櫓のネット写真
文庫には、6代に亘って城主だった柳沢氏の公用日記や祭礼図や藩札が展示されていますが、撮影禁止。城は明治に、競売、解体されたため、再建。現在の石垣は秀長によるもの。最初の城郭は大阪夏の陣で戦火に会っています。
これまで訪ねた城でこんなに近づきにくかったところはありません。近鉄が石垣を貫いて走っていて、城の周囲を遠回りに一周するにも、二回も踏切を渡らねばなりません。城への通路すら分からないのです。
草むす中から文庫の屋根が見えてきます
あずまやも草の中
堀の石垣も草に覆われています
櫓のネット写真
そこは広かったんですか?
古くから建っていたのですが、
せんそうとめいじじだいに多くの
お城がこわされたようにここも
こわされてしまい、二度も大変な
めにあったお城です。
広いようですが、近くに行けなかったのよ。
3年前の4月8日、ちょうど桜がきれいなときに訪ねました。
でも柳沢文庫の前を素通りしていたように思います。
城の石垣に地蔵や石塔などを使っていますね。
下から2枚目の堀の写真、深い緑に覆われているので少々びっくりしています。
トラックバックさせていただきました。
そういうふうに聞きますと、むしろファイトが出るのですよネェ!機会あったら、行ってみたいものです。
石垣を貫いて近鉄が走っているのも、見てみたいシーンです。
大和郡山は金魚すくい大会が盛んなところのようですね。でも金魚と言えば、やはり愛知県の弥富ですヨ (^o^)!
柳沢文庫の前の道をすすめば城に行けたのですね。
一人しか通れないような狭い草が茂る道は怖くて行けなかったのです。あの奥とは思えなくて・・・
それに駐車場もなく歩道に止めていましたのでゆっくり出来なかったのです。
桜の咲くの最高のシーズンに行かれていたのですね。
桜のシーズンはきっと分かりやすいと思いますよ。
私たち土地勘が悪いのでいつも迷うのです。でも
再建ですからあまり魅力はないと思います。
城の跡地の半分は県立郡山高校の敷地になっています。城跡としての整備が進んでいないので道が判りにくいですね。近鉄の踏切を渡ってすぐの堀の手前を右へ入る細い道を行けば、大手門のところへたどり着き、そこには10台分ほどの駐車スペースがあります。天主閣跡へは、小道が雑草に覆われていて行きずらいですね。
その細い道のことは土地の人から教えて貰いましたが、
何の案内もなくて分かりませんでした。
郡山藩の歴史展は拝見できましたのでよしと思っています。
桜のシーズンなら皆さんの後について行けばいいので辿りつけたかもしれませんね。
ご案内ありがとうございました。
大和郡山に移封された際、たくさんの
金魚職人を大和に連れて行きました。
そして武士の副業として金魚生産が
盛んになり、現在に至ります。
お城も金魚も市民には同じくらい大切。
金魚すくい選手権も、郡山城の歴史と
無関係ではない風物詩ですので、ぜひ
写真に撮っていただきたかったです…
今年で17回目になりました。
金魚にも古い歴史があったのですね。
初めての訪問で知らなくて失礼しました。
武士の副業は岐阜では和傘でした。
今は輸出用に作られています。
金魚すくいの看板も撮ればよかったと
悔やんでいます。
申し訳ありません。
教えて頂きありがとうございます。