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中国を揺るがせた激動の一年であった一九七六年

『70年代と80年代』より

毛沢東、周恩来の死と小平の復活 第一次天安門事件 1976年4月5日

中国を揺るがせた激動の一年であった一九七六年

 一九七六年一月、卓越した外交家、調整者と言われた周恩来が逝去した。四月、周総理を追悼する清明節をきっかけに「第一次天安門事件」が勃発した。それを口実に小平が再び全ての職務を失い失脚した。その後、小平批判運動が全国に吹き荒れる中で、七月初めにもう一人の「革命の元勲」朱徳将軍がこの世を去った。同月末には二十四万人もの死者を出し、都市全体が壊滅したといわれる「唐山大地震」が起こった。そして九月、「中国革命、建国の父」と言われた毛沢束が逝去した。

 この時点では、小平を政権から追い落とした功労者で、毛沢東の思想的追従者といえる江青、張春橋、姚文元、王洪文の「四人組」が次期権力の中枢を占めるかと思われた。が、毛の死後一ヵ月後に、彼ら一派は華国鋒を中心とする「反四人組連合」によって、一網打尽に逮捕・監禁され、その後再び陽の目を見ることなくこの世を去った。「四人組」の失脚は直ちに小平の再復活かと思われたが、さしたる実績もないままに毛沢東の庇護のもとで中央に登ってきた華国鋒が、党主席、中央軍事委員会主席、国務院総理の三権の長を独占し、の復活をかたくなに反対し続けた。七六年は「辰の年」(何か大きな変動のある年)と言われていたが、まさに中国にとって激震の一年であった。

 三権を独占した華国鋒は、毛沢東の威信に依拠しながら自らの権力基盤の強化に取り組んだ。その最大のポイントは「郵小平復活の阻止」であった。が復活することはとりもなおさず自分の地位が脅かされるからであった。しかし党内に高まる郵小平待望論と、小平の巧みな戦術に乗せられ、結局七七年七月十六日に開かれた党の第十期中央委員会第三回全体会議で失脚前の全職務に復帰することが承認された。一例を紹介すると、は二度にわたって華国鋒と党中央に手紙を書き、「自分はもう老齢の身(当時七十二歳)である。これからは華主席と党中央のために残された人生を捧げたい」「華主席をトップとする党中央万歳!」などと記している。華はそれでも警戒を続けたが、これらの手紙を党内の幹部に回覧し、公に示すことでの復活を受け入れたといわれる。したたかな小平は、復活後直ちに毛沢東思想を掲げながら、後述するように毛沢束信奉者たちの排斥を図る取り組みを開y始し、大きな政治的混乱を起こすことなく、四人組グループ、華国鋒グループを権力の座から一掃することに成功したのであった。七六年から七七年にかけての中国は、周恩来、朱徳、毛沢東の死といった巨人の相次ぐ他界、四人組の失脚、そして那小平の復活と華国鋒の孤立化など、政治局面においては文字どおり「激動の嵐」といった感じであった。

 しかし基本的な方針や政策が大きく転換したかと言えば、必ずしもそうではない。毛沢束時代にモデルとされた「工業の大慶」「農業の大案」に学ぶ全国会議は七六年秋、七七年春に開かれ、五〇年代後半にできた農村の人民公社制度も維持されたままであった。文化大革命も「毛主席の偉大な功績」として礼賛され続けていた。したがって当時の実感から言えば、積極的に市場経済を導入し、近代化に邁進する今日の中国の大転換に結びつく源流を直接にこの時期に求めるのはやや誇張したとらえ方であろう。本格的な転換にはまだ越えねばならない難関があったのである。

政治中心の「革命路線」から経済重視の「改革開放路線」へ

 小平の基本的な国内戦略を見るには、七四年から再失脚する七六年四月までのの発言・行動を確認しておく必要がある。七五年三月、彼はある重要会議の講話の中で、「いま全党で大いに重視せねばならぬ大局がある。……第一段階では八○年までに独立した比較的整った工業体系と国民経済体系をうちたてる。第二段階では、二十世紀末までにわが国を近代的農業、近代的工業、近代的国防、近代的科学技術を備えた社会主義の強国に築き上げる。……これが大局である」(『小平文選一九七五-八二年』)と力説している。

 しかもこの時期、郵は既に党・国務院・軍の全面的な整頓の必要性を説いただけでなく、経済回復のために海外からの資金・技術導入の必要性までも主張していたのである。毛がなお存命中で自身が文革の最大の被害者であったことを考慮すれば、あまりにも大胆なまでに「脱文革」的であった。これらはやがて「四人組」による小平批判・攻撃、再失脚の絶好の口実となった。が、七七年の再復活直後から、はまさに失脚前の主張どおり大胆に邁進し始めたのである。毛の後継者を自認し、党・軍・行政のトップ華国鋒も経済に関しては周恩来の「四つの近代化」を支持し、経済回復に力を入れていたのでしばらくは那との並走が成り立っていた。

 しかし、の策略はまず経済路線で静かに、徐々に華国鋒グループを包囲していくことから始まっていた。華国鋒は経済の回復・発展をあまりにも急ぎ過ぎたために、中国自身の経済水準を無視して西側から大量の先進的なプラントを購入した。五〇年代後半の毛の経済政策「大躍進」の失敗をもじった、「洋躍進」と呼ばれるものであった。そのため僅かばかりの外貨はすぐに底をついたうえに、石油など中国白身の貴重な資源を担保にとられるようになった。「文革派」でもある華の周辺には実務的な経済テクノクラートはいなかった。は五〇年代からの毛の経済政策の批判者でもある大物経済テクノクラート陳雲と組んで「洋躍進」批判を展開し、まずは「経済調整政策」に転換させた。

 同時に華国鋒指導部の幾人かを辞任させ、そこに胡耀邦、趙紫陽、万里、姚依林ら小平や陳雲の息のかかった人材を配する。さらに七八年には郵小平を失脚に追い込んだ七六年四月の「第一次天安門事件」の名誉回復を実現し、「四人組」だけでなく華体制を支える幾人かの中央指導者も関与しているとして失脚に追い込んだ。このように、華国鋒を支える指導者たちを徐々に華国鋒から引き離すことによって大きな混乱を導くことなく華体制を弱体化させることに成功したのである。

 小平の「改革開放路線」への大転換は、よく言われる七八年十二月の党十一期三中全会であった。しかし実質的な大転換はこの会議前に十一月十日から十二月十五日にかけて開かれた党中央工作会議という特別の場であった。華国鋒は依然として「毛沢東の後継者」として毛路線の継承を訴えたが、小平派、陳雲派、文革からの復活老幹部らの見事な連携によって「党の工作重点の移行」を主要議題にすることに成功した。興味深いことにこのプロセスでは、小平はほとんど表だった動きを見せていない。しかし同工作会議の閉幕で総括報告を行ったのはもちろん郵その人であった。その講話は「思想を開放し、実事求是の態度をとり、一致団結して前に進む姿勢を取ろう」と題するものであり、中国の再生に向けて大胆な呼びかけを行っている。それを踏まえて党十一期三中全会は、「大規模で嵐のような大衆的な階級闘争の時代は終わった」、「重点工作を経済の近代化に移行する」と高らかに宣言した。華国鋒はこの時点でもなお党主席のポストは維持していたが、中央軍事委員会主席は小平に、国務院総理は趙紫陽に交代させられていた。そして八一年には党主席のポストも胡耀邦に奪われ、完全に実権を失った。

 八二年の党第十二回全国代表大会は文字どおり郵小平時代の幕開けであった。しかし新設された党の最高ポスト・総書記には郵は就かず、のもっとも信頼の厚かった胡耀邦が就任した。国務院総理は趙紫陽が、復活した国家主席には李先念が就き、は唯一中央軍事委員会主席のポストを握るのみであった。はおそらく、政治安定のために軍を掌握しておくことは必要である、しかし既に七十八歳の高齢に達した自らではなく若い胡耀邦や趙紫陽を前面に立たせ、自分は後ろで支える役を担うことで、長期にわたる近代化路線を固めていこうとしたのであった。まさに「小平時代」の始まりと同時に「ポスト小平時代の模索」の始まりなのであった。その後の歴史は、それ自体が試行錯誤した過程であったことを示している。とりわけ胡耀邦、趙紫陽の失脚は自ら「決断」したとはいえ、の予期せぬ事態であった。が、の敷いた「改革開放路線」はむろん深刻な課題を生みながらも、疑いなく「大輪」を咲かせていったのであった。
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