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レバノンはワイン源流の地

『シリア・レバノンを知るための64章』より ⇒ レバノンでワイン作りを始めたソホクリス ワインが作れるのかと気になって

レバノンを初めて訪れたのはアメリカで1年を過した帰り途、1975年の6月だった。この国が十七年戦争とも名づけた長い内戦に突入する直前、すでに不穏な情勢であった。

しかしベイルート入りした3日後、私たちは幸いにも一気に千メートルのベカー高原を昇り、聖書の時代からあこがれをもって眺められたという美しいレバノン山脈や葡萄畑を、反対側には荒寥とした赤土の谷間などに見とれながら1時間半、世界最古の町シリアのダマスクスに通じる道を走り、バアルべックの町に到着した。

バアルペックの遺跡は不思議な複合神殿アクロポリスである。そもそもはフエニキア人(レバノン人の祖先)が自分たちの神バアルを祀った地だったが、ギリシアの時代が来ると彼らはここを太陽の町(ヘリオポリス)と名付けた。次に来たローマ人たちはこの地に最大規模の複合神殿を建立した。

西暦60年ごろにまずジュピター神殿ができ、その150年後にはバッカスとヴィーナスの二つの神殿が完成した。葡萄とワインの神バッカスを祀る遺跡が現存するのはバアルベックが世界でただ一ケ所という。

私のワインに対する好奇心は、実はその半年ほど前から始まったのだった。カリフォルニア・ワインが禁酒法の不遇をようやく脱して、かなりの味わいを誇るブランドや名門ワイナリーがテレビで宣伝され始めた頃だったので、私は何冊かの本を買い込んでアメリカだけでないワイン世界とその歴史に興味を持つようになった。

ワイン発祥の地についても、グルジア、アナトリア、メソポタミアとある中にレバノンの山々という説があったのを記憶していたし、イエス・キリストが結婚の祝宴で水をワインに変えたあの奇蹟の起きた村、ガリラヤのカナがベカ上局原に近い事実にも気がついた。

もしかして、レバノンこそワイン源流の地ではなかったのか?

その時は拡がる好奇心を満足させることもできずに帰国したのだが、やがて私は物書きとなり、フランス、イタリア、スペインなどワインの取材に出掛ける幸運に恵まれた。しかしレバノンを再訪するようになったのは、二十余年を経た90年代末からだった。

一方で「ワイン源流の地・レバノン」説についての勉強は山形孝夫先生(宮城学院女子大学名誉教授)の著書『レバノンの白い山』のおかげで、私の中では確かなものになっていた。

レバノンは旧約聖書の中ではカナンの地として登場する地域に全土が入ってしまう国でもあり、古代イスラエルの神が何としても自らの民のために獲得したいミルクと蜂蜜、そして美酒ワインに象徴される土地だった。

ことにワインはエジプト王朝全盛期から引っぱりだこの人気だったし、中世ヨーロッパでも贅沢で高価なものとされたのがカナン産だった。しかしそれは当然であり、この地にはバッカス神殿ができる前に、先住の神として人々の厚い信仰を集めていたバアルペックの主、バアル神が存在していたからだ。彼こそがワインと深い関係にある神だった。

--紀元前13世紀頃彫られたバアル神のレリーフは、現在はパリのルーブル美術館に収まっているが、発掘されたのは1928年、ベイルート北方の丘だった。神殿跡や襖形文字でびっしりと神話が記された粘土板など、大量の出土品があったという。

その樹形文字はウガリット語といわれる言葉でそれまで未知のものだったが、学者たちの熱烈な研究のあげく3年で解読され、3000年以上も埋もれていたバアル神話が現代の光を浴びたのだった。

バアル神は古代オリエント世界の農耕神であり、大地に雷鳴を轟かせて雨をもたらし、万物の生命を蘇らせる主だ。カナンの地は沙漠に生きるイスラエルの民の憧れであり、緑濃い作物の豊かに実る肥沃な土地であった。この地に暮らす人々は平和と子孫繁栄を願う農耕民族であり、バアル神も同じくペアの神アナトと結婚し家族を守る優しい神だった。

しかし人間を生かす穀物は一年草の実であり、一年毎の侈い生命である。人間の関係もやがては滅びるものだ。ところが血は子孫に伝えられて何年も生き続ける。その事実こそがキリストの言葉ならずとも農耕文化の中でワインを造る人間存在の証ではないだろうか。ワインは農耕社会の絆とも要とも言えよう。

バアルにはモトという弟があり、彼は火の空を支配して大地を干上がらせてしまう神である。二人は壮絶な戦いを繰り広げるが、やがてバアルの方が力尽きて屍を野にさらす。すると大地は旱魅し、野山は枯れ果ててしまう。

ペアの女神アナトはバアルを失った悲しみにくれて野山をさまよい歩き、ようやく彼の亡骸を見つけると、さめざめと泣きくれる。するとアナトの涙は、何と、尽きることのない芳醇なワインであった。彼女は目から溢れ出る悲しみの水、ワインの中でバアルの復活を願い、モトヘの復讐を誓った。アナトは大地母神であると同時に勝利の女神であり、豊穣と多産の象徴として乳房がたわわに実る葡萄でできていた。

モトは息の根を止められて、やがて干からびた大地に雨が降り注ぎバアルは復活する。穀物神バアルに連続した命を与えるのは、アナトの流す涙、ワインだったのである。--

ワインをめぐるこのレバノン神話に魅せられた私はやがて十年足らずの間に4回もレバノンを旅することになった。私にはかつてベイルートで日本料理店「ミチコ」を経営していた姉がいた。不幸にして彼女は突然に亡くなり、その後だったが、友人たちが私のワイナリー訪問の世話をしてくれたのだった。

シャトー・ケフラヤは内戦の真最中にフランスから醸造技術者などのスタッフが移住し、この国にフランス流のワイン造りを指導して、西欧で80年代の終わりから毎年さまざまな賞を獲得するようになったワイナリーだ。いわばレバノンにワインールネッサンスをもたらした名門であるという。

私は日本から十数人のツアーと共にシャトー・ケフラヤを訪ね、レバノンの人々は料理との相性で白を好むことを知った。フランス流の赤もなかなかおいしく、当時は日本にも輸入されており、愛飲していたのだが……。

このときは十九世紀半ば開設のシャトー・クサラも訪問した。このワイナリーの造るワインは多岐にわたり、フランス種はもちろんスペイン系のテンプラーニョも、アルザス流のゲヴェルットラミナーもおいしい。さらに古代からの貯蔵庫かと思うような洞穴じみたカーヴヘのツアーも楽しいものだった。

2003年に夫と娘と訪ねた時は、98年開設のシャトー・マサヤヘ案内された。フランス人との共同経営と聞いたが、若い当主ゴスン氏自らの案内でワイナリーの敷地にあるレストランで、主に赤(ムールヴェルドなど)を味わった。

新しいワイナリーの心意気をことさらに感じたのは、ワインそのものの故か、ゴスン氏の印象だったのか、興味深い体験だった。

さて私がレバノン・ワインについて最も大切なことを学んだのは、2005年国際交流基金の機関誌『遠近』の仕事で、すでに西欧の多くのワイン評論家が「世界におけるグレート・ワイン」と賞賛するシャトー・ミュザールのオーナー、セルジュ・ホーシャル氏と対談するために彼の地を訪問した時のことだ。

最初にワイナリーを見学に行った私を、葡萄畑から工場も貯蔵庫もテイスティングまで、すべてホーシャル氏自身が案内して下さった。私は「レバノンの自然の味」という言葉を新たに耳に止めた。翌日は日本大使館が氏のために晩餐会を催してくださったので、かなり長時間にわたってお話することができた。

さて、対談はそれまでに私が学んだワイン体験を全部合わせても学べなかったほどの、ワイン造りの哲学から古代の歴史、そしてレバノンの土壌や山々、太陽の光の特殊性から宗教にまで及び、私は氏によって奥深いレバノンのワイン世界に入り込んでしまった。

「レバノンでは一度葡萄を搾ったら手をかけないワイン造り」であり、「この国には植物の病気がなかった」。さらに「レバノンは薬用植物の最大輸出国の一つであるほど生物学的多様性に恵まれています」などの言葉が忘れられない。さらに私が最も感動したのは次の言葉だった。

「この国は度重なる破壊を受けてきたが、もし私たちが復興しなければ、ここはただの難民の国になってしまう。戦争によって民族の心は引き裂かれても、ワインは民族的感情を癒す大切なものだ。ただの歓びを越えて今日と深く関わり、破壊の時に創造があることを、無政府状態のときに秩序があることを示してくれた。そして死と再生はめぐり来るものだということも、そもそもはバアルベックで示されたように、今またワインが明らかにしつつあると思う」。

今日レバノンではワイン造りが活撥になってきている。世界各地……日本でも盛んだ。

この現代においてこそ、ワインの源流はレバノンであることを思い起し、私たちはレバノンワインに深く親しみたいと思う。
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レバノンのギリシア正教、ギリシア・力トリック

『シリア・レバノンを知るための64章』より ⇒ レバノンでワイン作りを始めたソホクリス レバノンの半数はカトリックと言うから

ここで言う「ギリシア正教会」とは、451年のカルケドン公会議において正統とされた「カルケドン信条」を奉じる教会である。イエス・キリストの神性・人性をめぐる当時のローマ帝国における神学論争のなかで、ネストリウス派や単性論派を次々に排斥したうえで、皇帝権力と結び付いて帝国を支えた教会であり、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアの四つの総主教座が帝国領内の圧倒的多数の人口を管轄した。シリア・レバノンの地域はアンティオキア総主教座の下にあったし、今でもそれは続いている。

7世紀前半、イスラームが興って、ムスリム軍が東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と戦い、エルサレムに続きシリアの大部分を征服した段階で、その住民の大多数はキリスト教徒で、その過半数はギリシア正教徒たった。エジプトもすぐにムスリム軍の占領下に入ったので、ギリシア正教会の四つの総主教座のうち、三つが早々に「正統カリフ」の支配に服し、コンスタンティノープル総主教座のみがビザンツ帝国を支え続けた。

さて、少々煩雑ながら、ここで教会の呼称について整理しておくことにしよう。「ギリシア正教会」という呼び方に対しては強い反対意見がある。というのも、そこには「ギリシア人の教会」というニュアンスがあるため、その教会の下にスラブ系・アラブ系その他の諸民族をも包摂していた実態にそぐわないからである。そのために「東方正教会」という言葉がしばしば使われるが、それは4世紀末のローマ帝国の東西分裂に端を発した、西方のワーマ教会に対抗した東方の普遍教会なのだ、という立場による。この説を補強するのは、現在のギリシア国家の民族教会としての(すなわち、ブルガリア正教会やセルビア正教会などと同列の教会とし子、19世紀に成立した「ギリシア正教会」があるので、混同は不可避だ、ということである。これは至極正当なのであるが、しかし「東方正教会」の呼称を認めると、この教会から分離してカトリック化した宗派をどう呼べばよいか窮してしまう(「東方カトリック」とぃうと、アルメニア・カトリックやシリア・カトリック、マロン派などをまとめた呼称がなくなる)。したがって、現在のギリシア国家の民族教会ではない、という但し書きをつけて「ギリシア正教会」と呼ぶ妥協をせざるを得ないのである。英語の世界でも一般にこの妥協がなされている。

現地ではどう呼ばれてきたのだろうか。この教会が東ローマ帝国を支えてきた歴史から「皇帝派」を意味する「メルキー」「メルキト」という名がある。しかし現在、シリア・レバノンの地域では「メルキト派」は実質的にギリシア・カトリック教会のことを意味して、正教会の方はこのように呼ばない、という事情がある。ではアラビア語ではどのように呼んでいるかというと、「ルーム」という言葉を使い、「ルーム・オルトドクス」「ルームーカトリック」と呼んでいる。その「ルーム」とは何かといえば、7世紀以来ムスリムのアラブ人たちにとっての「ローマ人」のことであり、その地理的な含意はアナトリアとバルカン半島、つまりコンスタンティノープルの東西に広がる地域であった。これはこれで世界史上のローマ観念の広がりを考えるうえで重要なのだが、日本語に直訳するといよいよ混乱する。

地球規模で見るならば、現在、ギリシア正教会は、古代からの四総主教座に加えて、ロシア、ポーランド、ブルガリア、ギリシア、セルビアなど東欧・バルカンの10ケ国の正教会の合計14、もしくはこれにアメリカ合衆国の正教会を加えた15の独立正教会と、それぞれに連なる多数の自治正教会谷本正教会はロシア正教会に連なる)とによって形成されている。

シリア・レバノンのギリシア正教徒は、右に述べたようにアンティオキア総主教座に属するが、このアンティオキアは現在トルコ領のアンタクヤであり、総主教座の教会どころかキリスト教徒がまず見られない。13世紀に十字軍国家アンティオキア侯国をマムルーク朝のスルターン・バイバルスが滅はした際に都市が完全に荒廃してしまい、総主教座はキプロスなどに移った後、14世紀にダマスクスに落ち着き、今日に至っている。旧市街中心部の「まっすぐな道」の北側に位置するマリヤミーヤ教会で、「アンティオキア総主教座」の看板を掲げ続けているのである。その下位に位置する府主教座が、アレッポ、ハマー、ホムスやレバノンのトリポリ、べイルートなど12の教区に存在する形になっている。加えて、19世紀末以降の移民の拡散を反映して、アメリカ合衆国、ブラジル、アルゼンチン、チリ、メキシコ、オーストラリア、ニュージーランドなどにもこの宗派の教会が広がっている。

さて、1453年にビザンツ帝国がオスマン朝に滅ぼされてコンスタンティノープル総主教座がその支配ドに人り、その約60年後にオスマン朝がシリアとエジプトを版図に加えたとき、実に8世紀ぶりに四総主教座が同一国家の中での「再統合」を達成したのだった。オスマン帝国はバルカン地域にも領土を大々的に広げたが、そこはコンスタンティノープル総主教座の管轄区となった。オスマン政府はギリシア正教徒の官吏を重用し、その教会組織をスラブ系諸民族の統治にも利用したが、たいへん皮肉なことに、コンスタンティノーブル総主教座は、しぽみきった領土のビザンツ帝国末期よりもオスマン帝国時代の方がずっと羽振りが良くなったのであった。

さて、アンティオキア総主教座管区の正教徒たちは約800年におよぶムスリム支配の下で、その人口割合を減らすとともに、全面的にアラビア語化しており、ギリシア語は聖職者が典礼用語として細々と使うのみになっていた。ところがギリシア語世界にあるコンスタンティノープル総主教座が、「スルタンのお膝元」からオスマン政府の威を借りる形で陰に陽に介入するようになった。このためシリア都市部のギリシア正教徒の間で徐々に反感が高まっていった。そこに対抗宗教改革で東方に信徒拡大を求めていたイエズス会やカプチン会などカトリック伝道団が目をつけ、カトリックヘの改宗を働きかけた。教会の典礼は従来のまま、アンティオキア総主教のさらにその上にローマ教皇があることを認めさえすればよい、としたのである。これは十字軍の時代から続いてきた西方のローマ・カトリック教会から東方の諸教会に対する再統合、「教会合同」の運動の一環であった。

カトリックのヨーロッパ諸国と商売上のつながりを持てるという実利もあり、都市部、とりわけアレッポやシドンといった貿易都市で続々とカトリック化か進行した。カトリック化した信徒が従来の聖職者による儀礼を拒否したり、正教に留まる信徒と反目し合ったりで、教会は深刻な分裂状態に陥った。正教側はカトリック側を、西方に引きずられた分派だと決めつけ、カトリック側は自分たちこそアラブであり正教側をギリシアかぶれの分派だと非難した。1724年には、アンティオキア総主教が正教・カトリック双方から並立する事態に至る。こうしてギリシア正教とギリシア・カトリックとが完全に分離したが、オスマン政府は後者の方をなかなか認めようとしなかった。アレッポのような主要都市では大多数がカトリック化していたため対立が激しく、1818年には死者を出す衝突事件が発生した。1820年代にオスマン帝国を揺るがせたギリシア独立戦争は、正教側に不利に働き、オスマン政府は1848年にギリシアーカトリックを独立した教会として承認した。

ギリシア・カトリックの総大司教座はダマスクスにあるが、称号は「アンティオキアと全東方、アレクサンドリア、エルサレム総大司教」で、その下の大司教区は、アレッポ、ホムス、トリポリ、シドン、ザハレなど13あり、移民の拡散に対応して、カナダ、ブラジル、メキシコ、オーストラリアなどに教会を広げている。

1990年代前半の大ざっぱな推計で、ギリシア正教がシリアに70万人・レバノンに50万人で計120万人、ギリシア・カトリックがシリアに20万人・レバノンに35万人で計55万人とされるが、現状はシリア内戦でキリスト教徒全般の大量の人口流出が見られ、不明である(なお、同じ推計でパレスチナ・ヨルダン・エジプトのギリシア正教が12・5万人、ギリシア・カトリックが8・5万人)。両宗派の南北アメリカを中心とした在外移民人口(子孫世代も含める)は、これら中東諸国の両宗派人口の数倍に及ぶと推測されている。

教会内部の造りは両宗派とも大きな違いがあるようには見えない。祭壇のある至聖所と信徒のいる場を隔てるイコン(聖像画)をはめた壁(イコノスタス)は双方に同様に見られ、両方に聖像は置かれていない。聖職者の法衣もほとんど同じように見える。

1848年にギリシア・カトリックが独立した地位を確立して以降、両派は角を突き合わせることなく関係は安定しているように見えるが、レバノンやシリアで両派閥に結婚する男女がいる場合、この宗派の違いは少々厄介な障害として浮上することがある。
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二〇一三年 原発ゼロしかないよ

『日本の原子力』より

二〇一一年 ムラの実態と「専門家」の醜態

 解説委員 これはあくまで想定、仮定ですが、こうした水素がなんらかのことで引火して爆発したということも考えられます。

 アナウンサー この情報をお聞きになってどのような印象ですか?

 原子力の専門家〔NHKがっけた肩書き〕 爆発的なということですか、はい今格納容器の圧力を下げるという作業をしておりますので、その一環として弁を一気に、まあ爆破弁というものがあるのですが、そのような弁を作動させて一気に圧力を抜いたということもあるのかなと思っております、ちょっとまだ情報がございませんのでよく分からないところが多いと思います。(三月一二日一六時五二分ごろからのNHKテレビのニュース)

 三人が画面に登場する前の一分間は、福島第一のその日一四時ごろの海岸からの映像が映されていた。その後、一六時四〇分ごろの陸側から第一を映した映像に変わった。撮影方向が逆なので分かりにくいが、四つあった原子炉建屋の一番端にあったものが骨組みだけになっていることを映し出していた。しかし一号機の建屋が吹き飛んでいることを誰も指摘していない。放送開始から一五分経過したところで誰かが気づいたのだろう、同一アングルでのライブの映像と午前中の映像を対比させ、爆発音と白い煙と地面の揺れの原因が一号機の建屋の爆発だったことを確認した。

 その映像を受けて専門家(関村直人東大教授)は「原子炉の建屋だということになりますと、少し大変な事象が起こっているのではないか」と述べ、解説委員は「これほど大きな爆発等があったとすればもう少し確かな情報を東京電力、国は把握できるのでは」ともっともな疑問を呈している。しかし実態は違った。そのころ官邸のテレビ画面では、大爆発で建屋が吹き飛び大量の白煙が上がっている映像が流れていた。菅首相はその日朝、現地に向かうヘリコプターの中で「水素爆発は起こらない」という説明を班目原子力安全委員長から受けていた。爆発映像を前に班目は「あー」と頭をかかえるだけだった。これを機に菅は、原子カムラの人々が頼りにならないことを悟った。

 一号機では一二日九時をめどに爆発を防ぐためのベンドの準備が行われたが、実施されたのは五時間後の一四時五〇分だった。それから四六分後、一五時三六分に水素爆発が起きた。ベンドが計画より遅れたのは、放射能を避けるための遠隔操作に必要な電力が得られず、手動の作業と仮設の遠隔作業となったためだ。この五時間で水素がたまり、水素爆発の遠因となったと思われる。

 五月二六日、関村は米国科学アカデミーで「福島第二原子力発電所事故の概要について」という講演を行っている。その「震災の科学技術に対するインパクト」の中で「科学技術への信頼低下。工学者・学生の自信喪失」を指摘している。この指摘は原発がレペル七の事故を起こしたことの直接的影響を意味しているのだが、事故から約一週間ほど、彼を含めた「原子力の専門家」がマスメディアで見せた醜態が引き起こしたものでもある。

 六月、独連邦議会は脱原発関連法案を可決した。

二〇一二年 報道の自由--低下か実態暴露か?

 日本の報道の自由度は二二位に下落したが、津波や福島の核事故報道に過剰な制限が加えられ、報道の多元性の限界が露わになった。(「国境なき記者団」による「世界報道の自由度ランキング 二〇一一-二○一二」の日本についてのコメント)

 報道の自由度ランキングで日本は世界約一八〇カ国中、二〇〇九年が一七位、一〇年は一一位だった。それが一二年に二二位に落ちた。この後さらに順位を落とし一三年が五三位、一四年には五九位となる。一三年については、フクシマ報道が一層厳しく制限されていることと自己検閲の横行、権力による取材制限を支えてきた「記者クラブ」改革が進んでいないことも指摘された。

 しかし以下の事例を知ると、本当に日本の報道の自由度は下がったのか、むしろ以前の高評価が実態を反映していなかったのではないか、と考えられる。

 九月一一日、日本学術会議は原子力委員会委員長に、回答「高レペル放射性廃棄物の処分について)を送っている。これは二〇一〇年九月七日の同委の近藤駿介委員長からの要請に応えたものだ。三・一一により対応が遅れたが、結果としてフクシマを踏まえた回答となった。学術会議は、原子力発電をめぐる大局的政策についての合意形成に十分取り組まないまま高レベル放射性廃棄物の最終処分地の選定という個別的課題について合意形成を求めるのは、手続き的に逆転しており手順として適切でない、という判断に立脚している立場を明確にした上で、六項目の提言をしている。

  一.高レベル放射性廃棄物処分政策の抜本的見直し

  二.科学・技術の限界の認識と科学的自律性の確保

  三.暫定保管と総量管理を柱として政策を再構築

  四.負担の公平性の確保

  五.討論による多段階合意形成

  六.長期的取り組みが求められていることの認識

 一.で「原子力委員会自身が二〇一一年九月から原子力発電・核燃料サイクル総合評価を行い、使用済み核燃料の『全量再処理』という従来の方針に対する見直しを進めて」いると指摘し、そして四.で「金銭的手段による誘導を主要な手段にしない形での立地選定手続きの改善が必要で」、そして六.でこの件は「千年・万年の時間軸で考えなければならない問題である」と釘を刺している.法律は作ったがそれから一〇年放置されてきたのは、構造に無理があるからだ.フクシマ「以来、原子力政策全般にわたる抜本的見直しの議論が広く進められている……高レベル放射性廃棄物の処分についても既存の枠組みにとらわれることなく、様々な角度からその処分法を吟昧すべきで」はあるが、「各地の原子力施設には、既に大量の使用済み核燃料が存在するので」、三.の「暫定保管」が必要ということだ.失われた一〇年間、こうしたことが広く報道されることはなかった。

二〇一三年 原発ゼロしかないよ

 一〇万年だよ。三〇〇年後に考える(見直す)っていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ……逆だよ、逆。今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知恵を出す……戦はシンガリ(退却軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊)がいちばん難しいんだよ。撤退が。(小泉純一郎元首相の「原発ゼロ」発言)

 冒頭の「一〇万年」は核ゴミの保管期間だ。

 「逆だよ、逆」。こうした発想が小泉の特質かもしれないし、日本の政治家に少ない資質だと思う。七〇年代に脱原発の方向を模索した日本社会党、九〇年代に原発を過渡的于不ルギーと位置付けた民主党、いずれも原発依存の道に入り込んでしまった。両者に共通しているのは、文句をつけながら継続を認める姿勢だ。本気であれば、稼働中の原発をいつまで存続させるのか、その時間的期限を切って、それまでの行程表、そのあとの段取りを示すべきだったが、それがなされなかった。その結果、社会党は村山政権時代に、民主党は二〇〇六年に原発依存に方針転換した。

 小泉が原発ゼロの方針を確信したのは核ゴミの処理問題だった。この後、一一月一二日、小泉はこう述べている。「結論から言うと、これから日本において核のゴミの最終処分場のめどをつけられると思う方が楽観的で無責任過ぎると思いますよ。すでに一〇年以上前から最終処分場の問題は技術的には決着してるんですよ。それがなぜI〇年以上かかって一つも見つけることができないのか。事故の前からですよ」。彼は夏にフィンランドのオンカロを見学した。その概要をこう述べている。「四〇〇メートル地下に下りる。縦横ニキロメートルの広場をつくっているわけです。……その広場に円筒形の筒を作って、核のゴミを埋め込むわけです。……二基分しか容量がない……一〇万年もつかどうか調べないといけない。振り返って日本を考えて下さいよ。四〇〇メートル掘らないうちに水なんてしょっちゅう出てきますよ。中には温泉出てきますよ」。

 「温泉」というのは、処分場建設は物理学的に無理だという指摘だ。一五億年以上前のアフリカに五〇万年間存在したオクロの天然の原子炉があった。その出現の理由は、核分裂物質と豊富な水の存在だった。水が減速剤となり、自然に核分裂の連鎖反応が起こり、天然の原子炉が作られた。核の最終処分場に水は禁物なのだ。もうひとつ、オンカロは一八億年前に形成されて以降動いたことのない地盤だが、日本にはそのような安定した地盤はない。

 単純な計算をする。オンカロ並みの施設を作るには最小でも、二㎞四方の土地が必要で、その面積は四k㎡だ。福島第一原子力発電所の敷地面積は三・五k㎡で、核のゴミの最終処分場としてはせいぜい二基分ということになる。ところがその敷地には第一から第六まで原子炉が六基ある。つまり、たとえ福島第一原子力発電所の敷地全部使っても、そこで生まれる核のゴミの三分の一しか処分できない、残りの三分の二の処分先を考える必要があるということだ。
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9.11に2万冊達成

夢見

 私が死ぬのを皆が待っている。それまで元気だった、隣の人が死んでいく。そんな夢を見ていて、起きたのが10時半。なんじゃ、これは。

9.11に2万冊達成

 今日の岡崎市図書館の10冊、豊田市図書館の29冊で19944冊です。金額換算すると、3589万円です。ほとんどが新刊書です。

 2万冊は9.11になりそう 2001年の9.11では、あまりにも何も知らない自分を見ていた。アフガニスタンのマスードから入って、知らないことに興味を持った。図書館の借出冊数も倍の30冊になり、岡崎の10冊も増やした。それから、14年。少しはまとまってきた。

 9.11には、2万冊で起こったことの現象をまとめようと思っている。インジケーターというフォルダーに借りた本の題名とか、OCRした本の一覧などを入れましょう。

 それと2万冊を表現する方法を探しましょう。本の厚さは平均すると1.5cmとすると、30000cm=300mの高さになりますね。なんだー、富士山の10分の1以下です。大したことはない。重さは一冊200gとすると、0.2Kg×20000=4000Kgとなり、私50人分ですね。これも大したことはない。

レバノンワインを話題にしましょう

 姪の玲ちゃんから電話が掛かってきた。暇だから、お茶しませんか。やはり、優しいですね。20日に帰国したことは聞いていたので、これを待っていた。親戚の中で唯一、話し相手になってくれます。他の連中は、私を馬鹿にするだけです。私にとっては貴重な存在です。年2回のスタバでデートと勝手に決めています。

 旦那のソホクリスはレバノンみたいです。今日、ギリシャに帰ってくる予定だそうです。ワインの収穫時期がレバノンは早いとのこと。

 レバノンは半分がムスリムだが、半分はキリスト教徒ということで、ワインを飲むとのことです。早速、岡崎図書館でレバノンのわかる本を借りました。
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豊田市図書館の29冊

210.76『「文藝春秋」で読む戦後70年 第2巻』安定成長期から天皇崩御まで

209.7『20世紀からの戦争・紛争キーワード百科』

374.35『ザ・黒板』黒板の基礎知識から活用のワザ、電子黒板まで

625.62『イチジクの作業便利帳』

131.4『アリストテレスの人生相談』

318『自治体活動と地方議会』

302.27『「イスラム」ココがわからない!!』なぜ? どうして? 世界を騒がす仰天ニュース

331.84『市場は物理法則で動く』経済学は物理学によってどう生まれ変わるのか?

809.2『人の心をつかむ1分間ルール』通販番組に学ぶ「話し方」

361.4『人狼ゲームで学ぶコミュニケーションの心理学』嘘と説得、コミュニケーショントレーニング

329.33『国連を読む』私の政務官ノートから

209『世界史と日本史裏話大全』ここgich版おもしろい

596『新カレー教本』プロに学ぶ 人気21店のつくり方・考え方

007.63『図解 Windows10[総合版]』速効! 基本から応用まで、操作のギモンをすべて解決 ⇒案内は来ているけど、替えようかどうしようか

329.66『「ポツダム宣言」を読んだことがありますか?』

319.1『和解は可能か』日本政府の歴史認識を問う

699.21『70年代と80年代』テレビが輝いていた時代

539.09『クロニクル 日本の原子力時代 1945-2015年』岩波現代全書

501.83『新幹線をデザインする仕事』「スケッチ」で語る仕事の流儀

602.1『地域産業の「現場」を行く』第⑧集「地方消滅」を超えて 誇りと希望と勇気の30話

302.22『ユーラシアの時代が勃興する』中国、アラブ、欧州が手を結び

590.4『すてきなあなたに 05』女王陛下のメープルシロップ 暮しの手帖社

590.4『すてきなあなたに 06』シャボンの匂い 暮しの手帖社

143.1『男尊女卑という病』

002『無学問のすすめ』--自分の頭で考える思想入門

913.6『なめらかで熱くて甘苦しくて』川上弘美

210.75『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 果てしなき戦線拡大編』NHKスペシャル取材班

954.7『人間の大地』サン=テグジュペリ

219.5『占領下の新聞-別府からみた戦後ニッポン』
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岡崎市図書館の10冊

188.8『禅思想史講義』

010『挑戦する図書館』

498.3『瞑想のすすめ』心を空っぽにすれば、人生はうまくいく

302.2『シリア・レバノンを知るための64章』レバノンの半数はキリスト教徒。だから、ワインを飲む。

152.2『お母さんから自由になれば、結婚できる』

210.7『History Wars』Japan--False Indictment of the Century

210.4『長篠・設楽原合戦の真実』--甲斐武田軍団はなぜ壊滅したか--

022.7『印刷という革命』ルネサンスの本と日常生活

707『アーティストの目』

559.1『銃を読み解く23講』見る、読む、訳す GUNの世界
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社会史の視点から日米開戦史を再考する

『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』より

外交史研究は日米開戦回避の可能性が直前まであったと指摘する。それでも開戦に至ったのはなぜか。どのような力学が働いたのか。以下では戦前昭和の社会状況に注目する。開戦に至った背景には社会状況の変動があったと考えるからである。

どのような社会状況の変動があったのか。最初に強調するのは、戦前昭和の社会の〈アメリカ化〉である。

第一次世界大戦後、欧州では敗戦国はもとより、戦勝国も「没落」ぶりがひどかった。欧州諸国とは対照的に、アメリカの台頭が著しくなる。アメリカの影響力の拡大は、日本にも波及する。政治・経済・社会・文化のあらゆる分野で、日本のアメリカ化か進む。戦前昭和の二大政党制はアメリカ型である。政友会対民政党(憲政会)の二大政党制は、アメリカの共和党対民主党の二大政党制と類似している。昭和のデモクラシーはアメリカのデモクラシーがモデルだった。

日本のアメリカ化は日米の経済的な相互依存関係とともに進行する。アメリカは日本にとってもっとも重要な輸出市場だった。他方で日本はアメリカにとって、非欧米の市場(マーケット)において、もっとも安全・有利・確実な投資先となっていく。

日本の経済的なアメリカ化は大衆消費社会をもたらす。日本の大衆文化がアメリカ化する。戦前昭和の社会はアメリカ化の影響を受けた大衆消費社会だった。ここではデパート、アパート、映画、家庭電化製品の四つの観点から、戦前昭和のアメリカ化した社会を再現する。

戦前昭和の大衆消費社会を象徴するデパートは、一九二九(昭和四)年からの世界恐慌にもかかわらず、業績を伸ばしていた。高島屋の社史によれば、一九三〇年から三七年の時期は「躍進期」だった。すでに大正末年頃から束京ではデパートの出店ラッシュが始まっており、松坂屋、松屋、三越、高島屋が銀座や日本橋で競っていた。

デパートと同様に、戦前昭和の大衆社会を象徴する建物がアパート(アパートメント・ハウス)である。東京を中心として、つぎつぎと姿を現わした、鉄筋コンクリート造りのアパート群の建設は、関東大震災後の復興事業だった。これらのアパートはアメリカ化の影響を受けている。同時代のアメリカでは、文化的な設備と中庭付きの中層集合住宅が田園都市構想の一部を形成するものとして、具体化していた。震災復興事業である同潤会アパートは、このアメリカの都市計画にヒントを得ている。当時において最先端の鉄筋コンクリート造りの集合住宅は、豊かな国アメリカの集合住宅がモデルだった。

戦前昭和の大衆社会のアメリカ化は、デパートやアパートだけでなく、映画が促進する。洋画はアメリカのハリウッド映画が興隆を極めていた。なかでも一番人気はチャップリンだった。日本の大衆にとって、アメリカとはチャップリンのアメリカを意味した。

アメリカの映画産業は世界一だった。映画をとおして世界の文化的なアメリカ化を進める。そのようなアメリカに対して、たとえばイギリス議会が「米国映画駆逐案」を議論していたように、国際的な反発が強まる。対する日本は例外的にアメリカの大衆文化を積極的に受容した。一九二〇年代の日米協調関係の背景には、このような大衆文化状況があった。

映画と同様に、戦前昭和の大衆消費社会の象徴となったのは家庭電化製品である。家庭電化製品をとおして日本社会の経済的なアメリカ化か進む。電球や扇風機、アイロン、コタツ、望めばデパートでアメリカ製の冷蔵庫を手にすることもできた。

家電メーカーの創業者、松下幸之助はヘンリー・フォードの影響を受けていた。「この値段であれば、どの階級まで買えるということを考えて、フォードは値段を逐次下げて、買える階級を広げていった。そこにフォードの偉大なる成功がある」。そう確信した松下幸之助は、フォードが自動車の大衆化によるアメリカの社会生活の向上をめざしたように、家庭電化製品の大量生産・大量消費による大衆消費社会の実現に邁進した。

一九二〇年代における日本社会のアメリカ化によって、一九三〇年代に入っても反米感情は抑制的だった。とくに一九三三(昭和八)年五月の日中停戦協定によって満州事変に一区切りがつくと、日本外交は対米関係の修復をめざした。これには経済的な背景があった。世界恐慌から脱却するために、日本は高橋是清蔵相の経済政策(金本位制からの離脱と積極財政)に基づいて、通商貿易の拡大に努めていた。日本にとっての最大の貿易相手国はアメリカだった。そのアメリカとの外交関係に特別の注意を払ったのは当然だったのである。

対米関係の重要性は、日中全面戦争の勃発(一九三七〈昭和一二〉年七月七日)によっても変わらない。比喩的に言えば、日本は対米輸出によって獲得した外貨によって、対中戦争を戦う武器を購入していたからである。

日中戦争の戦時統制下にあっても、アメリカ文化の受容は妨げられなかった。当時、急速に普及しつつあった家庭電化製品の一つ、ラジオからアメリカのジャズが流れていた。取り締まり当局はジャズを警戒する。「支那事変の発生以後に於てダンスーホールに対する論難の声と共に、ジャズ音楽に対する論議も相当やかましくなった」。当局はジャズを批判的に検討する。その結果はつぎのとおりだった。「日本の音楽文化建設の為の参考品としても、或る程度この新しき音楽が我々の周囲に常に流れ動いていてくれることは必要なことと思われる」。アメリカの大衆音楽は日中戦争下の日本でも聞くことができた。

大衆音楽だけではない。英語も普通に学習されていた。当時、旧制高校の学生で戦後、外交官になったある人物(菊地清明元国連大使、元外務審議官)が回想している。「英語が敵性語だとかなんとかいうことになったのは、実際に太平洋戦争が始まってからです。早くても、昭和十六年の初め頃からです。それまでは、高等教育では英語を敵視するとか、英語を学んじゃいかんということは全然ありませんでした」。

この回想は作家の安岡章太郎の回想と符合する。「『鬼畜米英』という言葉は、軍人や右翼イデオローグたちの造語に過ぎないだろう。……一般の日本人には、アメリカ人を鬼畜として憎む気持ちはなかったのではないか。戦前から私たちは、むしろアメリカ文化に対する羨望の気持の方が強かった」。

このように一九三〇年代をとおして、日本の親米感情は続いた。それにもかかわらず、なぜ日米は戦争に至ったのか。社会史の視点は同時期の社会変動に私たちの注意を向けさせる。

格差が拡大していた。所得格差を示す統計値のジニ係数は、一九三〇年代において上昇していた。資本家と労働者、あるいは地主と小作農民の間の階級格差がはなはだしかった。産業間格差や農低工高の農工間賃金格差も急拡大していた。企業規模や学歴の格差、都市と地方の地域格差も目立つ。アメリカとの関連で別の言い方をすれば、経済のアメリカ化は日本に豊かな社会と経済的な格差の拡大を同時にもたらしていた。

男子普通選挙制度の下で、国民は社会的な格差の是正をアメリカの二大政党制をモデルとする政友会と民政党(憲政会)の二大政党制に期待する。普通選挙制度の実施によって、新たに生まれた約一千万人の労働者、農民は無産政党よりも資本家や地主の党の二大政党に一票を投じた。

しかし格差は是正されない。それどころか政争に明け暮れる二大政党は、腐敗した金権政治を展開していた。このような社会状況のなかで起きたのが▽几三二(昭和七)年の五・一五事件である。国民はテロに発れた政友会の犬養毅首相を惜しんだ。しかしこの事件によって、政党内閣が崩壊したことを嘆くことはなかった。その後の国民の投票行動は、二大政党制にかわる新しい政党政治の枠組みを求めていたことを示している。それは政友会と比較すれば社会民主主義的な諸改革を進めそうな民政党を第一党とし、無産政党が協力する政党間連携だった。

ところが新しい政党政治の枠組みは、国民が望んでいたにもかかわらず、一向に実現しない。問題を一挙に解決し社会を改革する。国民はこのような政治的手腕をカリスマ性のある政治指導者に期待するようになる。カリスマ性を持つ政治指導者とは誰か? 近衛文麿だった。戦前昭和の社会の大衆民主主義状況において、国民とカリスマ=近衛を直接、結びつけたのは、新しいメディア=ラジオだった。戦争の拡大に向けてラジオがどのような役割を果たしたかは、NHKスペシャルの第三回「〝熱狂〟はこうして作られた」(本書では第一章)が詳細に伝えたとおりなので、繰り返すことはしない。ラジオを媒介として生まれた国民とカリスマ=近衛との一体感が戦争拡大の社会的な力だったことを確認するにとどめる。
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陸軍暴走の連鎖

『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』より

石原莞爾という「個性」

 満州事変は関東軍の石原莞爾という強烈な個性によって引き起こされました。満州事変の石原莞爾だけではなく、ノモンハン事件の辻政信にも似たようなところがある気がするのですが、強烈な個性を持った人が過激なビジョンを打ち立てて集団を引っ張ってしまうと、それに対抗できるビジョンやパワーがなかったら、権限だけでは立ち向かえません。それは、関東軍だけに限られた傾向ではなかったでしょう。もしかすると日本軍が抱えていた宿病のようなものかもしれません。

 石原も辻も、個性的で過激なタイプの軍人です。彼らの主張は、当時の「正論」で反駁しにくいものでしたし、ラディカルで、どことなく宗教的なにおいもしますから、いったん同調してしまうと、それが大きな運動量につながっていったのだろうと思います。もちろん、その「暴走」は上官である参謀長や軍司令官がとめれば済むはずですが、実際には権限だけではとめられなかったわけですから、よほどの数の同調者が周りにいたとしか思えません。

 部下がコンセンサスをつくってしまっていると、上司はなかなかとめられないんでしょうね。かわりに「これをやれ」という代案を持っていれば、まだいいのですが、同じような問題意識を持っていてはとめられない。それが関東軍という出先の機関であるだけに、ますますそうなったのでしょう。関乗軍は日本の国防の最先端で、強い使命感を持っている独特な軍事集団・軍事組織ですから、それだけ自分たちの思いといいますか、使命感が強い。だから、それを強く主張し、かつ過激な解決案を持っている人が出てくると、周囲はそれに同調してしまうのだと思います。そして出先の軍司令官や参謀長が、部下に突き上げられて動いてしまうと、東京の陸軍中央は、「あれだけの人たちが動いているのだから、それなりの理由があるのだろう」と思ってしまう。しかも軍中央の中堅クラスにも、出先軍と問題意識を共有し、過激な行動に同調する者が少なくありませんでした。

永田鉄山の誤算

 当時の陸軍には永田鉄山という非常に合理的な軍事官僚がいました。彼も陸士十六期でした。彼は、将来起こるであろう総力戦型の戦争に対応するための布石を平時から打っておかなければならないと考えていました。それは軍だけではできないので、政治家や官僚、実業家の理解・協力を得て、政治家の手によってシステムを変える必要がある、と。ところが永田は、その後、政治家に期待しているだけではだめだと考えるようになります。先述した政党政治の負の側面に失望したからでしょう。

 満州事変が起きたとき、永田鉄山は一夕会のメンバーで、陸軍省の軍事課長でした。永田にとって満州事変は誤算だったのではないでしょうか。あの時点で武力を発動し、満州国という傀儡国家をつくるところまで想定していた人は、中央には少なかったと思います。ゼロとは断言できませんが。新国家をつくるところまで考えていたとすると、それは当初の満蒙領有案を断念した石原を含む関東軍の幕僚たちだけでした。永田からすれば、いずれ武力を発動せざるを得ない時期が来るかもしれないが、それは国内外に日本の立場や言い分を理解させたうえで、「武力を発動しないと日本の権益が守れない。居留民の生命・財産を保持できないんだ」といえるような段階になってからだ、と考えたはずです。ただ、いったん事が起こってしまうと、なかなかノーとはいえない。武力発動に賛同した人たちも大半は権益擁護の行動だととらえ、それ以上のことを想定した人は少なかったのではないかと思います。

 石原にとって、満州事変は単なる権益擁護ではありません。日本外交のバックボーンであるワシントン体制をつぶすことによって外交政策を転換させ、さらに対外的な危機をつくり出すことによって、危機に対処し得るよう国家そのもののシステムを変えていこうというのが、彼の遠大なビジョンでした。そして、事変はものの見事に成功してしまいます。

 満州で事が起きると、武力発動はやむを得ないと思っていた人たちは、関来軍の行動に反対しない。権益擁護だと理解した人は、当然支持する。一九二〇年代にトラウマを感じていた軍人一般は、これで国民も軍の存在意義をよくわかってくれるだろうと、関乗軍に理解を示す、あるいは拍手を送る。当時のマスコミの論調も、満州での軍事行動については好意的で、これを支持します。陰影な社会に光明を示すというとらえ方が一部にあったほどでした。

荒木貞夫への期待と失望

 先述したように、少壮将校たちは、それまでの上層部に対して、抵抗と不満を感じていました。国内の総力戦体制構築や満蒙政策について、有効かつ具体的な政策を打ち出さない。遅滞している。彼らは、上層部が明治以来の長州閥の情実人事によって構成されているがゆえに、改革に消極的なのだと考え、「長閥打破」を主張します。具体的には、長州閥から冷や飯を食わされていた荒木貞夫や真崎甚三郎、林銑十郎という人たちをリーダーに担ごうとします。こういう人たちを軍のトップリーダーに据えたならば、彼らと思いを共有し、軍の改革や満州問題の解決にも、積極的にあたってくれるだろうという期待があったのです。

 一夕会は、軍中央の中堅クラスの要職にメンバーを張り付けるだけでなく、上層部にも彼らに同調してくれそうな高級将校を就任させるよう人事の布石を打っていたようです。こうして満州事変をきっかけにして、荒木貞夫をトップに据えようという動きが強くなり、当時の軍上層部もそうせざるを得ないと考えたのでしょう。荒木は統帥系統の軍人で、軍政の経験が少なかったのですが、関乗軍の独断専行や軍中央の下克上的な傾向を憂慮して首相に就任した犬養毅も、当初は、荒木が跳ね上がりの中堅分子をうまく抑えてくれると期待していたように思います。

 この後、陸軍では、荒木や真崎など皇道派と呼ばれるグループと、永田や東条英機など統制派と呼ばれるグループとの間で陰惨な派閥抗争が繰り広げられますが、実は荒木、真崎も永田、東条も、当初は陸軍の上層部に対するアンチエリート、批判層としての思いを共有し、また行動もともにしようという軍人たちでした。

 しかし、期待された荒木陸相は、永田を核とする中堅層の失望を買ってしまいます。荒木は陸軍の改革に必ずしも積極的ではなく、陸軍の要求を実現するうえでの政治的な能力にも見劣りがしました。しかも、荒木は自らの人脈で固める派閥人事を始めてしまいます。これによって皇道派と統制派との分裂が生じるわけです。荒木の行動は、新たな改革をしなければならないと考えていた中堅クラスの軍人にとっては、たまらないことだったと思いますね。改革のための人材登用を期待していたところに、必ずしも有能ではない、不遇感から「長閥」を批判してきただけのような人たちをすくい上げてしまった。それが荒木個人に対する、あるいは荒木を中心とした新上層部に対する大きな不満、批判の材料になっていったのです。

武藤章の変貌

 一九三九年、武藤章が陸軍省軍務局長になります。軍事官僚としての陸軍軍人の思考様式を考えるうえで、武藤は注目に値する人物です。関乗軍の参謀だったとき、武藤は、内蒙工作を抑制しようとして満州にやってきた参謀本部戦争指導課長の石原莞爾に対し、「貴方と同じことをやっているだけだ」と郷楡します。それは出先軍の幕僚としての言い分でした。その後、能力を買われて中央に戻り、参謀本部の作戦課長になりますが、そのとき盧溝橋事件が起こると、いわゆる拡大派に属し、一撃を加えて中国の屈服を勝ち取るべきだと、強硬論を唱えます。強硬論ではありましたが、政治的考慮をとり去り純軍事的な見地からすれば、全く軍事合理性に反した主張というわけでもありませんでした。もちろん、政治的考慮抜きの、きわめて限定的な合理性という意味ですが。

 それがいったん中国の戦場に出て、一九三九年に軍務局長になると、武藤の合理性の幅が広がります。中国との戦争が彼の予想に反して長期持久戦になってしまったことで、本来の敵であるソ連に対抗することができない。一方、ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まりつつあり、そうした状況の変動に対する日本の国防の「弾撥力」(柔軟性)が確保できない。ならば中国との戦争はやめようと、武藤は考えたのです。

 作戦課長のときには、戦いをできるだけ短期に終わらせるためにはどうすればよいか、だけを考えました。政治的考慮があったとすれば、中国を屈服させて権益の拡張を図る、といったことだけだったでしょう。短期戦に持ち込めなかったときに、日本の政治や経済にどのような影響が出るか、という問題は彼の思考の範囲内にはなかった。これに対して、軍務局長になると、対ソ戦に備え、かつヨーロッパの激動に対応するために、どれくらいの能力を持っていなければならないのか、を考えなければならない。しかも、それを、予算を中心に考えなければなりません。そろばんをはじけば、中国との戦争で莫大な戦費を使っているときに、いまさら政府に対して、さらなる資金をよこせとはいえない。自ら捻出するしかない。そうなると、中国に派遣している兵力を引き揚げて、それを除隊、復員させる以外にないのです。こうして中国との戦争を縮小し、最終的には戦争はやめようという結論になる。このような意味で、武藤は合理性の幅を広げ、「成長」したのですが、軍務局長というポジションについたことで、過去の自分の失敗に気づいたのかもしれません。
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一九三〇年代日本を支配した空気 意思決定と民主主義

『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』より 一九三〇年代日本を支配した空気

--先のことを知っているからこそいえる部分もありますが、一九三三年から三六年までを見たときに、別の道があったのかもしれないということですね。結局あの道を選んでしまった最大の要因は何なのでしょう。

井上 軍部が何でも思いどおりにできるというわけではありませんでした。もちろん、国民国家ならどの国でも軍を持っていますから、そういった観点ではどの国も軍部のいいなりになり得るわけですが、日本が軍部に引きずられたように見えてしまうのは、政治体制を統合するはずの政党が、半分以上は自分たちの責任で、正しく統合主体になれなかったことが大きいですね。

軍部は軍事のプロフェッショナルではあっても政治はできません。既に高度に複雑な国家になっている日本の運営は政党にしかできない。政党にしかできないはずなのに、その政党が責任を果たさなかったのです。

政治体制や憲法体制の違いを超えて、政党がどう国民の意思を正確に定義し、それを実現するためにどう動いていくのか。その問題はいつの時代も同じで、かつてはより劇的なかたちで起きて、それが悲劇につながっていった。それはいまでも変わらなくて、民主党が政権をとりましたが、気がついたら自民党と同じようになっている。国民は民主党に何をやってもらいたいのか、はっきりしません。なのに、「政権につけば、どの政党だってやることは同じか」と見えてしまう。変わる余地は限られてはいるけれど、国民の意思をうまくつかんで、変えられるわずかなところをうまく変えて見せて、少しずつ民牛王義を進めていくのが政権政党の役割です。それは昭和戦前難もいまも原理的には同じなのです。

--歴史の反省を踏まえたとき、いまの日本の対外方針に関する意思・政策決定をどう思われますか。

井上 日本は、誰か特定の人がリーダーシップを発揮するということがありません。これは日本の政治文化なのかと思うほどです。政権につけば現実主義化して、誰がやっても同じように見える。あるいは諸外国からすれば、すぐ首相がかわると。確かにそのとおりですが、見方によっては「独裁者的なリーダーシップを発揮することは日本にはふさわしくない」と時代を超えて日本人は思っているのかもしれません。

このような日本の政治文化は、大衆民主主義が独裁者を擁護するというリスクを避けられるという点ではいいのかもしれません。しかし逆にいえば、意思決定せず問題を先送りしてやりすごすことができるのですから、それらが蓄積し、大きなツケを払わされることになる。リーダーシップを発揮して短期間に、それぞれの段階で、決断を下していけばよかったのに、先送りしていくうちに悪いものがたまって、それを清算する役割を担ったのが日米開戦でした。国民が日米開戦によって心理的に解放されたのは、アメリカと戦争すればすべて解決がっくと思えるくらいに、困難な問題が積み上がってしまったということでしょう。

同じようなことは、時代を超えて起こり得ます。いまの例でいえば財政問題がそれで、赤字国債を発行してもそれは自分の責任ではなく、「景気がよくなれば」と歴代政権で続けているうちに、とてつもない借金が積み上がってしまった。「いつか清算を迫られるだろうが、それは自分じゃないからいい」という態度が、日本国家のリスクを膨らませている。

イギリスは思い切った財政削減を行った。リスクを伴う選択ですが、一つの考え方だと思います。日本は、景気を刺激するのでもなければ思い切った財政削減をするでもない。どちらにしても、決断するべきですね。短期的にはさらに赤字国債が膨らむが、景気を刺激し、景気がよくなれば税収も増えて、結局は回収できるとなるのか、そうではなくて、いまは痛みを伴うかもしれないけれど、財政を大幅に削減して、失業者もふえるかもしれないけれど、ここで我慢すれば赤字を減らせるんだとなるのか。どちらかに決断すべきですが、戦前と同じで先送りする。あるいは両論併記で、自分が責任をとらない。それが日本政治の文化であるかのように繰り返されているのです。

話し合い民主主義は大切ですが、学級会民主主義ではだめで、集まって話せば決断ができるわけではなく、それを踏まえて誰かが自分の責任で決断を下さなければいけないのに、それをみんなが避ける。自己利益は確保したいけれど、返り血を浴びてまで決定を下そうという人は、いつの時代もいないですね。
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未唯宇宙項目の見直し 2.数学 2.3~2.4

数学史

 モノの関係

  数を表わす
   算数の世界
   リンゴで数を表現
   数字を発明
   それで十分な世界

  地面に描いた
   アルキメデスの時代
   地面は地球体の一部
   頭の中のイメージを投影
   イメージの限界

  モノから抽象化
   モノから数字
   足し算と掛け算
   アレキサンドリア図書館
   モノから離れた

  三角形の相似
   支配者が所有
   市民に考える余裕はない
   相似で認識の世界
   性格を表現する試み

 抽象化

  幾何学原論
   点、線、面積の概念
   経験則からアルゴリズム
   ユークリッドの世界
   実社会での有効性

  方法序説
   ゼロから作り上げる
   我思う故に我あり
   一人で、全体を構築
   生活規範を示す

  デカルト平面
   平面座標系
   ハイアラキカルな
   全体を一律に定義
   座標表現の限界

  次元の呪い
   空間は一様ではない
   次元は局所で決まる
   次元に穴が開く
   局所のみの連続性

 空間で考える

  ローカルから見る
   同一次元の方が例外
   一様な空間は誤謬
   ハイアラキーは窮屈
   配置の次元

  数学とは何か
   幾何学を再定義
   空間は作られる
   不変で空間を規定
   擬似空間のハンドリング

  非ユークリッド幾何
   平面に捉われない
   平行線は交わる
   現象から素直に理論化
   空間の自由度アップ

  トポロジー
   位相空間で全体を表現
   リーマン面の出現
   物理学の先を行く数学
   数学者は空間を作る

 未来を表す
  柔軟な多様体
   同一ルールの集まり
   次元に縛られない
   局所にヒントとイメージ
   情報共有の理論づけ

  到達点と更なる地平
   哲学の言語表現を対象
   自由な空間配置
   局所に全体を見る
   対象を超える

  情報共有を表現
   点から近傍をつなぐ
   近傍と全体をつなぐ
   分化は多様な面を表す
   情報共有インフラ

  分化と統合の理論
   多様体で分化を表現
   全体の関係を統合
   分化と統合のシナリオ
   数学で未来の世界を救う

社会に示す

 部分から全体

  部分を捉える
   偶然を感じる力
   現象から仮説を立てる
   仮説・実証から空間創造
   部分から全体を見る

  全体と部分
   構造主義での全体
   組織の部分は脆弱
   部分で多様化が対応
   組織の分化を誘導

  全体を考える
   数学者は全体を知る
   内なる世界で全体を作る
   思考するが行動はしない
   孤独に徹する

  先が見えてくる
   本質はシンプル
   複雑性の縮減
   数学は未来のカタチ
   未来に対するシナリオ

 仕事に使える

  部品表は空間
   部品のピラミッド
   目的範囲は逆ピラミッド
   適用範囲から集合関係
   空間配置でロジック展開

  技術者の思考
   実験と設計を接続
   アイデアをカタチに
   実験結果をμ空間で保有
   技術者の思考をが解析

  ネットワークの時代
   本社・店舗のネット
   本社・メーカがネック
   メーカー・販売店を等距離
   部分と全体の循環

  数学思考は役に立つ
   ネットはトポロジー空間
   ユーザー要素の数学思考
   集合論と空間論で循環
   自然にわかる仕組み

 社会に展開

  コミュニティを挟む
   常識がインバリアント
   常識で社会を再構築
   近傍系はコミュニティ
   近傍系で社会を構成

  数学で活性化
   地域に居る数学者
   地域で社会モデル
   インバリアントを抽出
   先を見据えた提案

  人の配置と役割
   行動モデルを作成
   数学に社会学・歴史活用
   配置を決め、行動把握
   歴史の動きにつなげる

  循環の完成
   空間配置を決める
   疑似空間で全体構成
   挙動から弱点把握
   循環で不足部分を補完

 システム設計

  生活規範を決める
   安定した生活を確保
   社会常識を観察
   宇宙の旅人のスタンス
   全ての時間は自分のため

  環境社会に再構成
   社会の現象を抽出
   現象を数学で表現
   未唯空間へ全て反映
   環境社会への適合を図る

  持続型社会を実現
   部分と全体の循環
   歴史の耐久性を示す
   未来から数学的に解明
   持続型社会に適合

  部分から全体を規定
   サファイア循環の理論化
   TGALのエントロピー
   持続型社会のあり方
   新しい数学を証明
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