未唯への手紙
未唯への手紙
姪との会話は楽しい
借りた本の処理
朝から、昨日借りた本を元町のスタバで行っています。「黒板」の絵が芸術ならば、「スリーブ」の絵も芸術になります。いかにメッセージを送るか。
姪との会話は楽しい
結局、10時半からのスタバでのデートになりました。妹からは、娘が電車に一人で乗るのは久しぶりなので、メールが二度も入った。「箱入り娘」状態です。
2時間40分、様々なことを話した。最後の40分は妹が入ってきたので、話題が狭くなった。
急に外耳炎になったこと。フランクフルト空港での乗り継ぎ時に気絶した。ギリシャでの検査で精神的なものと決めつけられた。ギリシャの医療費の安さ。レバノンワイン。私のデジタルライブラリの検索機能。ギリシャ人はお節介だけど、フィンランド人は人見知り。1492年のスペイン・ポルトガル、そしてイスタンブールの情勢。第2次世界大戦後のギリシャとアメリカ介入。レバノンのアレッポのこと。アテネでの生活(何もしていない)。取っ掛かりとしての日本人会の図書ボランティア。ギリシャでのイチジク栽培は野放図。丁寧な農作物という感覚はない。イチジクは勝手になっている。お互いが持っている筆記具がほぼ同一。ノートへの拘りも同様。フランクフルトでの気絶はやばかった。私も急に眠くなる。タブレットの電池の持ち。スタバのバリスタ。幹大の結婚相手がいない。未唯と同じで混んでいるところには行かない。私が入院した経緯。奥さんのお茶スケジュール。
それにしても、無花果栽培でのギリシャと日本の違いまで話題になるとは。さすがに農学博士ですね。
朝から、昨日借りた本を元町のスタバで行っています。「黒板」の絵が芸術ならば、「スリーブ」の絵も芸術になります。いかにメッセージを送るか。
姪との会話は楽しい
結局、10時半からのスタバでのデートになりました。妹からは、娘が電車に一人で乗るのは久しぶりなので、メールが二度も入った。「箱入り娘」状態です。
2時間40分、様々なことを話した。最後の40分は妹が入ってきたので、話題が狭くなった。
急に外耳炎になったこと。フランクフルト空港での乗り継ぎ時に気絶した。ギリシャでの検査で精神的なものと決めつけられた。ギリシャの医療費の安さ。レバノンワイン。私のデジタルライブラリの検索機能。ギリシャ人はお節介だけど、フィンランド人は人見知り。1492年のスペイン・ポルトガル、そしてイスタンブールの情勢。第2次世界大戦後のギリシャとアメリカ介入。レバノンのアレッポのこと。アテネでの生活(何もしていない)。取っ掛かりとしての日本人会の図書ボランティア。ギリシャでのイチジク栽培は野放図。丁寧な農作物という感覚はない。イチジクは勝手になっている。お互いが持っている筆記具がほぼ同一。ノートへの拘りも同様。フランクフルトでの気絶はやばかった。私も急に眠くなる。タブレットの電池の持ち。スタバのバリスタ。幹大の結婚相手がいない。未唯と同じで混んでいるところには行かない。私が入院した経緯。奥さんのお茶スケジュール。
それにしても、無花果栽培でのギリシャと日本の違いまで話題になるとは。さすがに農学博士ですね。
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レバノンはワイン源流の地
『シリア・レバノンを知るための64章』より ⇒ レバノンでワイン作りを始めたソホクリス ワインが作れるのかと気になって
レバノンを初めて訪れたのはアメリカで1年を過した帰り途、1975年の6月だった。この国が十七年戦争とも名づけた長い内戦に突入する直前、すでに不穏な情勢であった。
しかしベイルート入りした3日後、私たちは幸いにも一気に千メートルのベカー高原を昇り、聖書の時代からあこがれをもって眺められたという美しいレバノン山脈や葡萄畑を、反対側には荒寥とした赤土の谷間などに見とれながら1時間半、世界最古の町シリアのダマスクスに通じる道を走り、バアルべックの町に到着した。
バアルペックの遺跡は不思議な複合神殿アクロポリスである。そもそもはフエニキア人(レバノン人の祖先)が自分たちの神バアルを祀った地だったが、ギリシアの時代が来ると彼らはここを太陽の町(ヘリオポリス)と名付けた。次に来たローマ人たちはこの地に最大規模の複合神殿を建立した。
西暦60年ごろにまずジュピター神殿ができ、その150年後にはバッカスとヴィーナスの二つの神殿が完成した。葡萄とワインの神バッカスを祀る遺跡が現存するのはバアルベックが世界でただ一ケ所という。
私のワインに対する好奇心は、実はその半年ほど前から始まったのだった。カリフォルニア・ワインが禁酒法の不遇をようやく脱して、かなりの味わいを誇るブランドや名門ワイナリーがテレビで宣伝され始めた頃だったので、私は何冊かの本を買い込んでアメリカだけでないワイン世界とその歴史に興味を持つようになった。
ワイン発祥の地についても、グルジア、アナトリア、メソポタミアとある中にレバノンの山々という説があったのを記憶していたし、イエス・キリストが結婚の祝宴で水をワインに変えたあの奇蹟の起きた村、ガリラヤのカナがベカ上局原に近い事実にも気がついた。
もしかして、レバノンこそワイン源流の地ではなかったのか?
その時は拡がる好奇心を満足させることもできずに帰国したのだが、やがて私は物書きとなり、フランス、イタリア、スペインなどワインの取材に出掛ける幸運に恵まれた。しかしレバノンを再訪するようになったのは、二十余年を経た90年代末からだった。
一方で「ワイン源流の地・レバノン」説についての勉強は山形孝夫先生(宮城学院女子大学名誉教授)の著書『レバノンの白い山』のおかげで、私の中では確かなものになっていた。
レバノンは旧約聖書の中ではカナンの地として登場する地域に全土が入ってしまう国でもあり、古代イスラエルの神が何としても自らの民のために獲得したいミルクと蜂蜜、そして美酒ワインに象徴される土地だった。
ことにワインはエジプト王朝全盛期から引っぱりだこの人気だったし、中世ヨーロッパでも贅沢で高価なものとされたのがカナン産だった。しかしそれは当然であり、この地にはバッカス神殿ができる前に、先住の神として人々の厚い信仰を集めていたバアルペックの主、バアル神が存在していたからだ。彼こそがワインと深い関係にある神だった。
--紀元前13世紀頃彫られたバアル神のレリーフは、現在はパリのルーブル美術館に収まっているが、発掘されたのは1928年、ベイルート北方の丘だった。神殿跡や襖形文字でびっしりと神話が記された粘土板など、大量の出土品があったという。
その樹形文字はウガリット語といわれる言葉でそれまで未知のものだったが、学者たちの熱烈な研究のあげく3年で解読され、3000年以上も埋もれていたバアル神話が現代の光を浴びたのだった。
バアル神は古代オリエント世界の農耕神であり、大地に雷鳴を轟かせて雨をもたらし、万物の生命を蘇らせる主だ。カナンの地は沙漠に生きるイスラエルの民の憧れであり、緑濃い作物の豊かに実る肥沃な土地であった。この地に暮らす人々は平和と子孫繁栄を願う農耕民族であり、バアル神も同じくペアの神アナトと結婚し家族を守る優しい神だった。
しかし人間を生かす穀物は一年草の実であり、一年毎の侈い生命である。人間の関係もやがては滅びるものだ。ところが血は子孫に伝えられて何年も生き続ける。その事実こそがキリストの言葉ならずとも農耕文化の中でワインを造る人間存在の証ではないだろうか。ワインは農耕社会の絆とも要とも言えよう。
バアルにはモトという弟があり、彼は火の空を支配して大地を干上がらせてしまう神である。二人は壮絶な戦いを繰り広げるが、やがてバアルの方が力尽きて屍を野にさらす。すると大地は旱魅し、野山は枯れ果ててしまう。
ペアの女神アナトはバアルを失った悲しみにくれて野山をさまよい歩き、ようやく彼の亡骸を見つけると、さめざめと泣きくれる。するとアナトの涙は、何と、尽きることのない芳醇なワインであった。彼女は目から溢れ出る悲しみの水、ワインの中でバアルの復活を願い、モトヘの復讐を誓った。アナトは大地母神であると同時に勝利の女神であり、豊穣と多産の象徴として乳房がたわわに実る葡萄でできていた。
モトは息の根を止められて、やがて干からびた大地に雨が降り注ぎバアルは復活する。穀物神バアルに連続した命を与えるのは、アナトの流す涙、ワインだったのである。--
ワインをめぐるこのレバノン神話に魅せられた私はやがて十年足らずの間に4回もレバノンを旅することになった。私にはかつてベイルートで日本料理店「ミチコ」を経営していた姉がいた。不幸にして彼女は突然に亡くなり、その後だったが、友人たちが私のワイナリー訪問の世話をしてくれたのだった。
シャトー・ケフラヤは内戦の真最中にフランスから醸造技術者などのスタッフが移住し、この国にフランス流のワイン造りを指導して、西欧で80年代の終わりから毎年さまざまな賞を獲得するようになったワイナリーだ。いわばレバノンにワインールネッサンスをもたらした名門であるという。
私は日本から十数人のツアーと共にシャトー・ケフラヤを訪ね、レバノンの人々は料理との相性で白を好むことを知った。フランス流の赤もなかなかおいしく、当時は日本にも輸入されており、愛飲していたのだが……。
このときは十九世紀半ば開設のシャトー・クサラも訪問した。このワイナリーの造るワインは多岐にわたり、フランス種はもちろんスペイン系のテンプラーニョも、アルザス流のゲヴェルットラミナーもおいしい。さらに古代からの貯蔵庫かと思うような洞穴じみたカーヴヘのツアーも楽しいものだった。
2003年に夫と娘と訪ねた時は、98年開設のシャトー・マサヤヘ案内された。フランス人との共同経営と聞いたが、若い当主ゴスン氏自らの案内でワイナリーの敷地にあるレストランで、主に赤(ムールヴェルドなど)を味わった。
新しいワイナリーの心意気をことさらに感じたのは、ワインそのものの故か、ゴスン氏の印象だったのか、興味深い体験だった。
さて私がレバノン・ワインについて最も大切なことを学んだのは、2005年国際交流基金の機関誌『遠近』の仕事で、すでに西欧の多くのワイン評論家が「世界におけるグレート・ワイン」と賞賛するシャトー・ミュザールのオーナー、セルジュ・ホーシャル氏と対談するために彼の地を訪問した時のことだ。
最初にワイナリーを見学に行った私を、葡萄畑から工場も貯蔵庫もテイスティングまで、すべてホーシャル氏自身が案内して下さった。私は「レバノンの自然の味」という言葉を新たに耳に止めた。翌日は日本大使館が氏のために晩餐会を催してくださったので、かなり長時間にわたってお話することができた。
さて、対談はそれまでに私が学んだワイン体験を全部合わせても学べなかったほどの、ワイン造りの哲学から古代の歴史、そしてレバノンの土壌や山々、太陽の光の特殊性から宗教にまで及び、私は氏によって奥深いレバノンのワイン世界に入り込んでしまった。
「レバノンでは一度葡萄を搾ったら手をかけないワイン造り」であり、「この国には植物の病気がなかった」。さらに「レバノンは薬用植物の最大輸出国の一つであるほど生物学的多様性に恵まれています」などの言葉が忘れられない。さらに私が最も感動したのは次の言葉だった。
「この国は度重なる破壊を受けてきたが、もし私たちが復興しなければ、ここはただの難民の国になってしまう。戦争によって民族の心は引き裂かれても、ワインは民族的感情を癒す大切なものだ。ただの歓びを越えて今日と深く関わり、破壊の時に創造があることを、無政府状態のときに秩序があることを示してくれた。そして死と再生はめぐり来るものだということも、そもそもはバアルベックで示されたように、今またワインが明らかにしつつあると思う」。
今日レバノンではワイン造りが活撥になってきている。世界各地……日本でも盛んだ。
この現代においてこそ、ワインの源流はレバノンであることを思い起し、私たちはレバノンワインに深く親しみたいと思う。
レバノンを初めて訪れたのはアメリカで1年を過した帰り途、1975年の6月だった。この国が十七年戦争とも名づけた長い内戦に突入する直前、すでに不穏な情勢であった。
しかしベイルート入りした3日後、私たちは幸いにも一気に千メートルのベカー高原を昇り、聖書の時代からあこがれをもって眺められたという美しいレバノン山脈や葡萄畑を、反対側には荒寥とした赤土の谷間などに見とれながら1時間半、世界最古の町シリアのダマスクスに通じる道を走り、バアルべックの町に到着した。
バアルペックの遺跡は不思議な複合神殿アクロポリスである。そもそもはフエニキア人(レバノン人の祖先)が自分たちの神バアルを祀った地だったが、ギリシアの時代が来ると彼らはここを太陽の町(ヘリオポリス)と名付けた。次に来たローマ人たちはこの地に最大規模の複合神殿を建立した。
西暦60年ごろにまずジュピター神殿ができ、その150年後にはバッカスとヴィーナスの二つの神殿が完成した。葡萄とワインの神バッカスを祀る遺跡が現存するのはバアルベックが世界でただ一ケ所という。
私のワインに対する好奇心は、実はその半年ほど前から始まったのだった。カリフォルニア・ワインが禁酒法の不遇をようやく脱して、かなりの味わいを誇るブランドや名門ワイナリーがテレビで宣伝され始めた頃だったので、私は何冊かの本を買い込んでアメリカだけでないワイン世界とその歴史に興味を持つようになった。
ワイン発祥の地についても、グルジア、アナトリア、メソポタミアとある中にレバノンの山々という説があったのを記憶していたし、イエス・キリストが結婚の祝宴で水をワインに変えたあの奇蹟の起きた村、ガリラヤのカナがベカ上局原に近い事実にも気がついた。
もしかして、レバノンこそワイン源流の地ではなかったのか?
その時は拡がる好奇心を満足させることもできずに帰国したのだが、やがて私は物書きとなり、フランス、イタリア、スペインなどワインの取材に出掛ける幸運に恵まれた。しかしレバノンを再訪するようになったのは、二十余年を経た90年代末からだった。
一方で「ワイン源流の地・レバノン」説についての勉強は山形孝夫先生(宮城学院女子大学名誉教授)の著書『レバノンの白い山』のおかげで、私の中では確かなものになっていた。
レバノンは旧約聖書の中ではカナンの地として登場する地域に全土が入ってしまう国でもあり、古代イスラエルの神が何としても自らの民のために獲得したいミルクと蜂蜜、そして美酒ワインに象徴される土地だった。
ことにワインはエジプト王朝全盛期から引っぱりだこの人気だったし、中世ヨーロッパでも贅沢で高価なものとされたのがカナン産だった。しかしそれは当然であり、この地にはバッカス神殿ができる前に、先住の神として人々の厚い信仰を集めていたバアルペックの主、バアル神が存在していたからだ。彼こそがワインと深い関係にある神だった。
--紀元前13世紀頃彫られたバアル神のレリーフは、現在はパリのルーブル美術館に収まっているが、発掘されたのは1928年、ベイルート北方の丘だった。神殿跡や襖形文字でびっしりと神話が記された粘土板など、大量の出土品があったという。
その樹形文字はウガリット語といわれる言葉でそれまで未知のものだったが、学者たちの熱烈な研究のあげく3年で解読され、3000年以上も埋もれていたバアル神話が現代の光を浴びたのだった。
バアル神は古代オリエント世界の農耕神であり、大地に雷鳴を轟かせて雨をもたらし、万物の生命を蘇らせる主だ。カナンの地は沙漠に生きるイスラエルの民の憧れであり、緑濃い作物の豊かに実る肥沃な土地であった。この地に暮らす人々は平和と子孫繁栄を願う農耕民族であり、バアル神も同じくペアの神アナトと結婚し家族を守る優しい神だった。
しかし人間を生かす穀物は一年草の実であり、一年毎の侈い生命である。人間の関係もやがては滅びるものだ。ところが血は子孫に伝えられて何年も生き続ける。その事実こそがキリストの言葉ならずとも農耕文化の中でワインを造る人間存在の証ではないだろうか。ワインは農耕社会の絆とも要とも言えよう。
バアルにはモトという弟があり、彼は火の空を支配して大地を干上がらせてしまう神である。二人は壮絶な戦いを繰り広げるが、やがてバアルの方が力尽きて屍を野にさらす。すると大地は旱魅し、野山は枯れ果ててしまう。
ペアの女神アナトはバアルを失った悲しみにくれて野山をさまよい歩き、ようやく彼の亡骸を見つけると、さめざめと泣きくれる。するとアナトの涙は、何と、尽きることのない芳醇なワインであった。彼女は目から溢れ出る悲しみの水、ワインの中でバアルの復活を願い、モトヘの復讐を誓った。アナトは大地母神であると同時に勝利の女神であり、豊穣と多産の象徴として乳房がたわわに実る葡萄でできていた。
モトは息の根を止められて、やがて干からびた大地に雨が降り注ぎバアルは復活する。穀物神バアルに連続した命を与えるのは、アナトの流す涙、ワインだったのである。--
ワインをめぐるこのレバノン神話に魅せられた私はやがて十年足らずの間に4回もレバノンを旅することになった。私にはかつてベイルートで日本料理店「ミチコ」を経営していた姉がいた。不幸にして彼女は突然に亡くなり、その後だったが、友人たちが私のワイナリー訪問の世話をしてくれたのだった。
シャトー・ケフラヤは内戦の真最中にフランスから醸造技術者などのスタッフが移住し、この国にフランス流のワイン造りを指導して、西欧で80年代の終わりから毎年さまざまな賞を獲得するようになったワイナリーだ。いわばレバノンにワインールネッサンスをもたらした名門であるという。
私は日本から十数人のツアーと共にシャトー・ケフラヤを訪ね、レバノンの人々は料理との相性で白を好むことを知った。フランス流の赤もなかなかおいしく、当時は日本にも輸入されており、愛飲していたのだが……。
このときは十九世紀半ば開設のシャトー・クサラも訪問した。このワイナリーの造るワインは多岐にわたり、フランス種はもちろんスペイン系のテンプラーニョも、アルザス流のゲヴェルットラミナーもおいしい。さらに古代からの貯蔵庫かと思うような洞穴じみたカーヴヘのツアーも楽しいものだった。
2003年に夫と娘と訪ねた時は、98年開設のシャトー・マサヤヘ案内された。フランス人との共同経営と聞いたが、若い当主ゴスン氏自らの案内でワイナリーの敷地にあるレストランで、主に赤(ムールヴェルドなど)を味わった。
新しいワイナリーの心意気をことさらに感じたのは、ワインそのものの故か、ゴスン氏の印象だったのか、興味深い体験だった。
さて私がレバノン・ワインについて最も大切なことを学んだのは、2005年国際交流基金の機関誌『遠近』の仕事で、すでに西欧の多くのワイン評論家が「世界におけるグレート・ワイン」と賞賛するシャトー・ミュザールのオーナー、セルジュ・ホーシャル氏と対談するために彼の地を訪問した時のことだ。
最初にワイナリーを見学に行った私を、葡萄畑から工場も貯蔵庫もテイスティングまで、すべてホーシャル氏自身が案内して下さった。私は「レバノンの自然の味」という言葉を新たに耳に止めた。翌日は日本大使館が氏のために晩餐会を催してくださったので、かなり長時間にわたってお話することができた。
さて、対談はそれまでに私が学んだワイン体験を全部合わせても学べなかったほどの、ワイン造りの哲学から古代の歴史、そしてレバノンの土壌や山々、太陽の光の特殊性から宗教にまで及び、私は氏によって奥深いレバノンのワイン世界に入り込んでしまった。
「レバノンでは一度葡萄を搾ったら手をかけないワイン造り」であり、「この国には植物の病気がなかった」。さらに「レバノンは薬用植物の最大輸出国の一つであるほど生物学的多様性に恵まれています」などの言葉が忘れられない。さらに私が最も感動したのは次の言葉だった。
「この国は度重なる破壊を受けてきたが、もし私たちが復興しなければ、ここはただの難民の国になってしまう。戦争によって民族の心は引き裂かれても、ワインは民族的感情を癒す大切なものだ。ただの歓びを越えて今日と深く関わり、破壊の時に創造があることを、無政府状態のときに秩序があることを示してくれた。そして死と再生はめぐり来るものだということも、そもそもはバアルベックで示されたように、今またワインが明らかにしつつあると思う」。
今日レバノンではワイン造りが活撥になってきている。世界各地……日本でも盛んだ。
この現代においてこそ、ワインの源流はレバノンであることを思い起し、私たちはレバノンワインに深く親しみたいと思う。
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レバノンのギリシア正教、ギリシア・力トリック
『シリア・レバノンを知るための64章』より ⇒ レバノンでワイン作りを始めたソホクリス レバノンの半数はカトリックと言うから
ここで言う「ギリシア正教会」とは、451年のカルケドン公会議において正統とされた「カルケドン信条」を奉じる教会である。イエス・キリストの神性・人性をめぐる当時のローマ帝国における神学論争のなかで、ネストリウス派や単性論派を次々に排斥したうえで、皇帝権力と結び付いて帝国を支えた教会であり、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアの四つの総主教座が帝国領内の圧倒的多数の人口を管轄した。シリア・レバノンの地域はアンティオキア総主教座の下にあったし、今でもそれは続いている。
7世紀前半、イスラームが興って、ムスリム軍が東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と戦い、エルサレムに続きシリアの大部分を征服した段階で、その住民の大多数はキリスト教徒で、その過半数はギリシア正教徒たった。エジプトもすぐにムスリム軍の占領下に入ったので、ギリシア正教会の四つの総主教座のうち、三つが早々に「正統カリフ」の支配に服し、コンスタンティノープル総主教座のみがビザンツ帝国を支え続けた。
さて、少々煩雑ながら、ここで教会の呼称について整理しておくことにしよう。「ギリシア正教会」という呼び方に対しては強い反対意見がある。というのも、そこには「ギリシア人の教会」というニュアンスがあるため、その教会の下にスラブ系・アラブ系その他の諸民族をも包摂していた実態にそぐわないからである。そのために「東方正教会」という言葉がしばしば使われるが、それは4世紀末のローマ帝国の東西分裂に端を発した、西方のワーマ教会に対抗した東方の普遍教会なのだ、という立場による。この説を補強するのは、現在のギリシア国家の民族教会としての(すなわち、ブルガリア正教会やセルビア正教会などと同列の教会とし子、19世紀に成立した「ギリシア正教会」があるので、混同は不可避だ、ということである。これは至極正当なのであるが、しかし「東方正教会」の呼称を認めると、この教会から分離してカトリック化した宗派をどう呼べばよいか窮してしまう(「東方カトリック」とぃうと、アルメニア・カトリックやシリア・カトリック、マロン派などをまとめた呼称がなくなる)。したがって、現在のギリシア国家の民族教会ではない、という但し書きをつけて「ギリシア正教会」と呼ぶ妥協をせざるを得ないのである。英語の世界でも一般にこの妥協がなされている。
現地ではどう呼ばれてきたのだろうか。この教会が東ローマ帝国を支えてきた歴史から「皇帝派」を意味する「メルキー」「メルキト」という名がある。しかし現在、シリア・レバノンの地域では「メルキト派」は実質的にギリシア・カトリック教会のことを意味して、正教会の方はこのように呼ばない、という事情がある。ではアラビア語ではどのように呼んでいるかというと、「ルーム」という言葉を使い、「ルーム・オルトドクス」「ルームーカトリック」と呼んでいる。その「ルーム」とは何かといえば、7世紀以来ムスリムのアラブ人たちにとっての「ローマ人」のことであり、その地理的な含意はアナトリアとバルカン半島、つまりコンスタンティノープルの東西に広がる地域であった。これはこれで世界史上のローマ観念の広がりを考えるうえで重要なのだが、日本語に直訳するといよいよ混乱する。
地球規模で見るならば、現在、ギリシア正教会は、古代からの四総主教座に加えて、ロシア、ポーランド、ブルガリア、ギリシア、セルビアなど東欧・バルカンの10ケ国の正教会の合計14、もしくはこれにアメリカ合衆国の正教会を加えた15の独立正教会と、それぞれに連なる多数の自治正教会谷本正教会はロシア正教会に連なる)とによって形成されている。
シリア・レバノンのギリシア正教徒は、右に述べたようにアンティオキア総主教座に属するが、このアンティオキアは現在トルコ領のアンタクヤであり、総主教座の教会どころかキリスト教徒がまず見られない。13世紀に十字軍国家アンティオキア侯国をマムルーク朝のスルターン・バイバルスが滅はした際に都市が完全に荒廃してしまい、総主教座はキプロスなどに移った後、14世紀にダマスクスに落ち着き、今日に至っている。旧市街中心部の「まっすぐな道」の北側に位置するマリヤミーヤ教会で、「アンティオキア総主教座」の看板を掲げ続けているのである。その下位に位置する府主教座が、アレッポ、ハマー、ホムスやレバノンのトリポリ、べイルートなど12の教区に存在する形になっている。加えて、19世紀末以降の移民の拡散を反映して、アメリカ合衆国、ブラジル、アルゼンチン、チリ、メキシコ、オーストラリア、ニュージーランドなどにもこの宗派の教会が広がっている。
さて、1453年にビザンツ帝国がオスマン朝に滅ぼされてコンスタンティノープル総主教座がその支配ドに人り、その約60年後にオスマン朝がシリアとエジプトを版図に加えたとき、実に8世紀ぶりに四総主教座が同一国家の中での「再統合」を達成したのだった。オスマン帝国はバルカン地域にも領土を大々的に広げたが、そこはコンスタンティノープル総主教座の管轄区となった。オスマン政府はギリシア正教徒の官吏を重用し、その教会組織をスラブ系諸民族の統治にも利用したが、たいへん皮肉なことに、コンスタンティノーブル総主教座は、しぽみきった領土のビザンツ帝国末期よりもオスマン帝国時代の方がずっと羽振りが良くなったのであった。
さて、アンティオキア総主教座管区の正教徒たちは約800年におよぶムスリム支配の下で、その人口割合を減らすとともに、全面的にアラビア語化しており、ギリシア語は聖職者が典礼用語として細々と使うのみになっていた。ところがギリシア語世界にあるコンスタンティノープル総主教座が、「スルタンのお膝元」からオスマン政府の威を借りる形で陰に陽に介入するようになった。このためシリア都市部のギリシア正教徒の間で徐々に反感が高まっていった。そこに対抗宗教改革で東方に信徒拡大を求めていたイエズス会やカプチン会などカトリック伝道団が目をつけ、カトリックヘの改宗を働きかけた。教会の典礼は従来のまま、アンティオキア総主教のさらにその上にローマ教皇があることを認めさえすればよい、としたのである。これは十字軍の時代から続いてきた西方のローマ・カトリック教会から東方の諸教会に対する再統合、「教会合同」の運動の一環であった。
カトリックのヨーロッパ諸国と商売上のつながりを持てるという実利もあり、都市部、とりわけアレッポやシドンといった貿易都市で続々とカトリック化か進行した。カトリック化した信徒が従来の聖職者による儀礼を拒否したり、正教に留まる信徒と反目し合ったりで、教会は深刻な分裂状態に陥った。正教側はカトリック側を、西方に引きずられた分派だと決めつけ、カトリック側は自分たちこそアラブであり正教側をギリシアかぶれの分派だと非難した。1724年には、アンティオキア総主教が正教・カトリック双方から並立する事態に至る。こうしてギリシア正教とギリシア・カトリックとが完全に分離したが、オスマン政府は後者の方をなかなか認めようとしなかった。アレッポのような主要都市では大多数がカトリック化していたため対立が激しく、1818年には死者を出す衝突事件が発生した。1820年代にオスマン帝国を揺るがせたギリシア独立戦争は、正教側に不利に働き、オスマン政府は1848年にギリシアーカトリックを独立した教会として承認した。
ギリシア・カトリックの総大司教座はダマスクスにあるが、称号は「アンティオキアと全東方、アレクサンドリア、エルサレム総大司教」で、その下の大司教区は、アレッポ、ホムス、トリポリ、シドン、ザハレなど13あり、移民の拡散に対応して、カナダ、ブラジル、メキシコ、オーストラリアなどに教会を広げている。
1990年代前半の大ざっぱな推計で、ギリシア正教がシリアに70万人・レバノンに50万人で計120万人、ギリシア・カトリックがシリアに20万人・レバノンに35万人で計55万人とされるが、現状はシリア内戦でキリスト教徒全般の大量の人口流出が見られ、不明である(なお、同じ推計でパレスチナ・ヨルダン・エジプトのギリシア正教が12・5万人、ギリシア・カトリックが8・5万人)。両宗派の南北アメリカを中心とした在外移民人口(子孫世代も含める)は、これら中東諸国の両宗派人口の数倍に及ぶと推測されている。
教会内部の造りは両宗派とも大きな違いがあるようには見えない。祭壇のある至聖所と信徒のいる場を隔てるイコン(聖像画)をはめた壁(イコノスタス)は双方に同様に見られ、両方に聖像は置かれていない。聖職者の法衣もほとんど同じように見える。
1848年にギリシア・カトリックが独立した地位を確立して以降、両派は角を突き合わせることなく関係は安定しているように見えるが、レバノンやシリアで両派閥に結婚する男女がいる場合、この宗派の違いは少々厄介な障害として浮上することがある。
ここで言う「ギリシア正教会」とは、451年のカルケドン公会議において正統とされた「カルケドン信条」を奉じる教会である。イエス・キリストの神性・人性をめぐる当時のローマ帝国における神学論争のなかで、ネストリウス派や単性論派を次々に排斥したうえで、皇帝権力と結び付いて帝国を支えた教会であり、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアの四つの総主教座が帝国領内の圧倒的多数の人口を管轄した。シリア・レバノンの地域はアンティオキア総主教座の下にあったし、今でもそれは続いている。
7世紀前半、イスラームが興って、ムスリム軍が東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と戦い、エルサレムに続きシリアの大部分を征服した段階で、その住民の大多数はキリスト教徒で、その過半数はギリシア正教徒たった。エジプトもすぐにムスリム軍の占領下に入ったので、ギリシア正教会の四つの総主教座のうち、三つが早々に「正統カリフ」の支配に服し、コンスタンティノープル総主教座のみがビザンツ帝国を支え続けた。
さて、少々煩雑ながら、ここで教会の呼称について整理しておくことにしよう。「ギリシア正教会」という呼び方に対しては強い反対意見がある。というのも、そこには「ギリシア人の教会」というニュアンスがあるため、その教会の下にスラブ系・アラブ系その他の諸民族をも包摂していた実態にそぐわないからである。そのために「東方正教会」という言葉がしばしば使われるが、それは4世紀末のローマ帝国の東西分裂に端を発した、西方のワーマ教会に対抗した東方の普遍教会なのだ、という立場による。この説を補強するのは、現在のギリシア国家の民族教会としての(すなわち、ブルガリア正教会やセルビア正教会などと同列の教会とし子、19世紀に成立した「ギリシア正教会」があるので、混同は不可避だ、ということである。これは至極正当なのであるが、しかし「東方正教会」の呼称を認めると、この教会から分離してカトリック化した宗派をどう呼べばよいか窮してしまう(「東方カトリック」とぃうと、アルメニア・カトリックやシリア・カトリック、マロン派などをまとめた呼称がなくなる)。したがって、現在のギリシア国家の民族教会ではない、という但し書きをつけて「ギリシア正教会」と呼ぶ妥協をせざるを得ないのである。英語の世界でも一般にこの妥協がなされている。
現地ではどう呼ばれてきたのだろうか。この教会が東ローマ帝国を支えてきた歴史から「皇帝派」を意味する「メルキー」「メルキト」という名がある。しかし現在、シリア・レバノンの地域では「メルキト派」は実質的にギリシア・カトリック教会のことを意味して、正教会の方はこのように呼ばない、という事情がある。ではアラビア語ではどのように呼んでいるかというと、「ルーム」という言葉を使い、「ルーム・オルトドクス」「ルームーカトリック」と呼んでいる。その「ルーム」とは何かといえば、7世紀以来ムスリムのアラブ人たちにとっての「ローマ人」のことであり、その地理的な含意はアナトリアとバルカン半島、つまりコンスタンティノープルの東西に広がる地域であった。これはこれで世界史上のローマ観念の広がりを考えるうえで重要なのだが、日本語に直訳するといよいよ混乱する。
地球規模で見るならば、現在、ギリシア正教会は、古代からの四総主教座に加えて、ロシア、ポーランド、ブルガリア、ギリシア、セルビアなど東欧・バルカンの10ケ国の正教会の合計14、もしくはこれにアメリカ合衆国の正教会を加えた15の独立正教会と、それぞれに連なる多数の自治正教会谷本正教会はロシア正教会に連なる)とによって形成されている。
シリア・レバノンのギリシア正教徒は、右に述べたようにアンティオキア総主教座に属するが、このアンティオキアは現在トルコ領のアンタクヤであり、総主教座の教会どころかキリスト教徒がまず見られない。13世紀に十字軍国家アンティオキア侯国をマムルーク朝のスルターン・バイバルスが滅はした際に都市が完全に荒廃してしまい、総主教座はキプロスなどに移った後、14世紀にダマスクスに落ち着き、今日に至っている。旧市街中心部の「まっすぐな道」の北側に位置するマリヤミーヤ教会で、「アンティオキア総主教座」の看板を掲げ続けているのである。その下位に位置する府主教座が、アレッポ、ハマー、ホムスやレバノンのトリポリ、べイルートなど12の教区に存在する形になっている。加えて、19世紀末以降の移民の拡散を反映して、アメリカ合衆国、ブラジル、アルゼンチン、チリ、メキシコ、オーストラリア、ニュージーランドなどにもこの宗派の教会が広がっている。
さて、1453年にビザンツ帝国がオスマン朝に滅ぼされてコンスタンティノープル総主教座がその支配ドに人り、その約60年後にオスマン朝がシリアとエジプトを版図に加えたとき、実に8世紀ぶりに四総主教座が同一国家の中での「再統合」を達成したのだった。オスマン帝国はバルカン地域にも領土を大々的に広げたが、そこはコンスタンティノープル総主教座の管轄区となった。オスマン政府はギリシア正教徒の官吏を重用し、その教会組織をスラブ系諸民族の統治にも利用したが、たいへん皮肉なことに、コンスタンティノーブル総主教座は、しぽみきった領土のビザンツ帝国末期よりもオスマン帝国時代の方がずっと羽振りが良くなったのであった。
さて、アンティオキア総主教座管区の正教徒たちは約800年におよぶムスリム支配の下で、その人口割合を減らすとともに、全面的にアラビア語化しており、ギリシア語は聖職者が典礼用語として細々と使うのみになっていた。ところがギリシア語世界にあるコンスタンティノープル総主教座が、「スルタンのお膝元」からオスマン政府の威を借りる形で陰に陽に介入するようになった。このためシリア都市部のギリシア正教徒の間で徐々に反感が高まっていった。そこに対抗宗教改革で東方に信徒拡大を求めていたイエズス会やカプチン会などカトリック伝道団が目をつけ、カトリックヘの改宗を働きかけた。教会の典礼は従来のまま、アンティオキア総主教のさらにその上にローマ教皇があることを認めさえすればよい、としたのである。これは十字軍の時代から続いてきた西方のローマ・カトリック教会から東方の諸教会に対する再統合、「教会合同」の運動の一環であった。
カトリックのヨーロッパ諸国と商売上のつながりを持てるという実利もあり、都市部、とりわけアレッポやシドンといった貿易都市で続々とカトリック化か進行した。カトリック化した信徒が従来の聖職者による儀礼を拒否したり、正教に留まる信徒と反目し合ったりで、教会は深刻な分裂状態に陥った。正教側はカトリック側を、西方に引きずられた分派だと決めつけ、カトリック側は自分たちこそアラブであり正教側をギリシアかぶれの分派だと非難した。1724年には、アンティオキア総主教が正教・カトリック双方から並立する事態に至る。こうしてギリシア正教とギリシア・カトリックとが完全に分離したが、オスマン政府は後者の方をなかなか認めようとしなかった。アレッポのような主要都市では大多数がカトリック化していたため対立が激しく、1818年には死者を出す衝突事件が発生した。1820年代にオスマン帝国を揺るがせたギリシア独立戦争は、正教側に不利に働き、オスマン政府は1848年にギリシアーカトリックを独立した教会として承認した。
ギリシア・カトリックの総大司教座はダマスクスにあるが、称号は「アンティオキアと全東方、アレクサンドリア、エルサレム総大司教」で、その下の大司教区は、アレッポ、ホムス、トリポリ、シドン、ザハレなど13あり、移民の拡散に対応して、カナダ、ブラジル、メキシコ、オーストラリアなどに教会を広げている。
1990年代前半の大ざっぱな推計で、ギリシア正教がシリアに70万人・レバノンに50万人で計120万人、ギリシア・カトリックがシリアに20万人・レバノンに35万人で計55万人とされるが、現状はシリア内戦でキリスト教徒全般の大量の人口流出が見られ、不明である(なお、同じ推計でパレスチナ・ヨルダン・エジプトのギリシア正教が12・5万人、ギリシア・カトリックが8・5万人)。両宗派の南北アメリカを中心とした在外移民人口(子孫世代も含める)は、これら中東諸国の両宗派人口の数倍に及ぶと推測されている。
教会内部の造りは両宗派とも大きな違いがあるようには見えない。祭壇のある至聖所と信徒のいる場を隔てるイコン(聖像画)をはめた壁(イコノスタス)は双方に同様に見られ、両方に聖像は置かれていない。聖職者の法衣もほとんど同じように見える。
1848年にギリシア・カトリックが独立した地位を確立して以降、両派は角を突き合わせることなく関係は安定しているように見えるが、レバノンやシリアで両派閥に結婚する男女がいる場合、この宗派の違いは少々厄介な障害として浮上することがある。
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二〇一三年 原発ゼロしかないよ
『日本の原子力』より
二〇一一年 ムラの実態と「専門家」の醜態
解説委員 これはあくまで想定、仮定ですが、こうした水素がなんらかのことで引火して爆発したということも考えられます。
アナウンサー この情報をお聞きになってどのような印象ですか?
原子力の専門家〔NHKがっけた肩書き〕 爆発的なということですか、はい今格納容器の圧力を下げるという作業をしておりますので、その一環として弁を一気に、まあ爆破弁というものがあるのですが、そのような弁を作動させて一気に圧力を抜いたということもあるのかなと思っております、ちょっとまだ情報がございませんのでよく分からないところが多いと思います。(三月一二日一六時五二分ごろからのNHKテレビのニュース)
三人が画面に登場する前の一分間は、福島第一のその日一四時ごろの海岸からの映像が映されていた。その後、一六時四〇分ごろの陸側から第一を映した映像に変わった。撮影方向が逆なので分かりにくいが、四つあった原子炉建屋の一番端にあったものが骨組みだけになっていることを映し出していた。しかし一号機の建屋が吹き飛んでいることを誰も指摘していない。放送開始から一五分経過したところで誰かが気づいたのだろう、同一アングルでのライブの映像と午前中の映像を対比させ、爆発音と白い煙と地面の揺れの原因が一号機の建屋の爆発だったことを確認した。
その映像を受けて専門家(関村直人東大教授)は「原子炉の建屋だということになりますと、少し大変な事象が起こっているのではないか」と述べ、解説委員は「これほど大きな爆発等があったとすればもう少し確かな情報を東京電力、国は把握できるのでは」ともっともな疑問を呈している。しかし実態は違った。そのころ官邸のテレビ画面では、大爆発で建屋が吹き飛び大量の白煙が上がっている映像が流れていた。菅首相はその日朝、現地に向かうヘリコプターの中で「水素爆発は起こらない」という説明を班目原子力安全委員長から受けていた。爆発映像を前に班目は「あー」と頭をかかえるだけだった。これを機に菅は、原子カムラの人々が頼りにならないことを悟った。
一号機では一二日九時をめどに爆発を防ぐためのベンドの準備が行われたが、実施されたのは五時間後の一四時五〇分だった。それから四六分後、一五時三六分に水素爆発が起きた。ベンドが計画より遅れたのは、放射能を避けるための遠隔操作に必要な電力が得られず、手動の作業と仮設の遠隔作業となったためだ。この五時間で水素がたまり、水素爆発の遠因となったと思われる。
五月二六日、関村は米国科学アカデミーで「福島第二原子力発電所事故の概要について」という講演を行っている。その「震災の科学技術に対するインパクト」の中で「科学技術への信頼低下。工学者・学生の自信喪失」を指摘している。この指摘は原発がレペル七の事故を起こしたことの直接的影響を意味しているのだが、事故から約一週間ほど、彼を含めた「原子力の専門家」がマスメディアで見せた醜態が引き起こしたものでもある。
六月、独連邦議会は脱原発関連法案を可決した。
二〇一二年 報道の自由--低下か実態暴露か?
日本の報道の自由度は二二位に下落したが、津波や福島の核事故報道に過剰な制限が加えられ、報道の多元性の限界が露わになった。(「国境なき記者団」による「世界報道の自由度ランキング 二〇一一-二○一二」の日本についてのコメント)
報道の自由度ランキングで日本は世界約一八〇カ国中、二〇〇九年が一七位、一〇年は一一位だった。それが一二年に二二位に落ちた。この後さらに順位を落とし一三年が五三位、一四年には五九位となる。一三年については、フクシマ報道が一層厳しく制限されていることと自己検閲の横行、権力による取材制限を支えてきた「記者クラブ」改革が進んでいないことも指摘された。
しかし以下の事例を知ると、本当に日本の報道の自由度は下がったのか、むしろ以前の高評価が実態を反映していなかったのではないか、と考えられる。
九月一一日、日本学術会議は原子力委員会委員長に、回答「高レペル放射性廃棄物の処分について)を送っている。これは二〇一〇年九月七日の同委の近藤駿介委員長からの要請に応えたものだ。三・一一により対応が遅れたが、結果としてフクシマを踏まえた回答となった。学術会議は、原子力発電をめぐる大局的政策についての合意形成に十分取り組まないまま高レベル放射性廃棄物の最終処分地の選定という個別的課題について合意形成を求めるのは、手続き的に逆転しており手順として適切でない、という判断に立脚している立場を明確にした上で、六項目の提言をしている。
一.高レベル放射性廃棄物処分政策の抜本的見直し
二.科学・技術の限界の認識と科学的自律性の確保
三.暫定保管と総量管理を柱として政策を再構築
四.負担の公平性の確保
五.討論による多段階合意形成
六.長期的取り組みが求められていることの認識
一.で「原子力委員会自身が二〇一一年九月から原子力発電・核燃料サイクル総合評価を行い、使用済み核燃料の『全量再処理』という従来の方針に対する見直しを進めて」いると指摘し、そして四.で「金銭的手段による誘導を主要な手段にしない形での立地選定手続きの改善が必要で」、そして六.でこの件は「千年・万年の時間軸で考えなければならない問題である」と釘を刺している.法律は作ったがそれから一〇年放置されてきたのは、構造に無理があるからだ.フクシマ「以来、原子力政策全般にわたる抜本的見直しの議論が広く進められている……高レベル放射性廃棄物の処分についても既存の枠組みにとらわれることなく、様々な角度からその処分法を吟昧すべきで」はあるが、「各地の原子力施設には、既に大量の使用済み核燃料が存在するので」、三.の「暫定保管」が必要ということだ.失われた一〇年間、こうしたことが広く報道されることはなかった。
二〇一三年 原発ゼロしかないよ
一〇万年だよ。三〇〇年後に考える(見直す)っていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ……逆だよ、逆。今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知恵を出す……戦はシンガリ(退却軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊)がいちばん難しいんだよ。撤退が。(小泉純一郎元首相の「原発ゼロ」発言)
冒頭の「一〇万年」は核ゴミの保管期間だ。
「逆だよ、逆」。こうした発想が小泉の特質かもしれないし、日本の政治家に少ない資質だと思う。七〇年代に脱原発の方向を模索した日本社会党、九〇年代に原発を過渡的于不ルギーと位置付けた民主党、いずれも原発依存の道に入り込んでしまった。両者に共通しているのは、文句をつけながら継続を認める姿勢だ。本気であれば、稼働中の原発をいつまで存続させるのか、その時間的期限を切って、それまでの行程表、そのあとの段取りを示すべきだったが、それがなされなかった。その結果、社会党は村山政権時代に、民主党は二〇〇六年に原発依存に方針転換した。
小泉が原発ゼロの方針を確信したのは核ゴミの処理問題だった。この後、一一月一二日、小泉はこう述べている。「結論から言うと、これから日本において核のゴミの最終処分場のめどをつけられると思う方が楽観的で無責任過ぎると思いますよ。すでに一〇年以上前から最終処分場の問題は技術的には決着してるんですよ。それがなぜI〇年以上かかって一つも見つけることができないのか。事故の前からですよ」。彼は夏にフィンランドのオンカロを見学した。その概要をこう述べている。「四〇〇メートル地下に下りる。縦横ニキロメートルの広場をつくっているわけです。……その広場に円筒形の筒を作って、核のゴミを埋め込むわけです。……二基分しか容量がない……一〇万年もつかどうか調べないといけない。振り返って日本を考えて下さいよ。四〇〇メートル掘らないうちに水なんてしょっちゅう出てきますよ。中には温泉出てきますよ」。
「温泉」というのは、処分場建設は物理学的に無理だという指摘だ。一五億年以上前のアフリカに五〇万年間存在したオクロの天然の原子炉があった。その出現の理由は、核分裂物質と豊富な水の存在だった。水が減速剤となり、自然に核分裂の連鎖反応が起こり、天然の原子炉が作られた。核の最終処分場に水は禁物なのだ。もうひとつ、オンカロは一八億年前に形成されて以降動いたことのない地盤だが、日本にはそのような安定した地盤はない。
単純な計算をする。オンカロ並みの施設を作るには最小でも、二㎞四方の土地が必要で、その面積は四k㎡だ。福島第一原子力発電所の敷地面積は三・五k㎡で、核のゴミの最終処分場としてはせいぜい二基分ということになる。ところがその敷地には第一から第六まで原子炉が六基ある。つまり、たとえ福島第一原子力発電所の敷地全部使っても、そこで生まれる核のゴミの三分の一しか処分できない、残りの三分の二の処分先を考える必要があるということだ。
二〇一一年 ムラの実態と「専門家」の醜態
解説委員 これはあくまで想定、仮定ですが、こうした水素がなんらかのことで引火して爆発したということも考えられます。
アナウンサー この情報をお聞きになってどのような印象ですか?
原子力の専門家〔NHKがっけた肩書き〕 爆発的なということですか、はい今格納容器の圧力を下げるという作業をしておりますので、その一環として弁を一気に、まあ爆破弁というものがあるのですが、そのような弁を作動させて一気に圧力を抜いたということもあるのかなと思っております、ちょっとまだ情報がございませんのでよく分からないところが多いと思います。(三月一二日一六時五二分ごろからのNHKテレビのニュース)
三人が画面に登場する前の一分間は、福島第一のその日一四時ごろの海岸からの映像が映されていた。その後、一六時四〇分ごろの陸側から第一を映した映像に変わった。撮影方向が逆なので分かりにくいが、四つあった原子炉建屋の一番端にあったものが骨組みだけになっていることを映し出していた。しかし一号機の建屋が吹き飛んでいることを誰も指摘していない。放送開始から一五分経過したところで誰かが気づいたのだろう、同一アングルでのライブの映像と午前中の映像を対比させ、爆発音と白い煙と地面の揺れの原因が一号機の建屋の爆発だったことを確認した。
その映像を受けて専門家(関村直人東大教授)は「原子炉の建屋だということになりますと、少し大変な事象が起こっているのではないか」と述べ、解説委員は「これほど大きな爆発等があったとすればもう少し確かな情報を東京電力、国は把握できるのでは」ともっともな疑問を呈している。しかし実態は違った。そのころ官邸のテレビ画面では、大爆発で建屋が吹き飛び大量の白煙が上がっている映像が流れていた。菅首相はその日朝、現地に向かうヘリコプターの中で「水素爆発は起こらない」という説明を班目原子力安全委員長から受けていた。爆発映像を前に班目は「あー」と頭をかかえるだけだった。これを機に菅は、原子カムラの人々が頼りにならないことを悟った。
一号機では一二日九時をめどに爆発を防ぐためのベンドの準備が行われたが、実施されたのは五時間後の一四時五〇分だった。それから四六分後、一五時三六分に水素爆発が起きた。ベンドが計画より遅れたのは、放射能を避けるための遠隔操作に必要な電力が得られず、手動の作業と仮設の遠隔作業となったためだ。この五時間で水素がたまり、水素爆発の遠因となったと思われる。
五月二六日、関村は米国科学アカデミーで「福島第二原子力発電所事故の概要について」という講演を行っている。その「震災の科学技術に対するインパクト」の中で「科学技術への信頼低下。工学者・学生の自信喪失」を指摘している。この指摘は原発がレペル七の事故を起こしたことの直接的影響を意味しているのだが、事故から約一週間ほど、彼を含めた「原子力の専門家」がマスメディアで見せた醜態が引き起こしたものでもある。
六月、独連邦議会は脱原発関連法案を可決した。
二〇一二年 報道の自由--低下か実態暴露か?
日本の報道の自由度は二二位に下落したが、津波や福島の核事故報道に過剰な制限が加えられ、報道の多元性の限界が露わになった。(「国境なき記者団」による「世界報道の自由度ランキング 二〇一一-二○一二」の日本についてのコメント)
報道の自由度ランキングで日本は世界約一八〇カ国中、二〇〇九年が一七位、一〇年は一一位だった。それが一二年に二二位に落ちた。この後さらに順位を落とし一三年が五三位、一四年には五九位となる。一三年については、フクシマ報道が一層厳しく制限されていることと自己検閲の横行、権力による取材制限を支えてきた「記者クラブ」改革が進んでいないことも指摘された。
しかし以下の事例を知ると、本当に日本の報道の自由度は下がったのか、むしろ以前の高評価が実態を反映していなかったのではないか、と考えられる。
九月一一日、日本学術会議は原子力委員会委員長に、回答「高レペル放射性廃棄物の処分について)を送っている。これは二〇一〇年九月七日の同委の近藤駿介委員長からの要請に応えたものだ。三・一一により対応が遅れたが、結果としてフクシマを踏まえた回答となった。学術会議は、原子力発電をめぐる大局的政策についての合意形成に十分取り組まないまま高レベル放射性廃棄物の最終処分地の選定という個別的課題について合意形成を求めるのは、手続き的に逆転しており手順として適切でない、という判断に立脚している立場を明確にした上で、六項目の提言をしている。
一.高レベル放射性廃棄物処分政策の抜本的見直し
二.科学・技術の限界の認識と科学的自律性の確保
三.暫定保管と総量管理を柱として政策を再構築
四.負担の公平性の確保
五.討論による多段階合意形成
六.長期的取り組みが求められていることの認識
一.で「原子力委員会自身が二〇一一年九月から原子力発電・核燃料サイクル総合評価を行い、使用済み核燃料の『全量再処理』という従来の方針に対する見直しを進めて」いると指摘し、そして四.で「金銭的手段による誘導を主要な手段にしない形での立地選定手続きの改善が必要で」、そして六.でこの件は「千年・万年の時間軸で考えなければならない問題である」と釘を刺している.法律は作ったがそれから一〇年放置されてきたのは、構造に無理があるからだ.フクシマ「以来、原子力政策全般にわたる抜本的見直しの議論が広く進められている……高レベル放射性廃棄物の処分についても既存の枠組みにとらわれることなく、様々な角度からその処分法を吟昧すべきで」はあるが、「各地の原子力施設には、既に大量の使用済み核燃料が存在するので」、三.の「暫定保管」が必要ということだ.失われた一〇年間、こうしたことが広く報道されることはなかった。
二〇一三年 原発ゼロしかないよ
一〇万年だよ。三〇〇年後に考える(見直す)っていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ……逆だよ、逆。今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知恵を出す……戦はシンガリ(退却軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊)がいちばん難しいんだよ。撤退が。(小泉純一郎元首相の「原発ゼロ」発言)
冒頭の「一〇万年」は核ゴミの保管期間だ。
「逆だよ、逆」。こうした発想が小泉の特質かもしれないし、日本の政治家に少ない資質だと思う。七〇年代に脱原発の方向を模索した日本社会党、九〇年代に原発を過渡的于不ルギーと位置付けた民主党、いずれも原発依存の道に入り込んでしまった。両者に共通しているのは、文句をつけながら継続を認める姿勢だ。本気であれば、稼働中の原発をいつまで存続させるのか、その時間的期限を切って、それまでの行程表、そのあとの段取りを示すべきだったが、それがなされなかった。その結果、社会党は村山政権時代に、民主党は二〇〇六年に原発依存に方針転換した。
小泉が原発ゼロの方針を確信したのは核ゴミの処理問題だった。この後、一一月一二日、小泉はこう述べている。「結論から言うと、これから日本において核のゴミの最終処分場のめどをつけられると思う方が楽観的で無責任過ぎると思いますよ。すでに一〇年以上前から最終処分場の問題は技術的には決着してるんですよ。それがなぜI〇年以上かかって一つも見つけることができないのか。事故の前からですよ」。彼は夏にフィンランドのオンカロを見学した。その概要をこう述べている。「四〇〇メートル地下に下りる。縦横ニキロメートルの広場をつくっているわけです。……その広場に円筒形の筒を作って、核のゴミを埋め込むわけです。……二基分しか容量がない……一〇万年もつかどうか調べないといけない。振り返って日本を考えて下さいよ。四〇〇メートル掘らないうちに水なんてしょっちゅう出てきますよ。中には温泉出てきますよ」。
「温泉」というのは、処分場建設は物理学的に無理だという指摘だ。一五億年以上前のアフリカに五〇万年間存在したオクロの天然の原子炉があった。その出現の理由は、核分裂物質と豊富な水の存在だった。水が減速剤となり、自然に核分裂の連鎖反応が起こり、天然の原子炉が作られた。核の最終処分場に水は禁物なのだ。もうひとつ、オンカロは一八億年前に形成されて以降動いたことのない地盤だが、日本にはそのような安定した地盤はない。
単純な計算をする。オンカロ並みの施設を作るには最小でも、二㎞四方の土地が必要で、その面積は四k㎡だ。福島第一原子力発電所の敷地面積は三・五k㎡で、核のゴミの最終処分場としてはせいぜい二基分ということになる。ところがその敷地には第一から第六まで原子炉が六基ある。つまり、たとえ福島第一原子力発電所の敷地全部使っても、そこで生まれる核のゴミの三分の一しか処分できない、残りの三分の二の処分先を考える必要があるということだ。
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