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あとがき 池田晶子先生

『14歳からの哲学入門』より

それはそれとして、本書『14歳からの哲学入門』のタイトルは、尊敬する哲学者、池田晶子先生の『14歳からの哲学』を元にしている。

池田晶子先生と言えば、かつて私は彼女のインタビュー記事に感銘をうけたことがある。その記事には、このようなことが書かれていた。

 「私は女である。というときの、『私』とは何であるのか? 何を『私』と言うべきなのか? 『私』の用法を確定することなしに、『私は女である』とは直結できません」

池田晶子先生は、女性である。歴史に名を残している哲学者はほとんどが男性であるからその意味では珍しいと言える。当然、インタビュアーとしては、売れっ子の女流哲学者から女性ならではの意見、たとえば女性論とか、ジェンダー論とか、そういう話題について聞き出したかっただろう。

しかし、池田晶子先生は期待にこたえない。

 「私が女である、というときの『私が○○である』とはそもそもどういうことか?」

ブラボーだ。いっさい空気を読まずに、より本質的な問いに目を向ける。なるほど哲学者とはかくあるべきなのだと思わされた記事であった。

もちろん、こんなのは正直、大人の回答ではない。十四歳的な斜め上の回答だ。そこは空気を読んで、女性の社会的立場や地位について持論を展開し、インタビュアーが喜びそうなことを語ってあげるのが大人ってもんだろう。

だが、それがいい。それでこそ哲学者だ。僕たちは、彼女を見習って、もっと根本的なところから考えるべきである。相手の都合なんて気にしないで、「いや、そんなことより、そもそも」と、ふだん見すごされてる疑問を自由に投げかけるべきである。

そして、そういうことを一番できるのが十四歳という年代……。

 「なぜ人を殺してはいけないの?」

 「なぜ自分がされて嫌なことを他人にしてはいけないの? 他人がどうなろうと自分がよければいいんじゃないの? て言うか、そもそも自分と他人って何か違うの?」

こんなことを真剣に問いかけられるのは十四歳ぐらいのものである。公共の一般社会で、こんなことは聞けないし、聞いたらつまはじきだ。こんなふうに突拍子もない反社会的なことを問うても許されるのは十四歳だけの特権だと言える。だから、十四歳の方々は、この特権をきちんと有効活用し、常識を疑う問いを臆面もなくどんどん世界に出していくべきである。

そして、一方、十四歳ではない方々……。あなたたちも大丈夫。というのは、今や、ネットでは誰もが身分を隠して言いたいことが言える時代になっているからだ。つまり、誰もが言いっぱなしで(良くも悪くも)無責任なことが言える時代、十四歳のあの頃に戻って自由に常識を疑う発言ができる時代なのだ。

ネットの世界では誰もが十四歳になれる。公的な場では決して言えないことでも自由に議論ができてしまう。僕たちは、もっとこの時代特有の環境を利用し、自由に議論してもよいのではないだろうか? 歴史に名を残した哲学者たちのように、もっと「稚拙で極端なこと」を積極的に言い放ってもよいのではないだろうか?

本書で紹介した偉大な哲学者たち。彼らは決して理解不可能なことを言っているのではなく、意外に子供じみた発想から論を展開させており、結局、普通の人との違いは、「その子供じみたことをどれだけ真剣に主張したか」の熱量の差だけなのである。そのことを感じ取っていただけたら幸いである。

本書の執筆にあたり、様々な哲学者の本を参考にしました。彼らが人生をかけて残してくれた数々の偉大な著作に感謝の意を申し上げます。また、本書の執筆に多大なインスピレーションとハートを与えてくれた池田晶子先生の哲学と生き様に深く敬愛の念を捧げます。
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後期ウィドゲンシュタイン

『14歳からの哲学入門』より 変人ウィドゲンシュタイン 構造主義のポイント 言語の構造

次は後期について。なぜウィトゲンシュタインが、前期の自分の考えを間違いだと思うようになったかと言うと、こんなことがあったらしい。

あるとき、知人の男がやってきて、ウィトゲンシュタインに向かってアゴをこすってこう言った。

 「これはどんな意味だい?」

これにウィトゲンシュタインは衝撃を受けた。「アゴをこする」という仕草は、もちろん世界のどんな事実とも対応していない。だから、前期の哲学で言えば、この仕草は言語ではないし、意味不明の行為であるはずだ。しかし、「アゴをこする」という仕草は、彼の住んでる地域では「相手を侮辱する」ことを示す行為として知られており、実際、ウィトゲンシュタインはその意味を理解してしまったのだ。

何の事実とも対応しないものが、意味を持って相手に伝わってしまった……。これは明らかに前期の哲学では説明できないことである。

これをきっかけにウィトゲンシュタインは、前期の哲学が間違っていると思うようになり、新しく言語の定義を考え直すのでおるが、では、その新しい言語の定義とはどんなものか。ウィトゲンシュタインは次のように述べる。

 「言語の意昧とは、その使用である」

有名な「意味の使用説」と呼ばれるウィトゲンシュタインの定義の一節であるが、これだとちょっとわかりにくいので、こう言い換えてみよう。

 「言葉の意味は、どう使うかで決まる」

もう少しわかりやすく言い換えてみよう。

 「言葉の意味は、シチュエーションで決まるんだよ。つまり、言葉ってのは、どういう状況で使ったかによって意味の変わるものなんだ」

たとえば、「水」という言葉を考えてみてほしい。前期の哲学に従うなら、この言葉は現実世界にある「水」に対応する言葉であるのだから、当然、この言葉の意味は明確でひとつしかない。つまり、「水!」と言ったら、「そんなの、現実の水のことに決まってるだろ!」という話だ。

だが、実際に会話をするとき、「水」という言葉が、そのまま現実の水を意味するとは限らなかったりする。たとえば、砂漠の真ん中で倒れている人が必死の表情で「水!」と言ったとしたら、それは「現実の水のこと」を意味して語った言葉にはならない。その状況、シチュエーションにおいては、「水を飲ませてください」ということを意味する言葉として解釈するべきだろう。

他には、水の入ったコップをテーブルの端ギリギリに置いたまま子供がテレビに夢中になっていたので、母親が「水!」と言った場合もそうだ。この場合も、母親が単純に「水のこと」を意味したくて語ったのではなく、「水がこぼれるから気をつけなさい!」ということを意味したくて語った言葉だと解釈するべきである。

このように、「水」という言葉ひとつ取ってみても、状況によってさまざまな意味を持つ。

実際、あなただって、こんな問題が出されたら困るはずだ。

 「花子さんが、拳を天に突き上げ、泣きわめきながらこう叫びました。『水! 水! みずううう!』。さて、花子さんが叫んだ言葉は何を意味するでしょう?」

もし、こんな問題が小学校の国語のテストで出されたとしたら……、きっとあなたはこう言うに違いない。

 「前期ウィトゲンシュタインに従えば、答えは決まるかもしれませんが、実際には花子さんがどういう状況でこの言葉を使ったのか、もう少しその説明がなければ答えは決まりません」

なぜなら、後期ウィトゲンシュタインが言うように、「水」という言葉はそれ単体で意味を持つのではなく、使用する側の状況によって意味が決定されるものであるからだ。

さてさて、「言葉 ⇒ 使用状況 ⇒ 意味」という関係性は理解できたと思う。では、その関係性自体はどうやって決まるのだろうか?

ウィトゲンシュタインは、それについて「特に根拠があって決まるのではなく、それぞれの文化圏で、たまたま偶然的に決まるだけ」だと説明する。

それはまあ、そうだろう。たとえば、さっきの、砂漠の真ん中で苦しそうに「水!」と言った場合、すなわち、

 「(言葉)水 ⇒ (使用状況)砂漠で苦しそうに言う ⇒ (意味)水が飲みたい」

という関係性の場合であるが、実のところ、この関係性に根拠は何ひとつない。それはたまたま、話し手が「こういうシチュエーションで、こう言ったら普通こうだよね」的な「お約東(慣習的ルール)」を持った文化圏で暮らしていたから、そういう言葉を発しただけのことであり、聞き手も同じような文化圏で暮らしていたから、それが伝わっただけのことである。

じゃあ、もしも、こんな文化圏の人が聞いたらどうだろふノ。

 「知識欲が満たされないと苦しくて死んじゃうよね。だから、苦しみながら、固有名詞を言うときってそれについて知りたいときだよね」

きっと、この人にはさっきの言葉は通じない。

 「み……水……」

 「オッケー、水について知りたいんだね。水ってのは、化学式で書くとH2Oで……」

もちろん、この人が悪いわけではない。たまたま、まったく違う文化圏で、「言葉 ⇒ 使用状況 ⇒ 意味」の関係性が違っていたから通じなかったにすぎない。

つまり、「同じ言葉」「同じ状況」であったとしても、「同じ意味」になるとは限らず、どんな意味になるかは、その人がどんな「お約束(慣習的ルール)」の文化圏に暮らしているかによって変わってしまうのである。

このことは、先に述べた「あごをこする」という仕草のことを思い出してもらえば、よりはっきりと理解できるだろう。相手の顔を見ながら、「あごをこする」という仕草は、ウィトゲンシュタインが暮らしている文化圏では、相手を侮辱する意味を持っていたわけだが、当然、そのような意味を持だない文化圏だってある。つまり、「あごをこする凸侮辱」という意昧づけは、絶対にそうでなくてはならないという根拠があるわけではなく、「その地域の人たちが、たまたま慣習的にそういう意味づけを行なっていたから、そうなっている」だけにすぎないのである。

さて、ここまでの話をまとめると次のようになる。

(1)言葉の意味は、使用状況によって決まる。

(2)しかし、その「言葉、使用状況、意味」の関係に、必ずこうしなければならないという根拠はない。

(3)言葉の意味とは、それぞれの地域(文化圏)の人々が、日常生活を営んでいるうちに、偶然的に、たまたま、適当に決まっただけの慣習的なものである。

以上のとおりだが、ウィトゲンシュタインは、こうした言語の特徴(構造)を「言語ゲーム」という用語を使って、さらに深く切り込んでいく。
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ヘーゲル 私(人間の精神)=世界

『14歳からの哲学入門』より へーゲル 稀代の楽天家ヘーゲル 私(人間の精神)=世界

結局、つまるところ、すべては人間の内側に生じる知識、すなわち、精神現象(「モノが在る」という思いが心の内に生じる現象)であるのだから、その精神現象の外側にモノが在るという言い方は原理的に決してできない。だって、「いいや、人間の精神現象の外側に、人間とは関係なしに、モノが存在しているんだ!」と言ったところで、それすらも人間の内側で生じた考え方のひとつにすぎないと言えてしまうからだ。

さぁ、こうなると、もうヘーゲルは、今までの哲学者が考えてきた世界観の構図をまるっきり否定してしまったことになる。今までの世界観とは、ようするに、

 「私が存在する。そして、私とは別に、独立した世界が存在する」

という世界観だ。まあ、素朴で、誰もが最初に考えつく当たり前の世界観のように思えるかもしれないが、この世界観を採用してしまうと、必ず、

 「では、私は、その世界をきちんと認識できているのだろうか?」

という認識論の問題が持ち上がってしまう。そして、実際、デカルトやカントをはじめとする哲学者たちは、この問題について取り組み、「できる、できない」を延々と考え続けてきたわけだが、ヘーゲルは、そんな世界観を思い浮かべたこと自体がそもそもの誤り、混乱のはじまりだと主張する。先に述べたように、人間から独立した世界(人間とは無関係に、人間の外側に存在する世界)なんてものは存在しないからだ。

人間にとって「世界だと呼べるもの」「世界だと思い込んでいるもの」の正体は、すべて人間の内側で発生している精神現象そのもののことであるのだから、正しい構図は次の図のようになる。

この構図に従うなら、「私は、世界のホントウの姿を正しく認識できているのか」などという問題は発生しない。なぜなら、「私が認識したものが世界」であり、「私の認識と世界」はそもそも同一だからだ。つまり、ヘーゲルは、それまでの哲学者たちが必死に考えてきた、認識と世界が一致するか、という問題をそもそも考える必要のない偽物の問題だったとして、あっさりと消し去ってしまったのである。

でも、そうすると、こう言いたい人もいるかもしれない。

 「モノが在るように見えたり、モノが法則どおりに動いたりするのって、実は、すべて人間の内側での出来事、精神現象だったんだよ、という主張の理屈はわかったよ。でも、そうは言っても、モノの動きって人間にはどうにもならないよね。それってやっぱり、モノが人間から離れて別個に存在しているってことなんじゃないの? だったら、その『別個に離れて存在しているモノ』を人間が観察(認識)しているっていう従来の構図のほうがどう考えても妥当だと思えるけど……」

いやいや、ヘーゲルに言わせれば、その「人間にはどうにもならないモノが存在しているでしょ」という考え自体がひとつの思い込みにすぎない。なぜなら、ヘーゲルの世界観では、「人間と対立する(思いどおりにならない)モノ」なんてのは存在しないからだ。確かに、今現在は、「人間にはどうにもならないモノ」「予測不可能なモノ」「理解不可能なモノ」すなわち「他者」が存在しているように見えるかもしれない。だがそれは、人間の精神が今はまだ未熟だから、そういう不可解な他者が「在るように見えているだけ」のことであり、それらはホントウは存在していないのだ。

なぜ、「存在していない」と断言できるのか。それは、人間の精神には「あらゆる対立を解消して成長していく」という弁証法的性質が備わっていることが、歴史的事実から明らかであるからだ。

そもそも、弁証法とは、「より高い次元の認識(理解)を手に入れ、物事の対立を解消していくこと」であるわけだが、それはようするに、「人間にとって不都合なこと、不可解なことを世界からひとつずつ消していく行為」であるのだから、弁証法を繰り返していけば、究極的には「世界には人間の思いどおりにできないモノ、理解できないモノは何ひとつない」という状態に達するはずである。ちなみに、仮に思いどおりにできないモノが残ってしまったとしても、僕たちはその「思いどおりにできない」ということを高い次元の認識から理解し、受け人れることが可能である。実はこの場合も対立は解消されたことになる。たとえば、こんな感じ。

 「なんで、七は二じゃないんだ! 七はどうして二にできないんだ! うわああ、全然思いどおりじゃねえよおお!」



 「あ、そうか、七は七でいいんだ! 悩む必要ないじゃん、解決、解決♪」

こうした「弁証法の果てに到達する究極の精神状態」においては、「モノ」というものは存在しない。なぜなら、僕たちがふだん、「モノだ、リンゴだ」と言っているものの正体とは、「人間と対立する何か」のことであり、その「自分には思いどおりにできないと思い込んでいる精神現象」に向かって「モノ」とか「リンゴ」とかの名前をつけて捉えてるだけにすぎないからだ。だから、すべての対立が解消された精神状態において「モノ」は存在しえない。

この究極の状態、すなわち「人間(主観)に対立するモノ(客観)がなくなった状態」の立場からすれば、「世界のすべてが私(精神)そのものだ」ということが実感できるだろう(手足を自分の思いどおりに自由に動かせたり、手足の動きを一〇〇パーセント理解できたりするとき、僕たちは、その手足を自分自身の一部だと考える。それと同様に、世界のすべてを理解できたなら、僕たちはその世界を自分自身の一部だと見なさざるをえないのである)。

 「主観と客観が別れている(=モノがある)」のが、精神が未熟ゆえの途中の状態にすぎず、「主観と客観が合一している(=モノがない)」のが、精神がいつか必ず到達する真の状態であるとしたら、やはり、従来の哲学者たちがやってきた「認識論の問題(主観と客観は一致するか)」は偽物の問題だったということになる。

ちなみに、いま述べたことをヘーゲルは、次の有名な言葉でこう表現している。

 「真理とは全体である」

すなわち、主観も客観もなく、人間もモノもなく、私もあなたもいない状態。すべての問題が解消され、すべての対立が乗り越えられ、すべての物事が理解され、そのうえで「すべてよし!」「ビバ!」と受け入れられた状態。そうした、完全にすべてがひとつに統一された究極の状態こそ、「真理」と呼ぶにふさわしいとヘーゲルは考えたのだ。

ところで、これらのヘーゲルの哲学が、東洋哲学とよく似ていると感じた人もいるかもしれない。その感想は正しい。というかもう、インド哲学の梵我一如、釈迦の仏教、老荘思想の道(タオ)、これらとヘーゲルの哲学は根本部分でまったく同じである。実際、東洋の哲学者たち、たとえば、禅の師匠たちに、認識論の問題をぶつけたとしたら、「グダグダ言うな!(主観と客観が分かれているという最初の前提が思い込みだ!)」と一喝して相手をぶん殴り、それでおしまいにしてしまうだろう。

さぁ、ここまでくれば、ヘーゲルがどれはどの怪物であり、どれほど偉大な哲学者であるかわかったはずだ。デカルト以降、西洋の哲学者たちが綿密に研鑽してきた「私がいて、世界を認識している」という世界観を、問答無用でトンカチで叩き壊し、釈迦を含む偉大な東洋哲学者たちと同等の世界観を西洋哲学の中に持ち込んで、認識論の哲学を終わらせてしまったのである。それゆえ、彼はこう呼ばれ称えられるのだ。「近代哲学の完成者」だと。
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岡崎市図書館の10冊

504『ザ・セカンド・マシン・エイジ』ポスト・ウェストファリアへの展望

302.2『内モンゴルを知るための60章』

302.2『サウジアラビアを知るための63章』

329『21世紀の国際法秩序』

699.6『敗者の読書術』圧倒的な力の差をくつがえす発想法

316.4『「イスラーム国」の生態がわかる45のキーワード』

331『心と体にすーっとしみこむミクロ経済学』

236『概説 近代スペイン文化史』18世紀から現代まで

288.4『昭和天皇実録その表と裏②』太平洋戦争敗戦・満州事変とファッシズム

335.8『ソーシャル・ビジネス・ケース』少子高齢化時代のソーシャル・イノベーション

岡崎まで運転すると疲れ、ガソリンがなくなり、危険性が拡大。車は本当に未発達。恰好とかエネルギーよりも社会インフラ活用を考えないと、人類に未来はない。元々、<今>しかないけど。

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内なる世界の思考

運転は疲れる

 岡崎まで運転すると疲れ、ガソリンがなくなり、危険性が拡大。車は本当に未発達。車の恰好とかエネルギーよりも社会インフラ活用を考えないと、人類に未来はない。元々、<今>しかないけど。

内なる世界の思考

 発見は大きいですね。ウィットゲンシュタインとハイデガーがいかに自分の思考に在っているのか。ともに内なる世界を述べていた。

 思考の中で一番、大きなものは、内なる世界というものが彼らと同じだということ。内なる世界から外をどう見るか、翻って、外から内なる世界をどう見るか。

 やはり、「全てが真理」を詰めることになりそうです。内なる世界の「全て」を求める心。数学編との関係を含めて、結論付けていく。

 今までは感想的なレベルで抑えてきたけど、これを完全に社会の位相化のベースにします。

高度サービス化の分析

 高度サービス化の分析をしましょう。「ザ・セカンド・マシン・エイジ」を読みながら感じたのはそれです。労働としての人間、消費する人間、それ以外にサービスする人間。ここにこそ、新たな力がある。

待ってくれている人が居る

 確実に待ってくれている人が居るということは素晴らしいことですね。一人しか居ないけど。
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