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9.11に2万冊達成

夢見

 私が死ぬのを皆が待っている。それまで元気だった、隣の人が死んでいく。そんな夢を見ていて、起きたのが10時半。なんじゃ、これは。

9.11に2万冊達成

 今日の岡崎市図書館の10冊、豊田市図書館の29冊で19944冊です。金額換算すると、3589万円です。ほとんどが新刊書です。

 2万冊は9.11になりそう 2001年の9.11では、あまりにも何も知らない自分を見ていた。アフガニスタンのマスードから入って、知らないことに興味を持った。図書館の借出冊数も倍の30冊になり、岡崎の10冊も増やした。それから、14年。少しはまとまってきた。

 9.11には、2万冊で起こったことの現象をまとめようと思っている。インジケーターというフォルダーに借りた本の題名とか、OCRした本の一覧などを入れましょう。

 それと2万冊を表現する方法を探しましょう。本の厚さは平均すると1.5cmとすると、30000cm=300mの高さになりますね。なんだー、富士山の10分の1以下です。大したことはない。重さは一冊200gとすると、0.2Kg×20000=4000Kgとなり、私50人分ですね。これも大したことはない。

レバノンワインを話題にしましょう

 姪の玲ちゃんから電話が掛かってきた。暇だから、お茶しませんか。やはり、優しいですね。20日に帰国したことは聞いていたので、これを待っていた。親戚の中で唯一、話し相手になってくれます。他の連中は、私を馬鹿にするだけです。私にとっては貴重な存在です。年2回のスタバでデートと勝手に決めています。

 旦那のソホクリスはレバノンみたいです。今日、ギリシャに帰ってくる予定だそうです。ワインの収穫時期がレバノンは早いとのこと。

 レバノンは半分がムスリムだが、半分はキリスト教徒ということで、ワインを飲むとのことです。早速、岡崎図書館でレバノンのわかる本を借りました。
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豊田市図書館の29冊

210.76『「文藝春秋」で読む戦後70年 第2巻』安定成長期から天皇崩御まで

209.7『20世紀からの戦争・紛争キーワード百科』

374.35『ザ・黒板』黒板の基礎知識から活用のワザ、電子黒板まで

625.62『イチジクの作業便利帳』

131.4『アリストテレスの人生相談』

318『自治体活動と地方議会』

302.27『「イスラム」ココがわからない!!』なぜ? どうして? 世界を騒がす仰天ニュース

331.84『市場は物理法則で動く』経済学は物理学によってどう生まれ変わるのか?

809.2『人の心をつかむ1分間ルール』通販番組に学ぶ「話し方」

361.4『人狼ゲームで学ぶコミュニケーションの心理学』嘘と説得、コミュニケーショントレーニング

329.33『国連を読む』私の政務官ノートから

209『世界史と日本史裏話大全』ここgich版おもしろい

596『新カレー教本』プロに学ぶ 人気21店のつくり方・考え方

007.63『図解 Windows10[総合版]』速効! 基本から応用まで、操作のギモンをすべて解決 ⇒案内は来ているけど、替えようかどうしようか

329.66『「ポツダム宣言」を読んだことがありますか?』

319.1『和解は可能か』日本政府の歴史認識を問う

699.21『70年代と80年代』テレビが輝いていた時代

539.09『クロニクル 日本の原子力時代 1945-2015年』岩波現代全書

501.83『新幹線をデザインする仕事』「スケッチ」で語る仕事の流儀

602.1『地域産業の「現場」を行く』第⑧集「地方消滅」を超えて 誇りと希望と勇気の30話

302.22『ユーラシアの時代が勃興する』中国、アラブ、欧州が手を結び

590.4『すてきなあなたに 05』女王陛下のメープルシロップ 暮しの手帖社

590.4『すてきなあなたに 06』シャボンの匂い 暮しの手帖社

143.1『男尊女卑という病』

002『無学問のすすめ』--自分の頭で考える思想入門

913.6『なめらかで熱くて甘苦しくて』川上弘美

210.75『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 果てしなき戦線拡大編』NHKスペシャル取材班

954.7『人間の大地』サン=テグジュペリ

219.5『占領下の新聞-別府からみた戦後ニッポン』
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岡崎市図書館の10冊

188.8『禅思想史講義』

010『挑戦する図書館』

498.3『瞑想のすすめ』心を空っぽにすれば、人生はうまくいく

302.2『シリア・レバノンを知るための64章』レバノンの半数はキリスト教徒。だから、ワインを飲む。

152.2『お母さんから自由になれば、結婚できる』

210.7『History Wars』Japan--False Indictment of the Century

210.4『長篠・設楽原合戦の真実』--甲斐武田軍団はなぜ壊滅したか--

022.7『印刷という革命』ルネサンスの本と日常生活

707『アーティストの目』

559.1『銃を読み解く23講』見る、読む、訳す GUNの世界
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社会史の視点から日米開戦史を再考する

『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』より

外交史研究は日米開戦回避の可能性が直前まであったと指摘する。それでも開戦に至ったのはなぜか。どのような力学が働いたのか。以下では戦前昭和の社会状況に注目する。開戦に至った背景には社会状況の変動があったと考えるからである。

どのような社会状況の変動があったのか。最初に強調するのは、戦前昭和の社会の〈アメリカ化〉である。

第一次世界大戦後、欧州では敗戦国はもとより、戦勝国も「没落」ぶりがひどかった。欧州諸国とは対照的に、アメリカの台頭が著しくなる。アメリカの影響力の拡大は、日本にも波及する。政治・経済・社会・文化のあらゆる分野で、日本のアメリカ化か進む。戦前昭和の二大政党制はアメリカ型である。政友会対民政党(憲政会)の二大政党制は、アメリカの共和党対民主党の二大政党制と類似している。昭和のデモクラシーはアメリカのデモクラシーがモデルだった。

日本のアメリカ化は日米の経済的な相互依存関係とともに進行する。アメリカは日本にとってもっとも重要な輸出市場だった。他方で日本はアメリカにとって、非欧米の市場(マーケット)において、もっとも安全・有利・確実な投資先となっていく。

日本の経済的なアメリカ化は大衆消費社会をもたらす。日本の大衆文化がアメリカ化する。戦前昭和の社会はアメリカ化の影響を受けた大衆消費社会だった。ここではデパート、アパート、映画、家庭電化製品の四つの観点から、戦前昭和のアメリカ化した社会を再現する。

戦前昭和の大衆消費社会を象徴するデパートは、一九二九(昭和四)年からの世界恐慌にもかかわらず、業績を伸ばしていた。高島屋の社史によれば、一九三〇年から三七年の時期は「躍進期」だった。すでに大正末年頃から束京ではデパートの出店ラッシュが始まっており、松坂屋、松屋、三越、高島屋が銀座や日本橋で競っていた。

デパートと同様に、戦前昭和の大衆社会を象徴する建物がアパート(アパートメント・ハウス)である。東京を中心として、つぎつぎと姿を現わした、鉄筋コンクリート造りのアパート群の建設は、関東大震災後の復興事業だった。これらのアパートはアメリカ化の影響を受けている。同時代のアメリカでは、文化的な設備と中庭付きの中層集合住宅が田園都市構想の一部を形成するものとして、具体化していた。震災復興事業である同潤会アパートは、このアメリカの都市計画にヒントを得ている。当時において最先端の鉄筋コンクリート造りの集合住宅は、豊かな国アメリカの集合住宅がモデルだった。

戦前昭和の大衆社会のアメリカ化は、デパートやアパートだけでなく、映画が促進する。洋画はアメリカのハリウッド映画が興隆を極めていた。なかでも一番人気はチャップリンだった。日本の大衆にとって、アメリカとはチャップリンのアメリカを意味した。

アメリカの映画産業は世界一だった。映画をとおして世界の文化的なアメリカ化を進める。そのようなアメリカに対して、たとえばイギリス議会が「米国映画駆逐案」を議論していたように、国際的な反発が強まる。対する日本は例外的にアメリカの大衆文化を積極的に受容した。一九二〇年代の日米協調関係の背景には、このような大衆文化状況があった。

映画と同様に、戦前昭和の大衆消費社会の象徴となったのは家庭電化製品である。家庭電化製品をとおして日本社会の経済的なアメリカ化か進む。電球や扇風機、アイロン、コタツ、望めばデパートでアメリカ製の冷蔵庫を手にすることもできた。

家電メーカーの創業者、松下幸之助はヘンリー・フォードの影響を受けていた。「この値段であれば、どの階級まで買えるということを考えて、フォードは値段を逐次下げて、買える階級を広げていった。そこにフォードの偉大なる成功がある」。そう確信した松下幸之助は、フォードが自動車の大衆化によるアメリカの社会生活の向上をめざしたように、家庭電化製品の大量生産・大量消費による大衆消費社会の実現に邁進した。

一九二〇年代における日本社会のアメリカ化によって、一九三〇年代に入っても反米感情は抑制的だった。とくに一九三三(昭和八)年五月の日中停戦協定によって満州事変に一区切りがつくと、日本外交は対米関係の修復をめざした。これには経済的な背景があった。世界恐慌から脱却するために、日本は高橋是清蔵相の経済政策(金本位制からの離脱と積極財政)に基づいて、通商貿易の拡大に努めていた。日本にとっての最大の貿易相手国はアメリカだった。そのアメリカとの外交関係に特別の注意を払ったのは当然だったのである。

対米関係の重要性は、日中全面戦争の勃発(一九三七〈昭和一二〉年七月七日)によっても変わらない。比喩的に言えば、日本は対米輸出によって獲得した外貨によって、対中戦争を戦う武器を購入していたからである。

日中戦争の戦時統制下にあっても、アメリカ文化の受容は妨げられなかった。当時、急速に普及しつつあった家庭電化製品の一つ、ラジオからアメリカのジャズが流れていた。取り締まり当局はジャズを警戒する。「支那事変の発生以後に於てダンスーホールに対する論難の声と共に、ジャズ音楽に対する論議も相当やかましくなった」。当局はジャズを批判的に検討する。その結果はつぎのとおりだった。「日本の音楽文化建設の為の参考品としても、或る程度この新しき音楽が我々の周囲に常に流れ動いていてくれることは必要なことと思われる」。アメリカの大衆音楽は日中戦争下の日本でも聞くことができた。

大衆音楽だけではない。英語も普通に学習されていた。当時、旧制高校の学生で戦後、外交官になったある人物(菊地清明元国連大使、元外務審議官)が回想している。「英語が敵性語だとかなんとかいうことになったのは、実際に太平洋戦争が始まってからです。早くても、昭和十六年の初め頃からです。それまでは、高等教育では英語を敵視するとか、英語を学んじゃいかんということは全然ありませんでした」。

この回想は作家の安岡章太郎の回想と符合する。「『鬼畜米英』という言葉は、軍人や右翼イデオローグたちの造語に過ぎないだろう。……一般の日本人には、アメリカ人を鬼畜として憎む気持ちはなかったのではないか。戦前から私たちは、むしろアメリカ文化に対する羨望の気持の方が強かった」。

このように一九三〇年代をとおして、日本の親米感情は続いた。それにもかかわらず、なぜ日米は戦争に至ったのか。社会史の視点は同時期の社会変動に私たちの注意を向けさせる。

格差が拡大していた。所得格差を示す統計値のジニ係数は、一九三〇年代において上昇していた。資本家と労働者、あるいは地主と小作農民の間の階級格差がはなはだしかった。産業間格差や農低工高の農工間賃金格差も急拡大していた。企業規模や学歴の格差、都市と地方の地域格差も目立つ。アメリカとの関連で別の言い方をすれば、経済のアメリカ化は日本に豊かな社会と経済的な格差の拡大を同時にもたらしていた。

男子普通選挙制度の下で、国民は社会的な格差の是正をアメリカの二大政党制をモデルとする政友会と民政党(憲政会)の二大政党制に期待する。普通選挙制度の実施によって、新たに生まれた約一千万人の労働者、農民は無産政党よりも資本家や地主の党の二大政党に一票を投じた。

しかし格差は是正されない。それどころか政争に明け暮れる二大政党は、腐敗した金権政治を展開していた。このような社会状況のなかで起きたのが▽几三二(昭和七)年の五・一五事件である。国民はテロに発れた政友会の犬養毅首相を惜しんだ。しかしこの事件によって、政党内閣が崩壊したことを嘆くことはなかった。その後の国民の投票行動は、二大政党制にかわる新しい政党政治の枠組みを求めていたことを示している。それは政友会と比較すれば社会民主主義的な諸改革を進めそうな民政党を第一党とし、無産政党が協力する政党間連携だった。

ところが新しい政党政治の枠組みは、国民が望んでいたにもかかわらず、一向に実現しない。問題を一挙に解決し社会を改革する。国民はこのような政治的手腕をカリスマ性のある政治指導者に期待するようになる。カリスマ性を持つ政治指導者とは誰か? 近衛文麿だった。戦前昭和の社会の大衆民主主義状況において、国民とカリスマ=近衛を直接、結びつけたのは、新しいメディア=ラジオだった。戦争の拡大に向けてラジオがどのような役割を果たしたかは、NHKスペシャルの第三回「〝熱狂〟はこうして作られた」(本書では第一章)が詳細に伝えたとおりなので、繰り返すことはしない。ラジオを媒介として生まれた国民とカリスマ=近衛との一体感が戦争拡大の社会的な力だったことを確認するにとどめる。
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陸軍暴走の連鎖

『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』より

石原莞爾という「個性」

 満州事変は関東軍の石原莞爾という強烈な個性によって引き起こされました。満州事変の石原莞爾だけではなく、ノモンハン事件の辻政信にも似たようなところがある気がするのですが、強烈な個性を持った人が過激なビジョンを打ち立てて集団を引っ張ってしまうと、それに対抗できるビジョンやパワーがなかったら、権限だけでは立ち向かえません。それは、関東軍だけに限られた傾向ではなかったでしょう。もしかすると日本軍が抱えていた宿病のようなものかもしれません。

 石原も辻も、個性的で過激なタイプの軍人です。彼らの主張は、当時の「正論」で反駁しにくいものでしたし、ラディカルで、どことなく宗教的なにおいもしますから、いったん同調してしまうと、それが大きな運動量につながっていったのだろうと思います。もちろん、その「暴走」は上官である参謀長や軍司令官がとめれば済むはずですが、実際には権限だけではとめられなかったわけですから、よほどの数の同調者が周りにいたとしか思えません。

 部下がコンセンサスをつくってしまっていると、上司はなかなかとめられないんでしょうね。かわりに「これをやれ」という代案を持っていれば、まだいいのですが、同じような問題意識を持っていてはとめられない。それが関東軍という出先の機関であるだけに、ますますそうなったのでしょう。関乗軍は日本の国防の最先端で、強い使命感を持っている独特な軍事集団・軍事組織ですから、それだけ自分たちの思いといいますか、使命感が強い。だから、それを強く主張し、かつ過激な解決案を持っている人が出てくると、周囲はそれに同調してしまうのだと思います。そして出先の軍司令官や参謀長が、部下に突き上げられて動いてしまうと、東京の陸軍中央は、「あれだけの人たちが動いているのだから、それなりの理由があるのだろう」と思ってしまう。しかも軍中央の中堅クラスにも、出先軍と問題意識を共有し、過激な行動に同調する者が少なくありませんでした。

永田鉄山の誤算

 当時の陸軍には永田鉄山という非常に合理的な軍事官僚がいました。彼も陸士十六期でした。彼は、将来起こるであろう総力戦型の戦争に対応するための布石を平時から打っておかなければならないと考えていました。それは軍だけではできないので、政治家や官僚、実業家の理解・協力を得て、政治家の手によってシステムを変える必要がある、と。ところが永田は、その後、政治家に期待しているだけではだめだと考えるようになります。先述した政党政治の負の側面に失望したからでしょう。

 満州事変が起きたとき、永田鉄山は一夕会のメンバーで、陸軍省の軍事課長でした。永田にとって満州事変は誤算だったのではないでしょうか。あの時点で武力を発動し、満州国という傀儡国家をつくるところまで想定していた人は、中央には少なかったと思います。ゼロとは断言できませんが。新国家をつくるところまで考えていたとすると、それは当初の満蒙領有案を断念した石原を含む関東軍の幕僚たちだけでした。永田からすれば、いずれ武力を発動せざるを得ない時期が来るかもしれないが、それは国内外に日本の立場や言い分を理解させたうえで、「武力を発動しないと日本の権益が守れない。居留民の生命・財産を保持できないんだ」といえるような段階になってからだ、と考えたはずです。ただ、いったん事が起こってしまうと、なかなかノーとはいえない。武力発動に賛同した人たちも大半は権益擁護の行動だととらえ、それ以上のことを想定した人は少なかったのではないかと思います。

 石原にとって、満州事変は単なる権益擁護ではありません。日本外交のバックボーンであるワシントン体制をつぶすことによって外交政策を転換させ、さらに対外的な危機をつくり出すことによって、危機に対処し得るよう国家そのもののシステムを変えていこうというのが、彼の遠大なビジョンでした。そして、事変はものの見事に成功してしまいます。

 満州で事が起きると、武力発動はやむを得ないと思っていた人たちは、関来軍の行動に反対しない。権益擁護だと理解した人は、当然支持する。一九二〇年代にトラウマを感じていた軍人一般は、これで国民も軍の存在意義をよくわかってくれるだろうと、関乗軍に理解を示す、あるいは拍手を送る。当時のマスコミの論調も、満州での軍事行動については好意的で、これを支持します。陰影な社会に光明を示すというとらえ方が一部にあったほどでした。

荒木貞夫への期待と失望

 先述したように、少壮将校たちは、それまでの上層部に対して、抵抗と不満を感じていました。国内の総力戦体制構築や満蒙政策について、有効かつ具体的な政策を打ち出さない。遅滞している。彼らは、上層部が明治以来の長州閥の情実人事によって構成されているがゆえに、改革に消極的なのだと考え、「長閥打破」を主張します。具体的には、長州閥から冷や飯を食わされていた荒木貞夫や真崎甚三郎、林銑十郎という人たちをリーダーに担ごうとします。こういう人たちを軍のトップリーダーに据えたならば、彼らと思いを共有し、軍の改革や満州問題の解決にも、積極的にあたってくれるだろうという期待があったのです。

 一夕会は、軍中央の中堅クラスの要職にメンバーを張り付けるだけでなく、上層部にも彼らに同調してくれそうな高級将校を就任させるよう人事の布石を打っていたようです。こうして満州事変をきっかけにして、荒木貞夫をトップに据えようという動きが強くなり、当時の軍上層部もそうせざるを得ないと考えたのでしょう。荒木は統帥系統の軍人で、軍政の経験が少なかったのですが、関乗軍の独断専行や軍中央の下克上的な傾向を憂慮して首相に就任した犬養毅も、当初は、荒木が跳ね上がりの中堅分子をうまく抑えてくれると期待していたように思います。

 この後、陸軍では、荒木や真崎など皇道派と呼ばれるグループと、永田や東条英機など統制派と呼ばれるグループとの間で陰惨な派閥抗争が繰り広げられますが、実は荒木、真崎も永田、東条も、当初は陸軍の上層部に対するアンチエリート、批判層としての思いを共有し、また行動もともにしようという軍人たちでした。

 しかし、期待された荒木陸相は、永田を核とする中堅層の失望を買ってしまいます。荒木は陸軍の改革に必ずしも積極的ではなく、陸軍の要求を実現するうえでの政治的な能力にも見劣りがしました。しかも、荒木は自らの人脈で固める派閥人事を始めてしまいます。これによって皇道派と統制派との分裂が生じるわけです。荒木の行動は、新たな改革をしなければならないと考えていた中堅クラスの軍人にとっては、たまらないことだったと思いますね。改革のための人材登用を期待していたところに、必ずしも有能ではない、不遇感から「長閥」を批判してきただけのような人たちをすくい上げてしまった。それが荒木個人に対する、あるいは荒木を中心とした新上層部に対する大きな不満、批判の材料になっていったのです。

武藤章の変貌

 一九三九年、武藤章が陸軍省軍務局長になります。軍事官僚としての陸軍軍人の思考様式を考えるうえで、武藤は注目に値する人物です。関乗軍の参謀だったとき、武藤は、内蒙工作を抑制しようとして満州にやってきた参謀本部戦争指導課長の石原莞爾に対し、「貴方と同じことをやっているだけだ」と郷楡します。それは出先軍の幕僚としての言い分でした。その後、能力を買われて中央に戻り、参謀本部の作戦課長になりますが、そのとき盧溝橋事件が起こると、いわゆる拡大派に属し、一撃を加えて中国の屈服を勝ち取るべきだと、強硬論を唱えます。強硬論ではありましたが、政治的考慮をとり去り純軍事的な見地からすれば、全く軍事合理性に反した主張というわけでもありませんでした。もちろん、政治的考慮抜きの、きわめて限定的な合理性という意味ですが。

 それがいったん中国の戦場に出て、一九三九年に軍務局長になると、武藤の合理性の幅が広がります。中国との戦争が彼の予想に反して長期持久戦になってしまったことで、本来の敵であるソ連に対抗することができない。一方、ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まりつつあり、そうした状況の変動に対する日本の国防の「弾撥力」(柔軟性)が確保できない。ならば中国との戦争はやめようと、武藤は考えたのです。

 作戦課長のときには、戦いをできるだけ短期に終わらせるためにはどうすればよいか、だけを考えました。政治的考慮があったとすれば、中国を屈服させて権益の拡張を図る、といったことだけだったでしょう。短期戦に持ち込めなかったときに、日本の政治や経済にどのような影響が出るか、という問題は彼の思考の範囲内にはなかった。これに対して、軍務局長になると、対ソ戦に備え、かつヨーロッパの激動に対応するために、どれくらいの能力を持っていなければならないのか、を考えなければならない。しかも、それを、予算を中心に考えなければなりません。そろばんをはじけば、中国との戦争で莫大な戦費を使っているときに、いまさら政府に対して、さらなる資金をよこせとはいえない。自ら捻出するしかない。そうなると、中国に派遣している兵力を引き揚げて、それを除隊、復員させる以外にないのです。こうして中国との戦争を縮小し、最終的には戦争はやめようという結論になる。このような意味で、武藤は合理性の幅を広げ、「成長」したのですが、軍務局長というポジションについたことで、過去の自分の失敗に気づいたのかもしれません。
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一九三〇年代日本を支配した空気 意思決定と民主主義

『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』より 一九三〇年代日本を支配した空気

--先のことを知っているからこそいえる部分もありますが、一九三三年から三六年までを見たときに、別の道があったのかもしれないということですね。結局あの道を選んでしまった最大の要因は何なのでしょう。

井上 軍部が何でも思いどおりにできるというわけではありませんでした。もちろん、国民国家ならどの国でも軍を持っていますから、そういった観点ではどの国も軍部のいいなりになり得るわけですが、日本が軍部に引きずられたように見えてしまうのは、政治体制を統合するはずの政党が、半分以上は自分たちの責任で、正しく統合主体になれなかったことが大きいですね。

軍部は軍事のプロフェッショナルではあっても政治はできません。既に高度に複雑な国家になっている日本の運営は政党にしかできない。政党にしかできないはずなのに、その政党が責任を果たさなかったのです。

政治体制や憲法体制の違いを超えて、政党がどう国民の意思を正確に定義し、それを実現するためにどう動いていくのか。その問題はいつの時代も同じで、かつてはより劇的なかたちで起きて、それが悲劇につながっていった。それはいまでも変わらなくて、民主党が政権をとりましたが、気がついたら自民党と同じようになっている。国民は民主党に何をやってもらいたいのか、はっきりしません。なのに、「政権につけば、どの政党だってやることは同じか」と見えてしまう。変わる余地は限られてはいるけれど、国民の意思をうまくつかんで、変えられるわずかなところをうまく変えて見せて、少しずつ民牛王義を進めていくのが政権政党の役割です。それは昭和戦前難もいまも原理的には同じなのです。

--歴史の反省を踏まえたとき、いまの日本の対外方針に関する意思・政策決定をどう思われますか。

井上 日本は、誰か特定の人がリーダーシップを発揮するということがありません。これは日本の政治文化なのかと思うほどです。政権につけば現実主義化して、誰がやっても同じように見える。あるいは諸外国からすれば、すぐ首相がかわると。確かにそのとおりですが、見方によっては「独裁者的なリーダーシップを発揮することは日本にはふさわしくない」と時代を超えて日本人は思っているのかもしれません。

このような日本の政治文化は、大衆民主主義が独裁者を擁護するというリスクを避けられるという点ではいいのかもしれません。しかし逆にいえば、意思決定せず問題を先送りしてやりすごすことができるのですから、それらが蓄積し、大きなツケを払わされることになる。リーダーシップを発揮して短期間に、それぞれの段階で、決断を下していけばよかったのに、先送りしていくうちに悪いものがたまって、それを清算する役割を担ったのが日米開戦でした。国民が日米開戦によって心理的に解放されたのは、アメリカと戦争すればすべて解決がっくと思えるくらいに、困難な問題が積み上がってしまったということでしょう。

同じようなことは、時代を超えて起こり得ます。いまの例でいえば財政問題がそれで、赤字国債を発行してもそれは自分の責任ではなく、「景気がよくなれば」と歴代政権で続けているうちに、とてつもない借金が積み上がってしまった。「いつか清算を迫られるだろうが、それは自分じゃないからいい」という態度が、日本国家のリスクを膨らませている。

イギリスは思い切った財政削減を行った。リスクを伴う選択ですが、一つの考え方だと思います。日本は、景気を刺激するのでもなければ思い切った財政削減をするでもない。どちらにしても、決断するべきですね。短期的にはさらに赤字国債が膨らむが、景気を刺激し、景気がよくなれば税収も増えて、結局は回収できるとなるのか、そうではなくて、いまは痛みを伴うかもしれないけれど、財政を大幅に削減して、失業者もふえるかもしれないけれど、ここで我慢すれば赤字を減らせるんだとなるのか。どちらかに決断すべきですが、戦前と同じで先送りする。あるいは両論併記で、自分が責任をとらない。それが日本政治の文化であるかのように繰り返されているのです。

話し合い民主主義は大切ですが、学級会民主主義ではだめで、集まって話せば決断ができるわけではなく、それを踏まえて誰かが自分の責任で決断を下さなければいけないのに、それをみんなが避ける。自己利益は確保したいけれど、返り血を浴びてまで決定を下そうという人は、いつの時代もいないですね。
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