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地元に女性を活かすメッセージ

自分のインジケーター

 ブログが8002件。ツイッターが50582件。

未唯へ

 今日は寒い位です。スタバでのコートを羽織りました。合羽用に持って行ったものです。これで夏はおしまいですね。

女性活用のメッセージ

 今日の朝のメッセージの意図は、これからは女性がローカルで自由に仕事ができ、それを役人が助ける。

 地元に女性を活かすメッセージ

  次に歩き始めましたか? ⇒ こども英会話講師養成の職業訓練に通えるよう、応募してきました。

  併せてボディランゲージを磨くと、ユニークな教育ができると思います ⇒ 私はそちらの方が得意でした。ボディランゲージもおりまぜれば、コミュニケーションの幅が広がりそうですね。楽しみになってきました。

  お元気ですか? ⇒ 「ふっくら」(Iさんの表現)、「ぼたぼた」(奥さんの表現)、「元気そう」(パートナーの表現) ⇒ みなさんの表現にその方らしさが出てて面白いですー! お元気そうでよかった

  作られる教室には、子どもの保護者を巻き込むように出来れば、チェアのように地域のための活動につながります ⇒ なるほど何か活動がしていけそうですね! 地元は子どもの人数が少ないのですが、世代は3世代4世代が一緒に住んでいるケースが多いです。家族を巻き込んだら可能性が広がりそうです。

  海外から人を招く心と表現する力。そして,地元の風景にあった水力発電と盆踊りでアピールすればいい ⇒ 地元のいいとこですね

  地元に行けば、季節にあった風景と最新技術を使った地産地消エネルギーが見えて、それを誇りとして、応対してくれる人たちが居る。これを役人(役に立つ人)に売り込みましょう! ⇒ なるほどそういうことですね! 地元の良さを本当に知ってみえる方々に協力していただけばいいんだ! 私が全部できなくてもいいんだ、そう思いました。

寝られていない

 それにしても、寝られているのかな。今日も1時から5時まで寝転がっていたが、すぐに起きる感じです。

 だから、急に眠気がしてくる。

2.8「次の次」

 2.8「次の次」。これは新しい数学の先です。存在の力から作られる世界。それに空間を再構成させること。トポロジーで作られた世界の次の世界を示すこと。部分と全体、個と全体が一緒になっている空間。

 それは誰が見たこともない世界です。相対性理論が生まれる前のリーマン空間です。何を意味するのか分からない世界。そして、相対性理論が生まれて、その意味が分かる。

 その世界をLL=GGでイメージしていく。そこで理論づけしていく。それを社会のバックボーンにしていく。地球という層に居る人間が百キロ先の「宇宙」という世界でつながっていく。完全にマッピングの世界。バラバラでありながら、つながる世界。

 だから、2.8「次の次」は不完全にならざるを得ない。こんなところが完全になることはない。だから、とりあえず作って、少しずつ変えていけばいい。その「とりあえず」をいかに分かるようにしておくかです。

人間の想像力

 それは100年前の人たちが「インターネット」を考えるのに近いカタチです。人間の想像力だけが為しうる世界。宇宙を想像し、多重世界も想像する、そんな人間ならではの世界。

 それが在って、はじめて<今>が規定できるし、内側の世界に自由が求められる。

2.8.3「未唯宇宙」

 2.8.3「未唯宇宙」は本当の意味のマルチバースをイメージできるようにする。未唯宇宙の中に作り出す。その理論的な根拠ということにする。単なる未唯空間から作られたものからさらに大きく変えていく。

 未唯宇宙の要素は今のレベルで、情報共有とか発信とかコミュニティとか書いてあるけど、これを宇宙空間に放りだします。
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知識青年たちの内モンゴル

『内モンゴルを知るための60章』より

知識青年とは、およそ1950年代から1980年代初期までの間に都会から辺鄙な農村や牧畜地域に下放され、田舎の人々と生活を共にした中国の若者の総称である。その名称のうち「知識」というのは彼らの学歴を指し、「青年」とは彼らの年齢を指す。しかし、「知識」の名を冠している彼らの学歴も通学歴が10年未満の者が多い。毛沢東の呼び掛けによって行なわれたこの知識青年の下放運動は1950年代に始まり、1960年代末にピークに達し、1980年代初期に改革開放が始まると同時にほぼ終息したと見られており、また自分の故郷に下放された青年たちを「帰郷知識青年」とし、他の地域に下放された青年たちを「下郷知識青年」と分類して呼ぶ場合がある。

こうしたなかで、内モンゴル各地にも多くの知識青年たちが下放されてきた。北京、天津、上海、河北、江蘇、山東、山西、四川、浙江などの地域を出身とする彼らの第一陣は1967年10月9日に内モンゴルに到着した。1967年10月18日の『シリンゴル日報』には「偉大な領袖毛沢東から革命的な知識青年たちに教えてくれた光り輝く道--労働者や農民大衆に密着する路線--にしたがって北京の一部の中学校、高等学校の小さな革命戦士たちが10月9日に内モンゴル自治区シリンゴル盟の西ウジュムチン旗にやってきて人民公社の社員や一般牧民になった」と報じられている。この第一陣の知識青年は10名だったようだが、内モンゴルの代表的な牧畜地帯で北京から来た知識青年を受け入れたという象徴的な意味合いは大きい。これ以後同年の11月29日に第二陣として374人の知識青年が同じシリンゴル盟にやってきた。このように、とくに1968年12月22日に公表された「知識青年は農村に行って、貧しい農民に再教育を受けることが重要だ」とする毛沢東の呼びかけ以後、内モンゴルに下放してきた各種の知識青年は30万人に達し、シリンゴル盟だけでも約4000人の知識青年を受け入れたという。

当時、内モンゴルに下放されてくるこれらの知識青年たちは農村地域や牧畜地域そして北京軍区管轄下にあった各地の「内蒙古建設兵団」に属していった。牧畜地域に下放された知識青年たちは単独、あるいは2、3人のグループに分けられ牧民のゲルに泊まることになった。下放中、彼らは農作業や放牧に従事したり、一部の知識青年は人民公社の下部組織である大隊長や小隊長をつとめたり、教師や医者、獣医、会計、トラクター運転手になったりした。また一部の知識青年は「造反派」にもなり、文化大革命に参加した。彼らの多くは1980年代初期に帰郷を果たしたが、少数の知識青年は現在も下放した田舎に生活している。彼らのなかには、周恩来総理の養女のような高級幹部の子弟もいれば「右派」として弾圧された人々の子女もいた。

1980年代初期に帰郷を果たして彼らの知識青年たちは工場労働者になったり、大学に進学したりして改革開放の時代の波のなかでさまざまな道に進んだ。

2007年の夏、シリンゴル盟は干ばつに襲われたが、「草原の恋」合唱団は「中国社会工作協会甘泉基金」という組織と合同で「あの緑の土地を残そう」と題するボランティア公演を北京で組織し、50万元の寄付金を集め、現地で井戸を掘ることに当てた。彼らはまた温家宝首相に手紙を送り、被災状況を報告し、温家宝首相から緊急対策をとるように関係機関に指示を下したという。また、この団体のメンバーは下放したシリンゴル地域のモンゴル族の重病少女を北京に連れて行って、元知識青年たちに寄付金を募って治療をした。シリンゴル盟で沙漠化防止のために多年草の牧草地をつくるなど「草原の恋」合唱団によるボランティア活動はマスコミに多く報道された。これらの活動は少なくとも知識青年たちがその「第二の故郷」--内モンゴルを忘れていなかったということを意味する。これらの支援活動に対して、東ウジュムチン旗政府から「草原の母たちの愛は無駄ではなかった」と書かれた表彰状を送ると、彼らは「子供のように喜んだ」という。

何故内モンゴルに下放された知識青年たちが離れて30年以上も経つ内モンゴルをこれほど懐かしみ、色々な手段を通して内モンゴルヘの思いを伝えようとしているのか。それはまず彼らの回想録に綴られている人情味に溢れた下放当時の生活体験に由来するようである。たとえば、「草原の恋」の創立者馬暁力は牧畜地域に下放されてきた最初のころ、普通の靴を履いたことによって一回酷く落馬したものの下宿先の牧民に言わずいたが、数日後牧民は落馬防止のためにと彼に革製の長靴を送ったという。当時一足の革製の長靴は26元で、牧民の1ヵ月の収入にも相当するものであった。別の女性知識青年の回想によると、彼女は吹雪の日、ロブサンというモンゴル人と旗政府所在地に仕事で行った帰りに凍死寸前まで凍えていたところ、通りかかったモンゴル人のお婆ちやんに救われたうえ、同行のロブサンは「北京から来た知識青年を大事にせねば」と怒ったという。このような厳寒の内モンゴルで冬を過ごす際に出会った「草原エージ/母」の暖かさは、数多くの人情溢れたシーンとして回想録や文学作品にドラマチックに描かれている。内モンゴルで過ごした彼らの記憶に印象深く残っているのは自然や風景ではなく、人々の温かさであったという。

その暖かさについて次のような描写がある。「草原は美しいのだが、それよりも美しいのは草原の人々の心だ。私たちが下放した最初のころは階級闘争運動の最中にあり、緊張した雰囲気に包まれていたが、牧民たちは私たちを孤児のように愛しんでくれた。よく「わが息子よ、わが娘よ」と言ってくれた。彼らには差別するという概念はなく、人間を階級や等級に分けたりはしない。何故なら彼らはそもそも命を大切にする人々であるからだ。私たちのなかには母の愛をはじめて体験した人々もいた。偉大なる母性愛は草原にあった。何故なら私たちの両親は右派となり、捕まって行ったから母の愛を受けられなかった。牧民はこの偉大なものを私たちに自然とくれたのである」。とにかく知識青年たちの回想録には母を指す「エージ」というモンゴル語が多く現れる。内モンゴルに下放された知識青年たちはモンゴル人の母から「母の愛」を多くもらったことにより内モンゴルを「第二の故郷」とまで位置づけたと理解することができよう。

「文化大革命」という特殊な時代に、毛沢東の一声によって「知識青年」という特殊なコミュニティーを生み出した。「勉強する青春時代を荒原で費やした不幸な人々」と彼らを憐れむ声もあるが、しかし、何故か内モンゴルに下放された知識青年たちは、省内の近場で下放された知識青年たちに比べると自分たちが「恵まれた」と見がちであり、辺鄙な内モンゴルに下放されたことに「悔いはない」という。内モンゴルに下放された知識青年たちは現在も自分たちのことを「知識青年」という特殊な用語で社会に積極的に紹介し続けている。彼らは現在も内モンゴルの牧民たちと連絡を取り、草原の牧民たちの文化を十数億人もいる漢民族社会に紹介する独特なチャンネルとなっている。彼らの回想録や文学作品を通して内モンゴルに行ったことのない人々が「内モンゴル」を知り、「モンゴル文化」を知るという役割を果たしていることは確かであろう。現在内モンゴル各地に「セゲーテン/知識青年広場」や「第二の故郷」といった知識青年たちのことをモチーフにした記念物が多く建てられており、知識青年たちの歴史的足跡を刻んでいる。

周知のように、近年内モンゴルでは環境悪化が深刻化している。知識青年たちは国家環境保護局に手紙を送り、東ウジュムチン旗に進出した汚染企業--製紙工場を追い出すことに成功した。またシリンゴル草原で開発されている鉱山企業に対しても牧民の権利を守るような活動を展開している。あるもと知識青年のブログには「中華人民共和国草原法」、「環境保護法」、「村民委員会組織法」、「鉱山開発法」など関連法案がモンゴル語に訳されてモンゴル人牧民に届けられているという。元知識青年出身のある研究者は著書のなかで、内モンゴル地域の沙漠化の原因を定住化によるものと指摘し、政府による対内モンゴル政策を暗に批判している。このように、知識青年たちと内モンゴルの関係は中国の急激な社会変容に対応しながら今後も続いていくことであろう。
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スキルを変え、教育環境を変える

『ザ・セカンド・マシン・エイジ』より 個人への提言

教育学者のスガタ・ミトラは、発展途上国のスラム街の子供たちが、コンピュータを与えられただけで自分たちで学習していくことに気づいた。これについて論じたミトラの講演は二〇一三年のTED(世界の知性が集う大規模な講演会)で最優秀に選ばれ、一〇○万ドルの賞金を獲得している。ミトラは、読み書き算数がなぜ重視されるようになったのかを説明するとともに、新しい教育のあり方を大胆に描き出す。

現在学校で実施されている教育の起源がどこにあるか、私は調べてみました……その起源は地球上で最後の最強の帝国、大英帝国にあったのです。

……彼らはすどいことをやってのけました。人間を部品にしたグローバル・コンピュータを作ったのです。これは、官僚機構という名前でいまも使われています。このマシンを機能させるには、大勢の人間が必要です。そこで、その人材を製造する別のマシンが作られました。それが「学校」ですね。学校は、官僚機構の歯車になるような人間を生産してきました……歯車には三つの条件があります。字が上手であること。当時の情報はすべて手書きですから。次に、字が読めること。そして四則演算が暗算でできることです。誰もが同じ能力を備えているので、たとえばニュージーランドから一人を選んでカナダヘ派遣しても、すぐに役に立つわけです。

コンピュータやマシンを比喩に使ったみごとな説明だ(私たちは大いに気に入った)。それ以上に、読み書き算数が、かっては最も先進的な経済で必要とされるスキルだったことを指摘した点がきわめて興味深い。ミトラの言うとおり、ヴィクトリア朝のイギリスの教育システムは、当時においてはきわめてうまく設計されていた。だが言うまでもなく、現代はヴィクトリア朝ではない。ミトラの言葉を続けよう。

ヴィクトリア時代の人々は、じつに優秀な技術者でした。彼らの作ったシステムはとても堅固にできていて、同型の人間をいまだに生産し続けているのです……しかし今日の事務員はコンピュータです。コンピュータは、どのオフィスにも何百台も置かれています。事務処理をさせるためにコンピュータを操作する人間はいますが、字がうまくなくても、暗算ができなくても、問題ありません。ただし読めないと困ります。正確で明敏な読解力が必要です。

ミトラの研究では、ただぽんとコンピュータを渡すだけで、学校に通っていない貧しい子供たちでさえ、正確に読めるようになることがわかった。子供たちはグループでコンピュータを使い、必要な情報を検索して探し、獲得したノウハウを互いに教え合い、最終的には(彼らにとって)新しいアイデアにたどり着く。それは多くの場合、正しかった(たとえばDNA複製に関するさまざまな情報をダウンロードしてみせると、数カ月後には「DNA分子の不適切な複製で遺伝子疾患が起きる」ことを学んだ)。言い換えれば、子供たちは発想力、広い枠でのパターン認識能力、複雑なコミュニケーション能力を獲得したのである。このように、ミトラの提唱する「自己学習環境(SOLE)」では、デジタル労働者にまさるスキルが身につくと期待できる。

もっとも、これはとりたてて驚くには当たるまい。自己学習環境は実際にはだいぶ前から存在しており、マシンとうまくやって行ける人間を現に大勢輩出してきたからだ。二〇世紀初めにイタリアの医師マリア・モンテッソーリが開発した教育法がそれである。モンテッソーリ教育は、自発的な学習、さまざまな教具や動植物との感覚的なふれあい、自由な環境を特徴とする。近年では、グーグルの創業者(ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン)、アマゾンの創業者(ジェフ・ペソス)、ウィキペディアの創始者(ジミー・ウェールズ)がモンテッソーリ教育を受けていたことが知られる。

じつは彼らは、ほんの一例に過ぎない。経営学者のジェフリー・ダイアーとハル・グレガーセンが優秀なイノベーター五〇〇人に聞き取り調査を実施したところ、モンテッソーリ教育を受けたという人が予想外に多いことがわかった。おそらく「好奇心の赴くままに学ぶ」のがよいのだろう。元ベンチャー・キャピタリストのピーター・シムズは「モンテッソーリ教育法は、創造性を獲得する確実な方法と言えるのかもしれない。なにしろ学校の同窓生にはこの方面のエリートがうじゃうじゃいて、モンテッソーリ・マフィアと言いたくなるほどだからね」とウォールストリート・ジャーナルのブログに書いている。本書の著者の一人であるアンディもモンテッソーリ式の初等教育を受けており、マフィアかどうかはともかく、自己学習環境のよさは実感している。ラリー・ペイジは「ルールや命令に従わないこと、自分でやりたいことを見つけること、どうして世界はこうなっているのかと問うこと、人とは少しちがうやり方をすることが教育の一部だった」と語っている。

セカンド・マシン・エイジに人間が貴重なナレッジ・ワーカーであり続けるために、私たちは次のことを提言する。読み書き算数だけで終わらず、発想力、広い枠でのパターン認識能力、複雑なコミュニケーション能力を養うことだ。そして可能な限り、自己学習環境を活用するとよい。この環境が、先に挙げた三つの能力を養ううえで効果があることは、過去の実績が証明している。
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下からのグローバル化

『21世紀の国際法秩序』より グローバル化の時代における人道的統治の探求 グローバル化の挑戦に対応するために人道的統治のあり方を再構築する

トランスナショナルな基盤において、活性化した市民社会は、国家とグローバルな市場勢力が人間の幸せな生活を危うくしていると認識されるような多くの場面で、両者に対して挑戦を行ってきた。これらの市民による圧力は、しばしば経済的・社会的な権利や公衆衛生、それに環境といったものを含むある範囲の公共財を、諸政府がもっと保護するよう、考えを改めさせることに焦点を合わせてきた。この点に関して、市場勢力と密接に結びついている人々のイデオロギーとしての考え方は、どうしても公共財に多くの出費をかけることを押さえ、その結果放置されることとなった社会的苦しみは、民間部門による支援に委ねるという方向に傾きがちであった。

このことに関しては、テッド・ターナーやジョージ・ソロスといった資本主義の超英雄たちが、グローバルな公共財の充足のために行なった莫大な金融面の貢献に留意することが必要である。彼らの行動は、その目的として前者にあっては国連の人道的活動を援助するために一〇年間にわたって一〇億ドルを拠出し、後者においては、もっと短期間に五億ドルをロシアの民主化を支援するために贈ったことである。人々の目を引くが疑わしいことは、このグローバル化という賭け事の勝者たちが所有している巨額の私有財産がしばしば、富裕な国家の財産よりもこれらの目的のためにはるかに容易に使われていると思われることである。またこのことと関連しているのは、今は聖者として扱われているダイアナ妃についての死後の描写が、もっぱら彼女自身の国以外の人々、特に対人地雷の犠牲者たちに向けられた彼女の哀れみの行為に結びつけてなされている、その度合いの大きさである。これらの事態の進展は、国家がもはや世界の社会的で人道的な課題について処理するだけの能力と意欲を失いつつあるということに対する、地球市民社会の一群による反応の革新的な側面を表している。

別のタイプの反応は、消費者パワーがグローバル・コモンズを守るためにはあえて苦難を耐え忍ぶように仕向けた抵抗運動と関わりがある。二、三年前にシェル石油が、その石油掘削装置を北海に沈めてしまおうと画策した時、グリーンピースはガソリンの消費者たちを糾合して、ヨーロッパのサービス・ステーションをボイコットするよう反対勢力を有効に指非した。この話の令体はややこしくて、環境に関する議論にはまだ完令には決着がついていないが、この政治的な意味合いは明らかである。ブローバル・コモンズに関する法人の活動が、ある政府や諸政府間の性格をもったウェストファリア的諸機関によって規制されないとすれば、その時には民間部門が、抗議の対象となった活動が止められない限りは危害が生じることになるだろうという情報を周知させ、抵抗運動を動員することで、国家を超えて騒動を起こすことができるということである。

いくつかの関連する結論が引き出される。第一に、今や個人は、啓発された国家の為政者たちによって与えられるであろうものに匹敵する、グローバルな公共財に対する支援ができるだけの規模の資産を意のままに操っているということである。このような推移は、公益を推進するという国家の立場を弱めるということになるし、また全体としての社会は、公共財の範囲で行なわれる様々な可能性のある事業の中から優先して選ばれるべき対象としては描かれなくなるということを意味している。そうなればまた、裕福な個人が世界のいろいろな地域での反民主的な政治活動に対する資金援助を含む、テロリストの活動や広範囲にわたる後ろ向きの政治運動を支援するという、「マイナスのグローバルな公共財」へ相当な額の資産を差し出して、本当の危険を招くことにもつながる。「平和維持」能力の提供といった、特に国連の仕事の中核をなすと考えられているような、以前は本質的にグローバルな公共財の範囲に属するとされていた任務でも、今や金銭化され、市場化されつつあるように思われる。南アフリカのアパルトヘイト制度に関わっていた安全保障関係のかつての公務員たちが、エグゼクティブ・アウトカムスと呼ばれる組織を作り、そのサービスを国内の社会不安あるいは国外からの脅威に直面しているアフリカの諸政府に提供し、またしばしば民間企業や鉱業に投資し、それらが生む大きな株式を受けとっている。

市民社会のこのような活性化による累積する衝撃や、それが情報、思想、金銭、そして組織的活動を通じて国家を超えて影響を及ぼすということが、人道的統治のためのプロジェクトに対して信用と支持を与えることになると考えてよいのかどうかという点は、現時点では不確かである。トランスナショナルな社会的勢力の台頭が、かなりの程度にまでグローバル化に対する反動と関わり合っていることは間違いないが、この反動には多面的な性格が備わっていて、それが規範に対して与える全般的な影響を評価することは難しい。もっと以前にはこれらのトランスナショナルな活動をロマンティックに描写する傾向があったが、今はこれらの役割は多岐にわたり矛盾することさえあるという、含みの多い解釈がなされている。それでもなお、下からのグローバル化は、上からのグローバル化に対して一連の挑戦状を突きつけているし、国を統制している政治的選良たちには、いくつかの難しい政治的選択肢を持ち出して対決している。

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