未唯への手紙
未唯への手紙
昭和天皇の敗戦理由
夏の歩行
朝、一番近いセブン-イレブンまで歩きました。あまりにも近かったけど、心臓に若干の違和感です。もう少し遠い、セブン-イレブンにしましょう。これを習慣化するとなると、朝飯を買うという名目にするためには、何を買うかです。お金の負担が少なく、カロリーが適切なものにしないといけない。93円のドーナッツにした。チョコレートがちょっと邪魔です。
スタバのように、曜日で変えるようにしましょう。土曜日の朝7時からは、本を20冊以上持って、スタバが楽しみになっている。
色違いの二本……少し、言葉を変えると、色キチガイの日本
ICレコーダーのバッテリーがヤバくなってきたから、ブラックに変えました。折角、二台同じものが色違いであるのだから。万年筆も同じように色違いで二本あります。私の思考パターンです。
プロと話すには
販売のプロにビビッている、パートナーへの助言を考えました。研究所で、プロと渡り合った経験から考えていく。
プロと話すというのは、非常に面白いです。彼らのレベルを凌駕するものは当たり前です。
単に興味を持つだけで十分です。素人である自分がどのように質問するのか、その結果をどう展開するのか。それよりも大きなものの世界、出来たら、2ステップ上の世界から見たら、どう見えるかを知らせれば、プロはもう一つ、上の世界を把握できます。
それらがあるから、「全てを知りたい」が意味を持ってくるし、それが可能になります。
パートナーの場合は、相手が持っている知識よりも上でないということで、避けているが、そんなものはいつまでたっても追いつくことはできない。相手がそこに存在していることはそれだけの知識がそこにあるということ、それを尊敬するだけで十分です。
プロの弱みは、その専門性を持っていても、それをぶつける相手が居ない、聞いてくれる人が居ない。聞けばいい。聴くだけでなく、他の要素とくっつけて、もう一つ上の世界を示すということです。
研究所でのエンジニアリングOAの時です。その時のツールの展開は見事にうまくいった。いい仕事をしたと思っていますし、副所長からも言われました。
組織を使うということ
パートナーはもっと、言いたいことを言えばいいです。人はさほど、賢くない。言えば、先に進めます。言わなきゃ、何も片付かない。人からの評価はどうでもいい。組織自体が腐っているから、腐っている方の人間から評価される覚えはない。
私はこの論理を習いました。研究所に赴任した時に、井上さんから「社長になる気がなければ、組織を使って、自分のやりたいことをしなさい」、逆に言うと、社長というものは、組織に従属しているものです。そんなものがやることはたかが知れています。
これはハレーすい星へのメッセージです。
7.8.1「新しい数学」
新しい数学の最大の特徴は、部分と全体が同居していることです。
昭和天皇の敗戦理由
昭和天皇。敗戦の理由が4つある。①兵法の研究が不十分、②科学の力を欠した、③陸海軍の不一致、④常識ある指導者が存在しなかった。そうじゃないでしょう。敗戦の理由は、戦争を始めたことでしょう。それを宣言したのは誰? 勝って、どうするかがなくて、始めた戦争は、負けて当たり前。
全て、日露戦争で勝ったつもりになったことが原因という節があります。ロシアの内部事情と米国の思惑の中で負けなかった戦争。日露戦争なのに、それぞれの領土とは関係のない、満州での戦争。
大連から旅順に向かった時に、本当に辺鄙な道沿いを見ながら感じた。こんな所で、日露が戦って、満洲の人に誤ったのか。日本は、それらの戦いで10万人が亡くなり、その代償を求めて、さらに300万人が亡くなった。
未唯へ
クルマに散水機能があってもいい気がします。ウォーシャーがあるんだから。
静脈から変えることになります。何しろ、静脈は末端ではなく、先端です。
朝、一番近いセブン-イレブンまで歩きました。あまりにも近かったけど、心臓に若干の違和感です。もう少し遠い、セブン-イレブンにしましょう。これを習慣化するとなると、朝飯を買うという名目にするためには、何を買うかです。お金の負担が少なく、カロリーが適切なものにしないといけない。93円のドーナッツにした。チョコレートがちょっと邪魔です。
スタバのように、曜日で変えるようにしましょう。土曜日の朝7時からは、本を20冊以上持って、スタバが楽しみになっている。
色違いの二本……少し、言葉を変えると、色キチガイの日本
ICレコーダーのバッテリーがヤバくなってきたから、ブラックに変えました。折角、二台同じものが色違いであるのだから。万年筆も同じように色違いで二本あります。私の思考パターンです。
プロと話すには
販売のプロにビビッている、パートナーへの助言を考えました。研究所で、プロと渡り合った経験から考えていく。
プロと話すというのは、非常に面白いです。彼らのレベルを凌駕するものは当たり前です。
単に興味を持つだけで十分です。素人である自分がどのように質問するのか、その結果をどう展開するのか。それよりも大きなものの世界、出来たら、2ステップ上の世界から見たら、どう見えるかを知らせれば、プロはもう一つ、上の世界を把握できます。
それらがあるから、「全てを知りたい」が意味を持ってくるし、それが可能になります。
パートナーの場合は、相手が持っている知識よりも上でないということで、避けているが、そんなものはいつまでたっても追いつくことはできない。相手がそこに存在していることはそれだけの知識がそこにあるということ、それを尊敬するだけで十分です。
プロの弱みは、その専門性を持っていても、それをぶつける相手が居ない、聞いてくれる人が居ない。聞けばいい。聴くだけでなく、他の要素とくっつけて、もう一つ上の世界を示すということです。
研究所でのエンジニアリングOAの時です。その時のツールの展開は見事にうまくいった。いい仕事をしたと思っていますし、副所長からも言われました。
組織を使うということ
パートナーはもっと、言いたいことを言えばいいです。人はさほど、賢くない。言えば、先に進めます。言わなきゃ、何も片付かない。人からの評価はどうでもいい。組織自体が腐っているから、腐っている方の人間から評価される覚えはない。
私はこの論理を習いました。研究所に赴任した時に、井上さんから「社長になる気がなければ、組織を使って、自分のやりたいことをしなさい」、逆に言うと、社長というものは、組織に従属しているものです。そんなものがやることはたかが知れています。
これはハレーすい星へのメッセージです。
7.8.1「新しい数学」
新しい数学の最大の特徴は、部分と全体が同居していることです。
昭和天皇の敗戦理由
昭和天皇。敗戦の理由が4つある。①兵法の研究が不十分、②科学の力を欠した、③陸海軍の不一致、④常識ある指導者が存在しなかった。そうじゃないでしょう。敗戦の理由は、戦争を始めたことでしょう。それを宣言したのは誰? 勝って、どうするかがなくて、始めた戦争は、負けて当たり前。
全て、日露戦争で勝ったつもりになったことが原因という節があります。ロシアの内部事情と米国の思惑の中で負けなかった戦争。日露戦争なのに、それぞれの領土とは関係のない、満州での戦争。
大連から旅順に向かった時に、本当に辺鄙な道沿いを見ながら感じた。こんな所で、日露が戦って、満洲の人に誤ったのか。日本は、それらの戦いで10万人が亡くなり、その代償を求めて、さらに300万人が亡くなった。
未唯へ
クルマに散水機能があってもいい気がします。ウォーシャーがあるんだから。
静脈から変えることになります。何しろ、静脈は末端ではなく、先端です。
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退職後 プレ団塊世代にとってサークル活動のジレンマとは
『ライフスタイルとライフコース』より
自由な時間を過ごすことの困難
自由な時間をどのように消費するかは、一般的に個人の趣味や嗜好により、個人的な問題となる。だが、高齢期の自由な時間を受動的に過ごすことしかできない人の悩みやその増大が指摘されている。
ともすれば、人々はこの自由な時間を漫然と過ごしてしまう。そして、しばしば私たちは、退屈に過ごすことは時間の無駄であり、よくないことであると考える。バウマンはこの点を、消費社会において労働倫理から消費の美学に価値が移っていることから分析する。バウマンは、消費社会においては「退屈しないことこそ消費者の生活の規範であり、そして現実的な規範、到達が可能である目標である」口と論じる。そして、その目標に到達できないものは自分自身を責め、他者からは軽蔑されるようになってしまうと指摘する。消費社会では、他者から評価され、他者との差異化を図ることができるような消費の美学に基づく自由な時間の消費が求められる。それゆえ、退屈せずに時間を過ごすことができるノウハウ、あるいはその獲得が問題となり、自由な時間に満ちた「退職後」の過ごし方はより重要となる。
誰もが一人で充実した退職後を過ごせるわけではない。むしろ一人で過ごすノウハウをもつ者は少数派である。そこで本章では、複数の当事者が自発的に集うサークル活動に焦点をあて、退職後の自由な時間を複数の人たちと過ごす実態と意味を考察する。
退職後における過去とのつきあい方
サークルSのものづくりの実践は、メンバーの多くがこれまで製造業に従事してきた経験によって支えられている。そして、ものづくりでの試行錯誤は、過去の就労経験を生かして竹炭製作に挑もうとする態度であった。ポイントは、活動をより良くしようとする際に、過去の経験を参照枠として設定している点である。Dさんのマニュアルの提案やBさんの竹酢液の品質管理の提案に表れていたように、働いた経験を踏まえて目の前の問題を改善したいと思いつつ、現役時代のようには働きたくないという「過去の経験への両義的な感覚」(21)を持ち、退職後という時間を過ごしている。
この経験は、プレ団塊世代の影響を強く受けている。この世代の男性の多くは、高度経済成長期の製造業が最も盛んな時期に地方から都市に移動して就職し、結婚し、現在に至るまでの人生の多くの時間を企業で働いて過ごしてきた。それゆえに、退職後の自由な時間を過ごす地縁やノウハウを持たない人が多い。
いつまでも過去をひきずってはいけない、前歴や学歴などを話してはいけないという指摘がなされる。「自分と相手の前歴を言わない、聞かない」というタブーの理山は「引退すればみな同じ。過去の栄光より現在のありのままを受けとめあおう」という。しかし、筆者が見る限り、過去の経験をやみくもに振りかざすメンバーはほとんどいない。そのような行為が嫌われることは、誰もがよく理解している。つねに栄光にしがみつくわけではないが、多くの退職者が過去の栄光を大切にしているのは、それ以外の参照枠を持ちにくいライフコースを経験してきたからであろう。
重要なのは、過去の経験とどのようにつきあうかという営みにある。退職後を過ごす際に重要なことは、過去を披漫したり覆い隠すのでもなく、自己や他者の経験を尊重しつつ、自己の経験を参照枠としてあらゆる活動に無理やりあてはめない、ゆるやかなつきあい方なのである。
社会格差の広がりと退職後のゆくえ
今後の退職後を考えるうえで、サークルSから得られた知見が二点ある。
第一に、後期高齢期における健康リスクを踏まえた、管理を強めすぎない実践についてである。第1節において示したように、退職後の時間と健康寿命は過去の世代に比べて延びている。しかし、亡くなる直前まで健康でいることは難しく、特に75歳以降の後期高齢期には健康低下のリスクは大きくなる。そのため、多少の健康リスクがあっても継続できるような活動の機会や人間関係を保持できるかが重要となる。サークルSにおける、管理を強めすぎない実践は、本人の身体状況によらない参加を可能にしている。長い退職後の時間において、同年代の人々とともに活動を継続するために、この実践は必須条件となる。
第二に、同世代の退職者とともに活動をする前提条件の変化についてである。これは、世代の違いによる就労経験の変化と、高齢期の社会格差の増大にかかわる。サークルSで活動する人々を結びつけてきたものは、「ものづくり」にたずさわってきたというプレ団塊の世代における共通経験であった。しかし、団塊の世代以降、退職者の就労経験も製造業中心から、金融やサービス業など第三次産業へと変わっている。そのため、これからの世代において「ものづくり」に変わる世代的共通経験をどのように把握し、多様な人々を結びつけるかが課題となる。
一九九〇年代以降、少子高齢化に伴い、高齢者のいる世帯間の経済格差が増大している。特に高齢者のみの世帯間の経済格差はそれより大きく、退職後を過ごす人々の経済格差は今後より広がることが予想される(24)。さらに、公的年金の受給年齢の引き上げや医療費負担の増加などが進むなかで、現役時代の資産形成などの影響をより大きく受けることが予想される。サークルSでは学歴は多様で、過去の年収のばらつきも大きかったと思われるが、年金生活によって格差は顕在化していない。しかし、世代内の経済格差が広がるなかで、活動をともにできる経済的、社会的基盤をどう形成するかが、団塊以降の世代の活動支援の課題となる。
自由な時間を過ごすことの困難
自由な時間をどのように消費するかは、一般的に個人の趣味や嗜好により、個人的な問題となる。だが、高齢期の自由な時間を受動的に過ごすことしかできない人の悩みやその増大が指摘されている。
ともすれば、人々はこの自由な時間を漫然と過ごしてしまう。そして、しばしば私たちは、退屈に過ごすことは時間の無駄であり、よくないことであると考える。バウマンはこの点を、消費社会において労働倫理から消費の美学に価値が移っていることから分析する。バウマンは、消費社会においては「退屈しないことこそ消費者の生活の規範であり、そして現実的な規範、到達が可能である目標である」口と論じる。そして、その目標に到達できないものは自分自身を責め、他者からは軽蔑されるようになってしまうと指摘する。消費社会では、他者から評価され、他者との差異化を図ることができるような消費の美学に基づく自由な時間の消費が求められる。それゆえ、退屈せずに時間を過ごすことができるノウハウ、あるいはその獲得が問題となり、自由な時間に満ちた「退職後」の過ごし方はより重要となる。
誰もが一人で充実した退職後を過ごせるわけではない。むしろ一人で過ごすノウハウをもつ者は少数派である。そこで本章では、複数の当事者が自発的に集うサークル活動に焦点をあて、退職後の自由な時間を複数の人たちと過ごす実態と意味を考察する。
退職後における過去とのつきあい方
サークルSのものづくりの実践は、メンバーの多くがこれまで製造業に従事してきた経験によって支えられている。そして、ものづくりでの試行錯誤は、過去の就労経験を生かして竹炭製作に挑もうとする態度であった。ポイントは、活動をより良くしようとする際に、過去の経験を参照枠として設定している点である。Dさんのマニュアルの提案やBさんの竹酢液の品質管理の提案に表れていたように、働いた経験を踏まえて目の前の問題を改善したいと思いつつ、現役時代のようには働きたくないという「過去の経験への両義的な感覚」(21)を持ち、退職後という時間を過ごしている。
この経験は、プレ団塊世代の影響を強く受けている。この世代の男性の多くは、高度経済成長期の製造業が最も盛んな時期に地方から都市に移動して就職し、結婚し、現在に至るまでの人生の多くの時間を企業で働いて過ごしてきた。それゆえに、退職後の自由な時間を過ごす地縁やノウハウを持たない人が多い。
いつまでも過去をひきずってはいけない、前歴や学歴などを話してはいけないという指摘がなされる。「自分と相手の前歴を言わない、聞かない」というタブーの理山は「引退すればみな同じ。過去の栄光より現在のありのままを受けとめあおう」という。しかし、筆者が見る限り、過去の経験をやみくもに振りかざすメンバーはほとんどいない。そのような行為が嫌われることは、誰もがよく理解している。つねに栄光にしがみつくわけではないが、多くの退職者が過去の栄光を大切にしているのは、それ以外の参照枠を持ちにくいライフコースを経験してきたからであろう。
重要なのは、過去の経験とどのようにつきあうかという営みにある。退職後を過ごす際に重要なことは、過去を披漫したり覆い隠すのでもなく、自己や他者の経験を尊重しつつ、自己の経験を参照枠としてあらゆる活動に無理やりあてはめない、ゆるやかなつきあい方なのである。
社会格差の広がりと退職後のゆくえ
今後の退職後を考えるうえで、サークルSから得られた知見が二点ある。
第一に、後期高齢期における健康リスクを踏まえた、管理を強めすぎない実践についてである。第1節において示したように、退職後の時間と健康寿命は過去の世代に比べて延びている。しかし、亡くなる直前まで健康でいることは難しく、特に75歳以降の後期高齢期には健康低下のリスクは大きくなる。そのため、多少の健康リスクがあっても継続できるような活動の機会や人間関係を保持できるかが重要となる。サークルSにおける、管理を強めすぎない実践は、本人の身体状況によらない参加を可能にしている。長い退職後の時間において、同年代の人々とともに活動を継続するために、この実践は必須条件となる。
第二に、同世代の退職者とともに活動をする前提条件の変化についてである。これは、世代の違いによる就労経験の変化と、高齢期の社会格差の増大にかかわる。サークルSで活動する人々を結びつけてきたものは、「ものづくり」にたずさわってきたというプレ団塊の世代における共通経験であった。しかし、団塊の世代以降、退職者の就労経験も製造業中心から、金融やサービス業など第三次産業へと変わっている。そのため、これからの世代において「ものづくり」に変わる世代的共通経験をどのように把握し、多様な人々を結びつけるかが課題となる。
一九九〇年代以降、少子高齢化に伴い、高齢者のいる世帯間の経済格差が増大している。特に高齢者のみの世帯間の経済格差はそれより大きく、退職後を過ごす人々の経済格差は今後より広がることが予想される(24)。さらに、公的年金の受給年齢の引き上げや医療費負担の増加などが進むなかで、現役時代の資産形成などの影響をより大きく受けることが予想される。サークルSでは学歴は多様で、過去の年収のばらつきも大きかったと思われるが、年金生活によって格差は顕在化していない。しかし、世代内の経済格差が広がるなかで、活動をともにできる経済的、社会的基盤をどう形成するかが、団塊以降の世代の活動支援の課題となる。
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遠縁の従兄ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの思い出
『思想史論集』ハイエクより
私はその後一〇年間、ウィトゲンシュタインにふたたび会うことはなかった。しかし、私の母のまたいとこで、同年輩の近しい友人であった彼の最年長の姉をつうじて、ことあるごとに彼について聞いていた。「ミニングおばさん(Aunt Mining)」(彼女は自分の名前をnを一つ省いて綴ったが、それはヘルミーネ(Hermine)の短縮であった。英語の発音としては奇妙だろう)がよく来るので、私にとって親しい間柄となり、その後もずっと彼女は頻繁な訪問者であった。もっとも若い弟の問題は、明らかに彼女の心配の大部分を占めていた。彼女は弟を「変人」とみなす話のすべてを非難し、彼の言動についてしばしば多分に歪められた説明が流布するたびに強く擁護したので、私たちはそうしたことをすぐに知ったのである。公共の視線は彼に注がれず、彼の兄である隻腕のピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインが、よく知られた人物になった。
しかし私は、こうした親戚関係をつうじて、「諭理哲学論考」が一九二一年に出版されたときのおそらく最初の読者の一人となった。というのは、私たちの世代で哲学的な関心をもった人びとがみなそうであったように、私もウィトゲンシュタインと同様に、エルンスト・マッハに強く影響を受けていたので、その書も私にとって強く印象に残っていたのである。
次に私がウィトゲンシュタインに会ったのは、一九二八年の春で、経済学者のデニス・ロバートソンが、ケンブリッジ大学トリニティカレッジのフェロー専用の庭を抜ける散歩に私を連れだしてくれた時であった。ロバートソンは、小さな坂のうえで哲学者がデッキチェアで休んでいることに気づいて、突然コースを変えようとした。ロバートソンは明らかにウィトゲンシュタインを畏れているようで、彼を邪魔したくないと考えていたようだった。私はごく自然に彼のもとへと歩き、驚くべき親しさで挨拶をしたが、ロバートソンがすぐに私たちから立ちさったので、われわれは(ドイツ語で)自分たちの家や家族について愉しいがとくにどうということのない会話をかわした。ウィトゲンシュタインの関心が薄らぎ、話すことがなくなってきたことのサインを見てとって、ほどなくして彼のもとを去った。
私がはじめて、彼と何度も実際に会うようになったのは、それからほぼ一二年後のことであった。一九三九年に、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにいた私がケンブリッジに出向くと、彼がいくつかの野戦病院に働きにいっていることをまもなく知った。そして、その一年か二年後に、私は不意に彼に遭遇した。ジョン・メイナード・ケインズが、キングス・カレッジのギブス・ビルのなかに私の部屋をとってくれていたが、ほどなくして私はリチャード・ブレイスウェイトに、その時私があてがわれた部屋のちょうど階下の彼の部屋で開催される道徳科学クラブ(そんな名前だったと思う)の会合に参加しないかと誘われた。
幾回かの会合のうちのある会合の最後に、ウィトゲンシュタインがまったく突然に、劇的な現われ方をした。それはとくに興味を惹かない、私の記憶にない主題にかんするペーパーが取りあげられていたときであった。突然ウィトゲンシュタインは席からとびあがり、火かき棒をもって、最高に憤慨した様子で、物事が現実にはいかに単純で明らかであるかを、その道具で説明しはじめた。部屋の真ん中で気性の激しい男性が火かき棒を振りまわすのを見るのはたしかに警戒を要することであり、部屋の角に逃げて安全を確保したいとも思った。率直にいって、そのときの私の印象は、彼は気が違ってしまったというものだ。
しばらく後、おそらく一年か二年のちに、彼がふたたびケンブリッジにいると知って、私は勇気をふるって会いに行った。彼はその時、(ずっとそうだと思う)カレッジの外のある建物の、何階か上がった部屋に住んでいた。しばしば書かれることのある、鉄製のストーブのある地味な部屋で、その時彼は私のためにベッドルームからストーブの前に椅子をもってきてくれた。私たちは(政治的には意見が異なることはわかっていたので)哲学や政治以外のさまざまな話題について愉しく話しあった。そして彼は、私がケンブリッジであった数人の好奇心の深い人だちと違って、「仕事の話」になることを極力避けていることに好感を抱いているようにみえた。これらの訪問はまったく愉しいもので、彼はそれを繰りかえして欲しがっているように見えた、しかし、興味が湧かないことも時にはあったので、そのあとには二度か三度しか行っていない。
戦争が終わって、私がロンドンに戻ると、手紙による新しい方式の接触が、最初は食料小包を送れるようになったときに、次にウィーンの親族を訪ねることができるようになったときにはじまった。後者は、官僚的な組織とのあらゆる類いの煩雑なやりとりを含むもので、彼が正しく予想したように、その詳細な方法を見つけだすのは私のほうが早かった。こうしたことに取りくむ際に、彼は実際性の欠如と細部にわたる几帳面さというちくはぐな側面を見せたが、それは通常の生活慣行との接触をかなり不安定にしたことであろう。それでも、彼は、私の少し後に(私は一九四六年に最初に成功していた)、なんとかウィーンに行くことができた。その後も、一度か二度は再訪しているはずだと思う。
彼の最後のウィーン訪問から戻る途中に出会ったのが、私たちの最後の出会いであったと思う。彼は死の床にあった姉ミニングに会いに行ったのであったが、彼自身もすでに手遅れの病気に罹っていた(私はそれを知らなかった)。私はウィーンからスイスとフランスを経由してロンドンに帰る恒例の鉄道旅行をバーゼルで中断し、翌日の真夜中、そこで寝台車へと乗りこんだ。客室で同室になった乗客がすでに眠っているように見えたので、薄暗がりのなかで服を脱いだ。上段のベッドに登ろうと準備をしたとき、下段から乱れ髪の頭が突き出て、「やあ、ハイエク教授じゃないか!」とほとんど叫び声で呼びかけられた。私はそれがウィトゲンシュタインであることがわかってびっくり仰天したが、彼は私がその言葉を認めたことを確めると、ふたたび壁のほうに体の向きを変えてしまった。
次の朝、目覚めたときには彼はいなくなっていたが、行き先はおそらく食堂車だったろう。私が戻ってきたときには、推理小説に夢中になっていて、明らかに話したくなさそうだった。この状態は彼がそのペーパーバックを読み終えるまで続いた。それから彼は、彼を奥深いところまで引きこみ、長年育んだ幻想の破壊にまでいたった経験を含む、ウィーンにおけるロシア人の印象からはじまる活発な会話に私を引きこんだ。次第にわれわれは道徳哲学にかんする、より一般的な疑問へと導かれたが、ようやく盛りあがってきたちょうどその頃に、港(ブローニュだったと思う)へと到着した。ウィトゲンシュタインは議論を続けることを望んでいたようで、実際に船上でもそうしようといった。
しかし、私は彼を見つけることができなかった。そんなに深く会話に引きこまれてしまったことを後悔したのか、結局私も俗物の一人であることを発見したのか、どちらかわからない。ともかく、その後、二度と会えなかった。
私はその後一〇年間、ウィトゲンシュタインにふたたび会うことはなかった。しかし、私の母のまたいとこで、同年輩の近しい友人であった彼の最年長の姉をつうじて、ことあるごとに彼について聞いていた。「ミニングおばさん(Aunt Mining)」(彼女は自分の名前をnを一つ省いて綴ったが、それはヘルミーネ(Hermine)の短縮であった。英語の発音としては奇妙だろう)がよく来るので、私にとって親しい間柄となり、その後もずっと彼女は頻繁な訪問者であった。もっとも若い弟の問題は、明らかに彼女の心配の大部分を占めていた。彼女は弟を「変人」とみなす話のすべてを非難し、彼の言動についてしばしば多分に歪められた説明が流布するたびに強く擁護したので、私たちはそうしたことをすぐに知ったのである。公共の視線は彼に注がれず、彼の兄である隻腕のピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインが、よく知られた人物になった。
しかし私は、こうした親戚関係をつうじて、「諭理哲学論考」が一九二一年に出版されたときのおそらく最初の読者の一人となった。というのは、私たちの世代で哲学的な関心をもった人びとがみなそうであったように、私もウィトゲンシュタインと同様に、エルンスト・マッハに強く影響を受けていたので、その書も私にとって強く印象に残っていたのである。
次に私がウィトゲンシュタインに会ったのは、一九二八年の春で、経済学者のデニス・ロバートソンが、ケンブリッジ大学トリニティカレッジのフェロー専用の庭を抜ける散歩に私を連れだしてくれた時であった。ロバートソンは、小さな坂のうえで哲学者がデッキチェアで休んでいることに気づいて、突然コースを変えようとした。ロバートソンは明らかにウィトゲンシュタインを畏れているようで、彼を邪魔したくないと考えていたようだった。私はごく自然に彼のもとへと歩き、驚くべき親しさで挨拶をしたが、ロバートソンがすぐに私たちから立ちさったので、われわれは(ドイツ語で)自分たちの家や家族について愉しいがとくにどうということのない会話をかわした。ウィトゲンシュタインの関心が薄らぎ、話すことがなくなってきたことのサインを見てとって、ほどなくして彼のもとを去った。
私がはじめて、彼と何度も実際に会うようになったのは、それからほぼ一二年後のことであった。一九三九年に、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにいた私がケンブリッジに出向くと、彼がいくつかの野戦病院に働きにいっていることをまもなく知った。そして、その一年か二年後に、私は不意に彼に遭遇した。ジョン・メイナード・ケインズが、キングス・カレッジのギブス・ビルのなかに私の部屋をとってくれていたが、ほどなくして私はリチャード・ブレイスウェイトに、その時私があてがわれた部屋のちょうど階下の彼の部屋で開催される道徳科学クラブ(そんな名前だったと思う)の会合に参加しないかと誘われた。
幾回かの会合のうちのある会合の最後に、ウィトゲンシュタインがまったく突然に、劇的な現われ方をした。それはとくに興味を惹かない、私の記憶にない主題にかんするペーパーが取りあげられていたときであった。突然ウィトゲンシュタインは席からとびあがり、火かき棒をもって、最高に憤慨した様子で、物事が現実にはいかに単純で明らかであるかを、その道具で説明しはじめた。部屋の真ん中で気性の激しい男性が火かき棒を振りまわすのを見るのはたしかに警戒を要することであり、部屋の角に逃げて安全を確保したいとも思った。率直にいって、そのときの私の印象は、彼は気が違ってしまったというものだ。
しばらく後、おそらく一年か二年のちに、彼がふたたびケンブリッジにいると知って、私は勇気をふるって会いに行った。彼はその時、(ずっとそうだと思う)カレッジの外のある建物の、何階か上がった部屋に住んでいた。しばしば書かれることのある、鉄製のストーブのある地味な部屋で、その時彼は私のためにベッドルームからストーブの前に椅子をもってきてくれた。私たちは(政治的には意見が異なることはわかっていたので)哲学や政治以外のさまざまな話題について愉しく話しあった。そして彼は、私がケンブリッジであった数人の好奇心の深い人だちと違って、「仕事の話」になることを極力避けていることに好感を抱いているようにみえた。これらの訪問はまったく愉しいもので、彼はそれを繰りかえして欲しがっているように見えた、しかし、興味が湧かないことも時にはあったので、そのあとには二度か三度しか行っていない。
戦争が終わって、私がロンドンに戻ると、手紙による新しい方式の接触が、最初は食料小包を送れるようになったときに、次にウィーンの親族を訪ねることができるようになったときにはじまった。後者は、官僚的な組織とのあらゆる類いの煩雑なやりとりを含むもので、彼が正しく予想したように、その詳細な方法を見つけだすのは私のほうが早かった。こうしたことに取りくむ際に、彼は実際性の欠如と細部にわたる几帳面さというちくはぐな側面を見せたが、それは通常の生活慣行との接触をかなり不安定にしたことであろう。それでも、彼は、私の少し後に(私は一九四六年に最初に成功していた)、なんとかウィーンに行くことができた。その後も、一度か二度は再訪しているはずだと思う。
彼の最後のウィーン訪問から戻る途中に出会ったのが、私たちの最後の出会いであったと思う。彼は死の床にあった姉ミニングに会いに行ったのであったが、彼自身もすでに手遅れの病気に罹っていた(私はそれを知らなかった)。私はウィーンからスイスとフランスを経由してロンドンに帰る恒例の鉄道旅行をバーゼルで中断し、翌日の真夜中、そこで寝台車へと乗りこんだ。客室で同室になった乗客がすでに眠っているように見えたので、薄暗がりのなかで服を脱いだ。上段のベッドに登ろうと準備をしたとき、下段から乱れ髪の頭が突き出て、「やあ、ハイエク教授じゃないか!」とほとんど叫び声で呼びかけられた。私はそれがウィトゲンシュタインであることがわかってびっくり仰天したが、彼は私がその言葉を認めたことを確めると、ふたたび壁のほうに体の向きを変えてしまった。
次の朝、目覚めたときには彼はいなくなっていたが、行き先はおそらく食堂車だったろう。私が戻ってきたときには、推理小説に夢中になっていて、明らかに話したくなさそうだった。この状態は彼がそのペーパーバックを読み終えるまで続いた。それから彼は、彼を奥深いところまで引きこみ、長年育んだ幻想の破壊にまでいたった経験を含む、ウィーンにおけるロシア人の印象からはじまる活発な会話に私を引きこんだ。次第にわれわれは道徳哲学にかんする、より一般的な疑問へと導かれたが、ようやく盛りあがってきたちょうどその頃に、港(ブローニュだったと思う)へと到着した。ウィトゲンシュタインは議論を続けることを望んでいたようで、実際に船上でもそうしようといった。
しかし、私は彼を見つけることができなかった。そんなに深く会話に引きこまれてしまったことを後悔したのか、結局私も俗物の一人であることを発見したのか、どちらかわからない。ともかく、その後、二度と会えなかった。
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進化の仕組み
『高校生物』より 生物の進化と系統
・突然変異
突然変異には、DNA上の塩基配列が変化する遺伝子突然変異と染色体に変化が起こる染色体突然変異があります。
ここでは、染色体突然変異について説明します。染色体の構造異常には、染色体の一部分が失われる欠失、通常2つの染色体に切断が生じ、それぞれの断片が相互に別の染色体に結合する転座、同じ染色体の2か所で切断が生じ、その断片加通常の逆の向きに再結合した逆位、染色体の一部が切断言れて相同染色体に組み込まれる重複など、古まざまなパターンが存在します。
数的異常には、倍数性と異数性があります。ヒトにおける倍数性は、半数性の染色体23本をBセット以上もつ異常をいいます。倍数性を示す個体を倍数体といいます。
異数性は、ある特定の染色体の数が増減するような異常をいいます。異数性を示す個体を異数体といいます。
・遺伝子頻度の変化と進化
生物個体群が偶然性に左右されて、集団内に存在するすべての対立遺伝子が変化することを遺伝的浮動といいます。また、集団内に存在するすべての対立遺伝子を遺伝子プールといいます。ある遺伝子に突然変異が生じると、新たな対立遺伝子が生まれ、その集団の遺伝子構成に変化が生じます。
対象とする集団の遺伝子プールにおいて、ある対立遺伝子がその集団の中に含まれる割合を遺伝子頻度といいます。遺伝子頻度の異なる集団が形成されることも生物の進化ととらえられています。
ある生物種の個体群における対立遺伝子の遺伝子頻度は世代が移り変わっても変化しないという考え方をハーディ・ワインベルクの法則といい、集団遺伝学の基礎をなす遺伝の法則です。
・用不用説
生物自身の努力による前進的な進化観が基盤になっていて、よく用いる器官は発達し、そうでない器官は退化することで進化が起こったとする考え方を用不用説といい、ラマルクによって提唱古れました。
・自然選択
通常、遺伝子に突然変異が起きた個体は生存に不利に働くことがほとんどです。
しかし、まれに突然変異を起こした遺伝子が生き残り、もともとの遺伝子より生存に有利に働くことがあります。遺伝子が突然変異することによって生存や生殖に有利に働くことを自然選択といいます。自然選択を引き起こす要因を選択圧といいます。自然選択の結果、ある集団が環境に適応した形質をもつことを適応進化といいます。
突然変異がどのような仕組みによって集団内に広まるのかということを最初に明らかにしたのはダーウィンで、1859年に「種の起原」として出版しました。その序文で彼は「それぞれの生物種の個体は、生存可能な数以上に生まれてくるので、その結果、生存競争が頻繁に繰り返されることになる。複雑でレよしは変化する生活条件のもとでは、どんなにわずかであってもその個体自身に有利な変化があると、その個体は生き残る可能性が大きくなるであろう。いねば、自然に選択されるのである。遺伝の原理によって、その選択された変異型は子孫に受け継がれ、集団の中へ広がっていくであろう」と述べています。この考えを自然選択説といいます。
自然選択は、互いが選択圧となって起こる共進化、生態的地位に適応して起こる適応放散、似たような形質が進化する収束進化、一方向的な選択圧が一方向への進化をもたらす定向的進化、異性の選り好みという選択圧によって進化が起こる性選択、擬態など多様な進化をもたらします。
自然選択が実際の生物集団に急速に働いた例として工業暗化かあります。イギリスの工業地帯に生息するオオシモフリエダシャクというガには、羽が黒色をした暗色型と白色をした明色型があります。19世紀の後半、イギリスで産業革命が起き、数多くの工場ができ、そこからの排煙が町の森林に降り落ちたため、木が黒っぽくなり、明色型が目立つようになって鳥などに捕食古れて、その頻度が減少しました。それに代わり、突然変異型であった暗色型は、その体の色が木の黒古と相まって保護色となり、捕食されにくくなったために、その頻度が増加しました。
・分子進化
DNAは遺伝情報を担っているのみならず、進化の情報も併せもっています。そのことを基礎にしてDNA、RNA、タンパク質といった分子から生物の進化を研究する分野を分子進化といいます。
・中立説
1968年に国立遺伝学研究所の木村資生は、分子進化に関与する突然変異の多くは自然選択に対して有利でも不利でもなく、ほとんど無関係で、偶然に発生した中立な突然変異遺伝子が集団内へ固定するという中立説を提唱しました。このような進化を中立進化といいます。
現在では、自然選択説と中立説の間で折り合いがつき、次のように考えられています。有害な変異は自然選択の力で集団から排除古れます。 DNAに蓄積した大部分の変異は中立な変異で、それは偶然に集団に広まった変異です。残りの有利な変化が、目で見てそれとわかる形態レベルの進化に寄与するのです。このわずかな有利に働く変異に自然選択が関与するというものです。
・分子時計
同一の分子種においては、アミノ酸の変化する速度が一定であることから、アミノ酸の置換数をもとに、生物の進化上での分岐年代を推定できます。これを分子時計といいます。
ヘモグロビンのa鎖のアミノ酸配列をいろいろな生物種間で比較した結果、生物種間でのアミノ酸の置換数と生物の分岐年代の間には直線関係があることがわかりました。
・種分化
ある個体群が同種の個体群から隔てられて交配できなくなることを隔離といいます。 1つの生物集団が地殻変などにより、いくつかの集団に分かれ、それぞれが異なる環境で生活するようになることを地理的隔離といいます。2つの集団の間で、互いが変化して、もはや交配しても子供ができなくなるような状態になることを生殖的隔離といいます。2つの集団が生殖的隔離されることを種分化といいます。
・系統樹
生物相互の類縁関係、派生関係、進化の歴史などを樹木状に模式化して描いたものを系統樹といいます。系統樹は、1866年にドイツのヘッケルによって最初に描かれました。
DNAやRNAの塩基配列やアミノ酸配列に基づいて描いた系統樹を分子系統樹といいます。この分子系統樹は、形態的に比較できない生物間であっても、量的に進化関係を明らかにすることができます。
・突然変異
突然変異には、DNA上の塩基配列が変化する遺伝子突然変異と染色体に変化が起こる染色体突然変異があります。
ここでは、染色体突然変異について説明します。染色体の構造異常には、染色体の一部分が失われる欠失、通常2つの染色体に切断が生じ、それぞれの断片が相互に別の染色体に結合する転座、同じ染色体の2か所で切断が生じ、その断片加通常の逆の向きに再結合した逆位、染色体の一部が切断言れて相同染色体に組み込まれる重複など、古まざまなパターンが存在します。
数的異常には、倍数性と異数性があります。ヒトにおける倍数性は、半数性の染色体23本をBセット以上もつ異常をいいます。倍数性を示す個体を倍数体といいます。
異数性は、ある特定の染色体の数が増減するような異常をいいます。異数性を示す個体を異数体といいます。
・遺伝子頻度の変化と進化
生物個体群が偶然性に左右されて、集団内に存在するすべての対立遺伝子が変化することを遺伝的浮動といいます。また、集団内に存在するすべての対立遺伝子を遺伝子プールといいます。ある遺伝子に突然変異が生じると、新たな対立遺伝子が生まれ、その集団の遺伝子構成に変化が生じます。
対象とする集団の遺伝子プールにおいて、ある対立遺伝子がその集団の中に含まれる割合を遺伝子頻度といいます。遺伝子頻度の異なる集団が形成されることも生物の進化ととらえられています。
ある生物種の個体群における対立遺伝子の遺伝子頻度は世代が移り変わっても変化しないという考え方をハーディ・ワインベルクの法則といい、集団遺伝学の基礎をなす遺伝の法則です。
・用不用説
生物自身の努力による前進的な進化観が基盤になっていて、よく用いる器官は発達し、そうでない器官は退化することで進化が起こったとする考え方を用不用説といい、ラマルクによって提唱古れました。
・自然選択
通常、遺伝子に突然変異が起きた個体は生存に不利に働くことがほとんどです。
しかし、まれに突然変異を起こした遺伝子が生き残り、もともとの遺伝子より生存に有利に働くことがあります。遺伝子が突然変異することによって生存や生殖に有利に働くことを自然選択といいます。自然選択を引き起こす要因を選択圧といいます。自然選択の結果、ある集団が環境に適応した形質をもつことを適応進化といいます。
突然変異がどのような仕組みによって集団内に広まるのかということを最初に明らかにしたのはダーウィンで、1859年に「種の起原」として出版しました。その序文で彼は「それぞれの生物種の個体は、生存可能な数以上に生まれてくるので、その結果、生存競争が頻繁に繰り返されることになる。複雑でレよしは変化する生活条件のもとでは、どんなにわずかであってもその個体自身に有利な変化があると、その個体は生き残る可能性が大きくなるであろう。いねば、自然に選択されるのである。遺伝の原理によって、その選択された変異型は子孫に受け継がれ、集団の中へ広がっていくであろう」と述べています。この考えを自然選択説といいます。
自然選択は、互いが選択圧となって起こる共進化、生態的地位に適応して起こる適応放散、似たような形質が進化する収束進化、一方向的な選択圧が一方向への進化をもたらす定向的進化、異性の選り好みという選択圧によって進化が起こる性選択、擬態など多様な進化をもたらします。
自然選択が実際の生物集団に急速に働いた例として工業暗化かあります。イギリスの工業地帯に生息するオオシモフリエダシャクというガには、羽が黒色をした暗色型と白色をした明色型があります。19世紀の後半、イギリスで産業革命が起き、数多くの工場ができ、そこからの排煙が町の森林に降り落ちたため、木が黒っぽくなり、明色型が目立つようになって鳥などに捕食古れて、その頻度が減少しました。それに代わり、突然変異型であった暗色型は、その体の色が木の黒古と相まって保護色となり、捕食されにくくなったために、その頻度が増加しました。
・分子進化
DNAは遺伝情報を担っているのみならず、進化の情報も併せもっています。そのことを基礎にしてDNA、RNA、タンパク質といった分子から生物の進化を研究する分野を分子進化といいます。
・中立説
1968年に国立遺伝学研究所の木村資生は、分子進化に関与する突然変異の多くは自然選択に対して有利でも不利でもなく、ほとんど無関係で、偶然に発生した中立な突然変異遺伝子が集団内へ固定するという中立説を提唱しました。このような進化を中立進化といいます。
現在では、自然選択説と中立説の間で折り合いがつき、次のように考えられています。有害な変異は自然選択の力で集団から排除古れます。 DNAに蓄積した大部分の変異は中立な変異で、それは偶然に集団に広まった変異です。残りの有利な変化が、目で見てそれとわかる形態レベルの進化に寄与するのです。このわずかな有利に働く変異に自然選択が関与するというものです。
・分子時計
同一の分子種においては、アミノ酸の変化する速度が一定であることから、アミノ酸の置換数をもとに、生物の進化上での分岐年代を推定できます。これを分子時計といいます。
ヘモグロビンのa鎖のアミノ酸配列をいろいろな生物種間で比較した結果、生物種間でのアミノ酸の置換数と生物の分岐年代の間には直線関係があることがわかりました。
・種分化
ある個体群が同種の個体群から隔てられて交配できなくなることを隔離といいます。 1つの生物集団が地殻変などにより、いくつかの集団に分かれ、それぞれが異なる環境で生活するようになることを地理的隔離といいます。2つの集団の間で、互いが変化して、もはや交配しても子供ができなくなるような状態になることを生殖的隔離といいます。2つの集団が生殖的隔離されることを種分化といいます。
・系統樹
生物相互の類縁関係、派生関係、進化の歴史などを樹木状に模式化して描いたものを系統樹といいます。系統樹は、1866年にドイツのヘッケルによって最初に描かれました。
DNAやRNAの塩基配列やアミノ酸配列に基づいて描いた系統樹を分子系統樹といいます。この分子系統樹は、形態的に比較できない生物間であっても、量的に進化関係を明らかにすることができます。
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