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日本が戦争をするのは20年後

パートナーからのメール

 朝7時半に、パートナーからのメールが入っていた。全然気がつかなかった。相談相手が居なくて、困っているとのこと。

 それに対して、孤軍奮闘しても埒が空かないから、組織の力を求めるように。組織の「要」に居ることを自覚すれば、周りが味方に見えてくると希望的観察を述べました。

 コンサルティング的なことは避けないといけないのは分かっているけど、パートナーの様子が見えてくると、どうしても言いたくなってしまう。

日本が戦争をするのは20年後

 日本が戦争するとした時に、陸軍も海軍もないのに、出来るはずがない。するとなると、宇宙軍しか考えられない。だけど、宇宙(といっても、数百Km上空だけど)は完全にアメリカに抑えられている。今のうちに、宇宙軍を作り出すことを20年計画を行って、アメリカに対抗するしかない。

 戦争の目的は、新しい環境世界を作りだすかという一点に絞るしかないでしょう。20年後に国という単位が意味をなさなくなっているだろうから。それからすると、どんな戦争になるのか。

 その時に、日本だけが旧態依然たる国があるとしたら、日本対全世界の戦いになる。何のために戦うのかをハッキリさせないと、その頃の「市民」は動くことはないはずです。

本を読む理由

 本を読む理由の一つは、こんなもんで出版できるんだという安心感を得るためです。

第8章はかなり咀嚼しないといけない

 今日中に、未唯宇宙の第2章を終えて、第8章に行きましょう。第8章も中々、面倒くさいです。第5章と一緒で、販売店をテーマにしている。退職した今となっては、過去のことに近い。だけど、パートナーがその中に居る以上は、どうなるのか、どうしたらいいのかを真剣に考え抜きましょう。

 表現は軽くしておきます。あくまでも、ヒントです。パートナーへの具体的な指針になるはずです。
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図書館はどこへ行くのか

『挑戦する図書館』より 情報技術・ネットワークの進化と図書館 情報技術と図書館サービス

図書館はどこへ行くのか

 誰もが、いつでも、どこででもコンピュータ情報通信ネットワークにアクセスして知識や情報を入手できるとなると、図書館は必要なくなるのではないかという考えが生まれる。それに、過去の図書も含めてあらゆる本がデジタル化されネット上に公開されれば、本に収録されている知識や情報はネットワークから入手できるようになる。図書館という空間や施設そのものが無駄だと考える人も出てくるだろう。

 図書館の外のネットワーク空間と図書館のなかを隔てる壁はなくなる。図書館がネットワーク空間に飲み込まれてしまうのか、図書館の空間の独自性を維持できるのか。知的な創造に関わってきた図書館は、近い将来、図書館そのものの存在を問われることになるだろう。基本に立ち返って、図書館とは何かを考えなければならない時期にさしかかっているといえる。

 「価値創発」に関しては、図書館としても考え方をまとめておく必要がある。ネットワーク上で出合う知識や情報から新しい知識や情報が生まれる。それに伴い、図書館の知的な創造の場としての地位は低下する。これはやむをえない。だからといって、図書館として手をこまねいているわけにはいかない。ネット上で出合い、新しく生まれる知識や情報だけが、知識と情報のすべてではない。すでに前章でもふれたように、図書館としては、人と人の交流によって生まれる知識や情報があることを確認しておくことが必要だ。

 人と人のリアルな面と向かった交流は、人格的な面も含めたさまざまな情報をお互いに交換し合うという特徴がある。

 その特徴を生かし、新たな知識や情報を生み出すためには、図書館の空間を再構築し、さらに図書館員の役割も見直さなければならない。図書館員は、相談・回答サービス、情報発信、調査・研究に関わるだけでなく、地域社会のさまざまな活動に関わり、かつ、そのなかで人と人を結び付けるコーディネーター、コンシェルジュ、ナビゲーターの役割も果たすことになる。図書館員の研修や再教育は喫緊の課題だ。ここでは、図書館とは何かという問題に挑戦する前に、現在進んでいるIT化か図書館にどのような影響をもたらすかを見ておこう。まず、現在進行中の日本のIT政策から見ていくことにする。

「公共クラウドの構築」について

 「公共クラウドの構築」は図書館のシステムをも対象とするもので、一部の図書館はすでに運用を始めている。クラウドを導入している図書館の事例は、富士通やNECのウェブサイトのなかのクラウド関係のページにある。また、二〇一四年のライブラリー・オブ・ザ・イヤーで優秀賞を受賞した福井県鯖江市図書館は、クラウドの先進事例としても評価された。コンピュータ関連経費などの面から見ると、県庁や教育委員会と話し合って条件が整備され次第、クラウドを採用、参加する方向で取り組むべきだろう。

 「宣言」と直接関係が深い事柄は、以上のようなものとなる。しかし、IT化はこのほかにもいくつもの検討課題を図書館に突き付けている。それらについて以下で考えてみたい。

集合知のレベルアップと図書館サービス

 またインターネット上には質問・回答の専門ウェブサイトもある。「Yahoo!知恵袋」などがそれだ。これらは質問が寄せられると、それを見た人が回答を寄せ、そのなかから質問者は自分の質問の回答にふさわしいと判断したものを採用するという仕組みである。つまり、どの回答を最適と判断するかは質問者の自己判断・自己責任に任されている。

 私もかつてレファレンス演習で学生に出した問題がネット上の質問・回答サイトに出ているのを見たことがあった。四つの回答が寄せられていたが、すべて誤っていた。どれも当て推量で、回答の根拠が示されていない。こうしたことは日本人によるネットヘの書き込みでは珍しくないので、べつに間違っていたからといって目くじらを立てることではない。

 集合知は確かにネット上のすばらしい成果といえるが、そこには誤りもある。しかし、それでもレファレンス・サービスの質を変えることにはつながっていくだろう。図書館界内部での集合知の創造も一層強化していく必要がある。

 集合知を基盤として将来優れたスマートマシンが登場し、ネット上の多くの質問に対して正確な答えを導き出すようになるだろう。そうなったとき、人間の役割・仕事はどうなっていくだろうか。レファレンス担当の図書館司書は、どのような仕事の内容にシフトすることになるのだろうか。シフトできなければ、仕事がなくなるという恐れさえある。

資料情報のデジタル化とオープン化

 資料のデジタル化は急ぎ進めなければならない事項である。世界の趨勢から見ると、日本の資料のデジタル化は遅れている。図書館では特に、地域資料のデジテル化か急務だ。問題は著作権である。国立国会図書館のような対応はとれない。そのうえ、地域資料は、著作権者の現住所がわからない場合が圧倒的に多い。著作権者の了解をとってデジタル化するという作業は非常な困難が伴う、というよりほとんど無理といっていいだろう。そのため、フェアユース(公正な利用)という考え方を導入して、デジタル化ができる道を開くよりほかにないように思われる。図書館界として議論をまとめ、国民に提案するのだ。

 またデジタル化の範囲も問題になる。日本の場合、古くから紙が存在した。読み書きは鎌倉時代の後半にはかなり普及した。そのため、手書きの文献の数は非常に多い。地方に行くと、屋根裏や戸棚の奥などに墨で書かれた文書がどこの家にも積み上がっている。これらのごくごく一部が地域の図書館や博物館に収蔵されているだけで、ほとんどは放置されている。デジタル化の技術でこうしたものを残すことも考えたほうがいいのではないか。

 いま一つの問題は、そうした文献を読みこなす人が少なくなっていることだ。もう半世紀ほど前になるが、私が早稲田大学文学部で学んだときには古文書を読む科目があったが、いまはもうない。ごく一部の県立図書館が古文書を読む講座を開いているが、日本の知的な文化を継承するという点では、こうした試みはもっと広範囲におこなわれるべきだろう。

住民による電子書籍の作成支援

 かつて、ガリ版刷りの図書や雑誌を作って売ることが若者たちの間ではやった時代があった。東京・神田の三省堂書店、東京堂書店、ウニタ書舗などにそうしたコーナーがあって、そこで売ってもらった。若者文化の一つだったが、エレキギターに取って代わられて衰退した。

 現代の若者は電子書籍を作って売っている。秋葉原ではもうだいぶ前からCD-ROMに収めた漫画やコミックを売る店があって、若者でにぎわっている。図書館でもウェブサイトにコーナーを作って、そこに展示して読んでもらうなどしていい。図書館が音声動画入りの電子書籍を作ることができるソフトを製作して無料配布してもいい。講座を開いて参加者に作ってもらう。もちろんシニア向けの講座も用意しよう。電子書籍も一つの文化になるだろう。
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対立する陸海軍の主張

『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』より

確固とした方針の決定を先送りし、安易に日米開戦へと踏み切った日本。緒戦を勝利したとは言え、その戦争の方針をめぐって陸海軍の対立はむしろ開戦前より一層深まっていった。このままではいけない--一九四二年二月九日に開かれた大本営政府連絡会議の後、急進、戦争方針の二元化に向けて陸海軍の中堅官僚たちが動きはしめた。

当時、陸軍省軍務課長だった佐藤賢了は、その取りまとめにあたった軍官僚の一人である。遺族の佐藤巌さんは、生前佐藤賢了が繰り返し語っていた当時の事情を次のように話す。

 「大きな戦争としては日清、日露があるわけですけれども、そのどちらでも、終結の見込みが立たないままに戦争に踏み切ったのだと。それがどういうわけか日本の陸海軍に(体質として)染み付いた。終結の方法を考えずに戦争に入るということを当たり前のこととして考えるようになっていた、ということを聞かされたことがあります」

佐藤賢了は大量の手記を残している。『大東亜戦争回顧録』と題されたそれには、当時の政策立案者としての苦悩が記されている。

 「戦争を終結に導く方策は、開戦よりもさきに考えておくべきものであることは、戦争指導の鉄則である。しかし、こんどの戦争は遺憾ながら、戦争終結については自主的計画も見通しもはっきり立てられなかったのである」

大本営政府連絡会議の招集から二週間ほどが経過した二月二二日。東京赤坂の山王ホテルに、今後の戦争方針をまとめるため、佐藤たち陸海軍中枢の課長十人が集まった。連絡会議での意見集約の困難が見込まれる中、議論を陸海軍双方の譲歩可能な落とし所に導くため、事前に国策の原案をすり合わせることが目的だった。しかし、突破口を求めたはずのこの実務者会合でも、議論はたちまち紛糾した。

海軍省の担当者は、海軍が構想した積極策を主張したという。

 「緒戦の結果は、非常に偉大であった。この戦果を徹底的に拡張し、敵に立ちなおって反攻に出る余裕を与えないことがきわめて肝要である。太平洋における総反攻の基地は豪州であるから、先手を打って豪州に作戦しようではないか」(『大東亜戦争回顧録』)

あくまでオーストラリアヘの拡大攻撃を主張する海軍。陸軍はこの時、海軍から持ち出された豪州作戦に驚きつつ、即座に反論した。

 「それはむちゃだ。豪州作戦などは開戦前から趾画もなければ考えてもいない。この作戦計画を実行するには、陸軍にはすくなくとも十二個師団を要し、軍隊輸送と補給のため、百五十万トンの船を徴傭しなければならない。そんなことをしたら、国家が心臓マヒを起こしてしまう」(同前)

それに対して、海軍が陸軍の方針について問い質すと、今度は陸軍が従来の自らの主張を声高に繰・り返した。

 「経済封鎖は破れた。既定計画にもとづいて占領地域を開発建設し、その資源を内地に運んで戦力化していく。今後、海軍に大いに力を入れてもらいたいのは護衛作戦だ。また、島々に飛行機と防備をほどこして戦略基地網を構成して、敵の反攻を迎え撃つ準備が急務だ。豪州作戦などとはとんでもない」(同前)

陸軍が最も懸念していたのは、戦線が仲びきることだった。兵力は移動距離の二乗に反比例すると言われていた。島づたいに南下を続ければ、その度に進出した島の手前に補給基地をつくらなければならなくなる。それを繰り返していくうち、前線の兵力は次第に先細りになっていくからだ。陸軍は、この戦線の距離と補給の関係の重要性を、広大な中国大陸で身をもって体験していた。

また豪州作戦には、徴用船舶の数そのものにも大きな無理があった。佐藤の『大東亜戦争回顧録』によると、開戦当時の日本の船舶は約六六〇万トン。陸海軍が三九〇万トンを徴用し、残りの二七〇万トンを国民生活と軍需のための生産用にあてていた。ただし、戦争継続にはつねに三〇〇万トンガ生産用にあてられていなければならず、初期攻撃が終わった後、軍は一一〇万トンを生産用に返すことになっていた。ところが豪州作戦で陸軍だけでも新たに一五〇万トンを徴用する事態になれば、生産用船舶は必要量の半分以下となり、軍需生産も国民生活も立ち行かなくなることは目に見えていた。

戦線が伸びることに対する海軍の認識の甘さは身内も指摘するほどだったようで、輸送や補給に関する疑念は海軍内部でも囁かれていた。

 「私がいた南方方面でも、陸上防備など敵の上陸に対抗すべき(備え)はほとんど何もできていなかった。南方方面は敵の主作戦線と考えていたはずなのに、こんな状態だった。輸送、補給の面も気掛かりだったので中央にたびたび要求したが、『君は弱気だな』と茶化されてしまう始末。これでは山本長官の『はじめの一年か一年半は暴れてみせる』といった発言もどうかな、と思ってしまった」(川井巌・海軍第四艦隊参謀証言)

一方、泥沼化した日中戦争の決着を優先課題として位置づける陸軍は、そもそも海軍主導で始められた南方での戦いに関心が薄く、持久論に終始するばかりであった。海軍は元来、この戦争自体が勝ち目のないものであるという認識を持っていた。緒戦の真珠湾やマレー半島での作戦が成功したとはいえ、米英の反攻は必至であり、戦局が有利なうちに米英を叩き続けて戦意を喪失させる以外に、戦争終結の道は開けないという判断であった。陸軍に対しても、中国大陸でさかんに大長期戦だの、持久戦だのと喧伝していたが、それで解決し得なかったではないか、中国が相手だから持久戦でもつのかもしれないが、国力でけるかに勝る米英相手の大戦争で持久戦などをやっては、それこそ心臓マヒだことの思いがあった。短期決戦に持ち込むしか勝つ見込みはないのだと--。

 「陸軍というのは大陸ばかりをにらんで国防をやっておる。海軍はアメリカをにらんで西太平洋における決戦ということばかりを考えてやっておる。これを本当に消化して、日本の向かう国策はこっちだ、このけじめが最後までつかないままでいたと」(佐藤賢了証言)

こうした陸海軍の収拾のつかない対立を、国際日本文化研究センターの戸部良一教授は次のように解説する。

 「陸軍は、アメリカを叩くなどということは、そもそもあまり考えていませんから。その一番基本的な部分のすり合わせがどうも最初になされていなくて、戦争を始めてしまった。アメリカとの戦争は海軍に預けて、あとはオレ知らないよ、自分たちでやるよという行き方ですから、海軍に対してもなかなか説得力をもち得なかったのだと思います」
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南方の資源

『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』より

日本のはるか南、太平洋に浮かぶ熱帯の島、ボルネオ(カリマンタン)島。

日本の国土のおよそ二倍の面積を有し、現在はインドネシア、マレーシア、ブルネイの三か国が領有するこの島は豊富な資源を産出する。石油、石炭、金、鉄、スズ、ボーキサイト……。ことに良質な石油資源がこの地の重要な産物であることは、時を経た現在も変わりない。

 「日本が来た時は、いまの四十倍の石油が採れたからね」

と現地の国有石油会社「ペルタミナ」の担当者は話す。

七十年前、イギリスとオランダが植民地として領有・経営していたこの島へ、戦争という蛮行を犯してまで日本を駆り立てた理由は、まさにその石油をはじめとする資源にあった。

なぜ、それほどまでに日本は南方の資源を渇望したのか、開戦前の事情を少し整理しておこう。

日本はもとより地下資源の乏しい国である。当時、日中戦争が泥沼化しつつも日本がなんとか国力を保ち得ていたのは、アメリカとの貿易が国家経済の支えになっていたという背景があった。石油や鉄といった戦略的に重要な資源の大半をアメリカからの輸入に依存していたのが当時の日本の実態である。

しかし、日本の強引な大陸進出策に態度を硬化させたアメリカは、まず一九四〇年一月に屑鉄、航空機用燃料などに輸出制限を加える。対日経済制裁の始まりであった。さらに同年九月に日独伊三国軍事同盟が成立すると、日米関係はさらに悪化する。両国の対立は鮮明になり、屑鉄、鉄鋼が全面的に輸出禁止となるなど、アメリカの制裁はますます強化され、イギリス、オランダもこれにならった。

物資の窮乏を打開するため、日本は代替供給地の獲得を急がねばならなかった。そこで目をつけたのが、豊富な資源を有するアジア太平洋の南方地域である。しかし、オランダ領東インドに石油などの供給交渉を行うものの、アメリカの圧力などもあって四一年六月に交渉は決裂。また、海軍が民間商社を通じて独自に試みたブラジルやアフガニスタンなどでの油田、鉱山の獲得交渉もやはりアメリカの圧力の下に頓挫し、民間ルートでの資源調達の途もこの頃には閉ざされていた。

そして一九四一年七月、さらに厳しい経済制裁が日本に課されることとなる。

石油などの資源獲得に向けた南方の拠点づくりのためフランス領インドシナ南部に日本が軍を進めると(南部仏印進駐)、アメリカは態度を決定的に硬化。保有する対日資産の凍結をけじめ、アメリカは日本へは石油を一滴たりとも売らないという全面禁輸に踏み込んだ。さらにイギリスは口英通商航海条約等の破棄、オランダは日蘭石油民間協定の停止を表明。大陸で戦う中国を含め、強力な対日経済制裁の包囲網(ABCD包囲網)を形成し、日本の封じ込めを図った。

なかでもアメリカによる石油の全面的な禁輸措置は日本にとって深刻な打撃となった。戦前の日本は、石油の六六パーセントをアメリカに、イギリス・オランダを加えた三か国には合計九四パーセントも依存していた。アメリカの禁輸措置は、日本にとっては、国家経済の血流を止められるに等しい死活問題となったのである。

戦時の国家経済を統制していた企画院が作成した資料によると、四一年七月時点で日本に残された石油の備蓄量は七百万トンあまり。一日一万トンの備蓄が消費され、それは平時であっても二年ともたぬ量にすぎなかった。先に輸出制限を受けていた戦略性の高い航空機用燃料などは備蓄が底をつきかけていたとも言われている。

避戦か開戦か--。

アメリカの要求に応じて中国から撤兵し戦争を回避するのか、それとも資源調達のために南方地域へと進出するのか。日本は抜き差しならない苦境に追い込まれた。しかし、中国からの撤兵は国内からの、南方への進出は米英からの反発は必至だった。猶予のない経済的圧迫に国策の最終決断を迫られた指導者たちは、日米交渉に一縷の望みを託し、経済封鎖を打開する途を探った。

しかし、結果は冒頭に記したとおりである。日米交渉が続けられる中、一九四一年一一月二六日、択捉島ヒトカップ湾を出港した連合艦隊は、ハワイ真珠湾に向けて移動を開始した。その直後、いわゆる「ハル・ノート」が東京に到着した。その内容は中国と仏印からの完全撤兵など、原則論を繰り返しか、日本にとって極めて厳しいものであった。大本営政府連絡会議は即座に対米交渉の打ち切りを決定した。

こうして、政府首脳のみならず、開戦を支持した軍指導部の者たちでさえその多くが「勝算なし」と考えていた戦争に日本は突入していくこととなった。資源を追い求めて始められた戦争かたどり着いた先は、出口も戦略も判然としないまま、やがて泥沼化していくことになる。
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