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天皇の意向に反する条約調印

『外務官僚たちの太平洋戦争』より 日本の対米英戦争決断理由 三国軍事同盟締結に反発するアメリカ

天皇が憂慮した三国同盟締結の影響

 昭和天皇は、日独伊三国同盟の締結が日米開戦に繋がりかねないことを憂慮していた。一九四〇年九月十六日、松岡外相提案の三国軍事同盟案が承認され、その後に近衛文麿首相が宮中に参内し経過を上奏した時、天皇は次のように述べている。アメリカに対して、もう打つ手がないというならば致し方あるまい。しかしながら、万一アメリカと事を構える場合には海軍はどうだろうか。よく自分は、海軍大学の図上作戦では、いつも対米戦争は負けるのが常である、ということを聞いたが、大丈夫だろうか。(……)自分は、この時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となった時に、一体どうだろうか。かくの如き場合が到来した時には、総理も、自分と苦労を共にしてくれるだろうか。(『西園寺公と政局』)

 さらに天皇は、具体的な焦眉の問題として、アメリカの対日経済制裁について近衛に質していこの条約は、非常に重大な条約で、このためアメリカは日本に対してすぐにも石油や屑鉄の輸出を停止するだろう。そうなったら、日本の自立はどうなるか。こののち長年月にわたって、たいへんな苦境と暗黒のうちにおかれることになるかもしれない。その覚悟がお前にあるか。(同前)

 近衛は畏れ入って、これから先、粉骨砕身して努力することを誓ったという。

 天皇が予測したように、アメリカは直ちに石油・屑鉄の道義的禁輸を実施することになる。政府や軍首脳は、それは織り込み済みのこととして、三国同盟締結や南部仏印進駐を決断したのであろうか。いずれにせよ天皇の憂慮は的中した。

 九月十九日、三国同盟条約締結についての国家意思を最終的に確定するための御前会議が開かれた。席上松岡外相は、日米両国の破局を未然に防止すべきことを強調した。アメリカの経済圧迫が強化されることはないか、ことに石油をめぐる不安はないか、また対ソ関係に及ぼす影響はどうか、など諸点をめぐって質疑応答がなされたが、結局松岡外相から提議された三国軍事同盟条約締結案が決定された。

 松岡外相は御前会議において、条約本文の中では形式的に日本も「自動的参戦義務」を負うことになるが、参戦の時期や方法については、日本が「自主的」に決定しうるものになるという、付属議定書・交換公文の作成を念頭において説明していた。

日独伊三国同盟締結

 しかし、その後の交渉は、思わぬ障害で難航することとなる。

 それはベルリンからの訓令が、次のように要請してきたためである。すなわち、日条約本文中に、三締約国中いずれかの一国が現に欧州戦争または日中戦争に参入していない一国によって攻撃をされた場合は、他の締結国は「宣戦、相互援助」の義務を負うとの規定を明記すること、日本案では付属議定書に規定していた「軍事混合委員会設置」を条約本文に加えること、である。またドイツ側は、議定書と交換公文をすべて除くよう要求してきた。

 交渉はいったん暗礁に乗り上げたかに見えた。しかし九月二十四日夜の会談で、事態は急転直下し、ドイツ側の譲歩によって最終的に妥結した。自主的参戦決定についての日本側主張が容認された形となったのである。ただし、このドイツの譲歩が、ベルリンからの訓令に沿ったものであったかどうかについては多分に疑問が残る。

 九月十九日、天皇は木戸幸一内大臣を召して、松岡外相が三国同盟の条約案を枢密院に諮詞を奏請せずに、詔書によって説明しようとしているが、枢密院に諮絢する方が宜しいと思うと伝えている。さらに「急ぐと云うのなれば、二・二六事件の際の戒厳令の例もあり、徹夜にて審議せしむるも可なるべし」(『木戸幸一関係文書』)との厳しい発言を残している。

 木戸は、三国同盟の締結は、結局は英米と対抗することとなるのは明白であるから、一日も早く中国との国交調整を行う必要があり、「蒋を対手とせず」にこだわることなく、至急対策樹立の必要があると天皇に言上した。

 御前会議では、天皇はより深い憂慮の念を示している。三国同盟の締結に当たって天皇は、再び「此の同盟を締結すると云うことは結局日米戦争を予想しなければなりはせぬか」との宸念を強くされたが、近衛首相と松岡外相はともに「此の同盟は日米戦争を避くるが為めであって、此の同盟を結ばざれば日米戦争の危険はより大なる旨奏上」(以上、『木戸幸一関係文書』)した。

 天皇は「今度(独伊との同盟締結)の場合は日英同盟の時の様に只慶ぶと云うのではなく、万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所に参拝して報告すると共に、神様の御加護を祈りたい」(『木戸幸一日記』)と言い、日独伊三国同盟締結による英米との対立に不安の色を隠さなかった。

 御前会議を経て閣議決定された「日本国、独逸国及伊太利国間三国条約」は、九月二十六日、枢密院の審査委員会、本会議に諮詞され可決された。

 翌九月二十七日、ベルリンのヒトラー総統邸において、三国の全権代表(来栖三郎駐独大使、リッベントロップ独外相、チアノ伊外相)によって、三国軍事同盟の調印が行われた。これと同時に、東京では、松岡外相とオット大使との間に、・自主的な参戦決定、・日英間に武力紛争が発生した場合のドイツの援助義務、・旧独領南洋委任統治領は引き続き日本の属地であることの承認、の往復書簡が交換されている。この交換公文が、なぜベルリンにおいて行われなかったのかは疑問であり、批准交換の手続きを経なかった理由も不明である。
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フェイスブックがイタリアで爆発的に普及した理由

『イタリア人はピッツァ一切れでも盛り上がれる』より

「楽しそうな写真を公開したら反感を買う」という日本人

 2008年、イタリアでフエイスブックが、対前年比961%という驚異的な伸び率で爆発的に普及した。大ブームが滅多に起こらないこの国では、非常に珍しい現象である。

 私もその年、SNSがどういうものかまったく知らないまま、イタリアの友だちの勢いに押されてアカウントを作った。もともとアナログな性格で、メールでさえ最小限に抑えている方なので、「SNSで世界の友だちと交流しよう」などという気はさらさらなかった。にもかかわらず、なぜ私はアカウントを作る気になったのか? それは、イタリア人の友だちが日々更新し、公開している写真や情報に興味をそそられたからだ。

 「チャオ、アサミ。今、これを作ってるのよ!」

 料理中の友だちが写真付きでメッセージを投稿したり、

 「おう、今ここにいるぜ」

 旅行中の友だちが旅先の楽しそうな映像を掲示板に貼りつけたりと、電話だけではわからない臨場感が伝わってくる。これは楽しい。そのうち私も見るだけでなく、自分で写真を撮って友だちに、「こんな美味しいもの食べてるよ!」と公開するようになった。イタリア人の仲間は、食と旅に関するネタだと瞬時に反応があるので、その書き込みを見るのもとても面白い。

 SNSが最大に威力を発揮するのは、お互いが遠く離れた場所にいる時。日本ヘ一時帰国すると、イタリアの友だちは、「今日は何食べた?」とか、「家族の顔が見たい!」とか、リアルタイムで私の状況を知りたがる。反対にイタリアにいる時は、日本の友だちの「今日」がダイレクトにわかるので、物理的な距離感がとても短くなったことを感じている。

 日本でSNSはイタリア以上に日常生活に浸透していると思う。ネット環境やスマホの普及率から考えても、それは当然のことかもしれない。実際ここ数年、日本の友だちがイタリアヘ来るたびに、スマホ操作に追われている様子を間近で見てきた。

 ある日、そんな友だちの一人が、写真を撮って投稿しようとしてふと、「これは載せられないな」とつぶやいて操作を取りやめた。「どうして? すごく楽しそうな写真なのに」と私が残念がると、「そう、楽しそうだからダメなの。日本の同僚は仕事中だから」と言った。要するに、みんなが働いている時に旅先の楽しそうな写真を見せるのは反感を買う、ということらしかった。

 「ええっ、どうして? 別に悪いことしているわけじゃないのに。ちゃんと仕事して、自分のお金で自分のためのヴァカンスをして何がいけないの? 楽しんでいる人を見るのって、嬉しいことなんじゃないの?」。私には理解できない感覚だった。

 SNSをやっている日本の友だちに話を聞いてみると、多くの人が「主に仕事用に使っている」と言っている。私の交流仲間には、会社経営をしている友人もいれば、フリーランスで働いている友だちも大勢いる。彼らにとってSNSはれっきとしたビジネスツールで、そこに書き込む記事やアップする写真は、大事な営業広告になるらしい。

 それを知ってから改めて、公開されているさまざまな日本語の掲示板とイタリア語の掲示板を見比べてみた。そして、投稿記事の内容に大きな違いがあることに気づいた。

共感を呼ぶのは、本音から出た「心の叫び」

 日本語の掲示板の記事には、どれも差し障りのない言葉が並んでいる。そのほとんどは、「こう書けば、こう受け取るだろう」、あるいは「こういう反応が返ってくるだろう」と、読み手の反応を予測したうえで書かれているような印象を受ける。一見すると「コミュニケーション」しているようだが、相手の反応を予測したうえでの書き込みは、裏を返せば「一方通行の告知」。

 反対にイタリア語の掲示板を見ると、みんな好き勝手なことを書いている。日頃から相手の反応など気にしないイタリア人らしく、本音から出た〝心の叫び々〟が、掲示板のそこここに躍っているのだ。

 「おおー、月曜だぜ! 働きたくねぇよ!」

 「そっちの猫ってどうしてこんなに可愛いの?」

 「俺は今晩、何を食えばいいんだ?」

 「私のパパって最高!」

 「僕の今日の髪型、キマッてる」

 「愛してるわ、アモーレ!」

 「誰か俺のマンマの長話を止めてくれ……」

 どの投稿も、読みながら「そんなの知ったことか!」とツッコミたくなる内容だが、ついつい笑ってしまうリアル感にあふれている。賭けてもいいが、書いている本人は読んだ人の反応など一切考えていないはずだ。自分のその時の気分を率直に、誰かに言いたいから書いただけ。それをどう受け止めるかは読んだ人の自由であり、書き手がコントロールできるものでもないことを、彼らはよくわかっている。

 「その時々の自分の感情、状況、経験を、ともかくすぐに伝えて分かち合いたい」。そうした感情の衝動を表現する手段としてSNSを利用しているイタリア人にとっては、自分のコメントがどう受け止められるかなどという懸念は皆無に近いだろう。〝共感を呼ぶ〟ための第一歩は、自分の心情を素直に吐露すること。そのことを、彼らは無意識のうちに知っているような気がする。
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誰も認めてくれなくてもいい、僕さえよければ

『イタリア人はピッツァ一切れでも盛り上がれる』より

イタリア人は「誰かに認めて欲しい」なんて思っていない

 日本のニュースを読んでいると、何かの賞を受賞した人がよく、「認めてもらえて嬉しい」というようなコメントをしている。東京で喫茶店に入った時も、隣席にいたOLが友人に、「上司も同僚も認めてくれない」という悩みを打ち明けていたことがあった。この、「誰かに認めて欲しい」という声は、イタリアではとんと見聞きしたことがない。

 イタリア人の友だちは、誰もが何かしら情熱を傾けて追求するものを持っているが、彼らの姿勢から伝わってくるのは、「私はとにかくこれが好き!」というパッションであって、「認めて欲しい」という欲求とはちょっと違うような気がする。相棒の従姉妹のジュリアは、20代後半の理学療法士。学生の頃から演劇に夢中で、社会人となった今も、時間があれば仲間と一緒に芝居の練習に励んでいる。そんな彼女が「小劇場でお芝居をすることになったから観に来て」と言うので、親戚一同そろって観に行くことにした。

 演目は、シェイクスピアの代表作『ハムレット』。オフィーリアを演じることになった彼女は、難解で長いセリフの丸暗記はもちろん、ヒマさえあればオフィーリアに関する本や絵画を探しまくり、衣装、メイク、髪型から性格判断まで、あらゆる角度から研究して彼女なりのオフィーリアを作り上げることに情熱を傾けていた。それを知っていた私たちは、彼女の晴れ舞台がとても楽しみだった。

 従兄弟ら4人がそろって車に乗り込み、劇場へ向かう道すがら、ジュリアが突然こう言った。

 「お願いがあるの。舞台で何があっても、絶対に笑わないって約束して」

 珍しく真顔で、深刻そうな彼女の声の調子に、私たちはちょっと戸惑った。

 「おいおい、大丈夫だよ。失敗しても笑ったりしないよ。それにあんなに頑張って練習したんだから、トチッたりしないさ。もっと自信を持てよ」

 頼もしいお兄ちやんのルチアーノが、そう言ってジュワアを励ました。すると彼女は、「違うのよ。私のことを言ってるんじゃないの。問題は、〝ハムレット〟なのよ」とため息まじりに、告白した。

 「実はハムレット役の男性がね、ものすごいローマ訛りなの。でもすごく真面目な人で、一生懸命練習したのよ。演出家も何度も発音や話し方を注意して、彼も何ケ月も取り組んできたの。でも、ホントに可哀想なんだけど、どうしてもアクセントがローマ訛りになっちゃうのよ。だから万が一、ハムレットがべタベタのローマ弁でセリフを言っても、笑わないって約束して!」

 なるほど、〝ローマ訛りのハムレット〟か。それは確かに、想像すると笑えるかも……。

 ローマ訛りをどうお伝えすればいいか悩むところだが、簡単に言うと、かなりくだけたアクセントで、強い巻き舌はちょっと粗野な印象を与える。江戸っ子のがらっぱちとか、活きのいい関西弁のような感じ、とでもいおうか。そんな口調で苦悩しまくるハムレットというのは、確かにかなり無理がある設定だった。

 劇場で合流した他の従兄弟グループ4人と私たちは、後方右側の席に一列に並んで座った。もっと前へ座るつもりだったが、万が一ハムレットに何か起きたら吹き出す前に退避できる席にしよう、ということで場所を変更したのだ。

 いよいよ幕が開いた。予想に反して、劇はたいした混乱もなく順調に進んだ。ジュリアのオフィーワアはキュートで、衣装もメイクもばっちり決まっていた。演出もかなり斬新な手法で、素人集団とは思えないレベル。寸暇を惜しんで情熱的に取り組んで来た役者たちのエネルギーが舞台上で弾け、観客が惹き込まれていくに従って、舞台上の役者たちもエスカレートしていった。

 そして第三幕。ハムレットのあの有名なセリフのシーンになって、熱演を続けていたハムレットのアクセントが突然、崩れ始めた。

 「生きるか、死ぬかり!? それが問題やっ、ちゅうねん」

 我々の一列は、全員がとっさに頭を膝に抱え込んで、なんとか爆笑を凌いだ。しかし、それは単なるプロローグにすぎなかった。そこから先、ハムレット役の彼は天井知らずでヒートアップを続け、「どこまでが僕で、どこからがハムレットかわからない」というトランス状態へと突入していった。熱が入れば入るほど、ローマ訛りはキツく、声は大きくなり、他の配役の完璧で美しい台詞回しとの対比がますます鮮やかになっていった。〝笑ってはいけない〟という掟があると、ハムレットの訛りはどんどん強調されて聞こえてくる。そんなわけで、私たちは第三幕以降ずっと、頭を下げて自分の靴を見つめつつ、ぷるぷると肩をふるわせながら必死で耐える羽目に陥った。途中、我慢できなくなった二人が退場したが、一列全員がそろって席を立つわけにもいかないので、残された者はひたすら耐えるしかなかった。
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1968年「輝かしい時代」の再検討

『グローバル・ヒストリーとしての「1968年」』より チェコスロヴァキア--プラハの春

1968年と一九八九年

 「プラハの春」から二一年後の一九八九年一一月二四日、ドプチェクはハヴェルと共に推定五〇万人の大群衆の前に立ち、喝釆を浴びていた。ペルリンの壁は既に崩壊し、チェコスロヴァキアにおいても民主化を要求するデモが頂点に達しつつあった。ハヴェルなどの回想によれば、依然として社会主義を信奉するドプチェクは体制の改革について演説を行い、自らが時代遅れの存在であることを露呈してしまったという。しかしながら、少なくとも大規模なデモが始まった一一月一七日からハヴェルが大統領に選出される一二月二九日までの期間、反体制派グループ「市民フォーラム」のポスターや集められた民衆の声から判断する限り、社会主義に対する支持は依然として高かったとも言われている。

 また、一九八九年一二月の時点で直接選挙による大統領選挙を行った場合、ハヴェルが当選する確率は低いと見られていた。共産党は、ドプチェクか、最悪の場合でも自党の人間に勝機があると判断し、もっとも民主的という理由で直接選挙による大統領選出を主張した。だが、あくまでハヴェルを推そうと考えていた市民フォーラムは、共産党と密かに交渉し、議会でハヴェルを大統領に選出する代わりにドプチェクを連邦議会議長にすることで合意した。

 以上の事実は何を意味しているのだろうか。例えば、ハヴェルという人物が西側で考えられていたほど国内で知られていなかったという点が挙げられよう。これは、「正常化」時代における反体制派の抑圧が良くも悪しくも効率良く機能していたことを示している。多くの国民は憲章七七の存在を政府主導の「反憲章」キャンベーンを通して知ったが、メディアによって否定的なイメージを与えられるのみであり、肝心の中身はまったく知らされなかった。工場やオフィス、学校などあらゆる場において、人びとは憲章を非難する文書を渡され、判断する間も与えられないまま署名した。もちろん、多大な犠牲を払って政府に異議申し立てをし続けた人びとが存在したことは事実であり、その意義についてはいかなる場合においても強調すべきである。だが、社会全体から見れば、反体制派と呼ばれる人たちの数は限られていた。

市民社会と1968年

 一九八九年から既に二五年が経過し、チェコスロヴァキア(現在のチェコとスロヴァキア)の現代史についても見方が少しずつ変わってきているように思われる。言うまでもなく八九年の体制転換は劇的であったが、資本主義の導入やEU加盟がバラ色の未来を約束すると思われた時期は既に昔となった。さらには、社会主義時代の記憶を持たない若い歴史家たちが、「正常化」体制に着目し、新しい見方を提示しつつある。とすれば、一九八九年以降を「良い時代」、「正常化」時代を「悪い時代」、1968年を「良い時代」、という風に単純に色分けすることはもはや難しい。

 また、九〇年代初頭のように市民社会の理念に対して楽観的であった時期においては、「プラハの春」において市民社会の萌芽が見られたと理解し、七〇~八○年代の試練の時期を経て九〇年代にそれが全面的に開花したと考えることができた。だが、市民社会の困難さが明らかとなった現在においては、そもそも市民とは何だったのかという点が問題となる。例えば、「プラハの春」において見られた知識人や学生の華々しい活躍は社会全体を代表する動きだったのだろうか。ルプニクの言葉を借りて言えば、1968年の知識人たちは、党と人民との橋渡しとして行動し、社会の民主主義的な願望を表明しながら支配者を啓蒙する役目を担った。しかし、知識人が本当に人民と一体化したと感じたのは、「プラハの春」が粉砕された後であったのかもしれない。クンデラが戦車に占領された直後の時期を「われわれの人生でもっとも美しかった一週間」と評したのは、大きな皮肉である。

 「プラハの春」がチェコスロヴァキアの歴史において輝かしい時期の一つであったことは間違いない。だが、市民社会や民主主義が現在においても大きな課題となっている以上、「プラハの春」の位置付けは今後も変化していくだろう。
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挟めば戦争はなくなる

根源的なこと

 「やりたいことは今すぐにやれ」って、書いてあるけど、ここに書かれていることは、奇跡なのか? 他愛のないことばかりですね。全然、根源的なことではない。

 どうしたら、共有意識に目覚めるのか。覚醒するのか

挟むという考え方

 やはり、インフラというものと自分の二つで挟むしかないでしょう。

 個人のレベルから言ったら、なぜ、戦争をしないといけないのかわかりません。超国家からしたら、やはり、戦争することがわかりません。国家というレベルを挟むと戦争になります。

 やはり、挟むという発想です。下と上が直通することで挟み込む。
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