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宅配便のラスト・ワンマイル

未唯へ

 朝の音声入力をやっています。

 豊田市中央図書館の棚はは上3段しか見えない。

世界史におけるイスラム

 世界歴史と言っても、実際はヨーロッパ史だが、イスラム教が今まで介在してなかった。十字軍にしても、地中海文化にしても、ヨーロッパだけのことを扱っていた。

 スペインがアフリカを超えて、アジアに進出しなければならなかったのには、オスマントルコの影響が強かった。1492年のコロンブスのアメリカとイスラムのヨーロッパから抜け出しと同じ時期にオスマントルコがイスタンブール占領があった。この三つは大いに絡んでいる。イスラム教があることが大きな障害になった。戦える相手ではなかった。

 コロンブスがアメリカだけでなく、ヨーロッパが中心でないことを「発見」した。世界の意識です。世界が広がると同時に、ハイアラキーが存在しないことも見つけ出した。

日本に総意はあるのか

 太平洋戦争の時も国としての総意が出来ていなかった。「しかたなかった」で済ましてしまった。負けたら、どうなるかのシミュレーションをしていたのは、天皇だけだったみたいです。

 国として、あるとしたら、アジアを味方にすることです。アジア経済圏を作り出すこと。その総合力でアメリカをアメリカ大陸の範囲に閉じ込めることです。それまでは、中国を味方にして、アメリカに対抗していく。中国市場をアメリカに一時的に預ける方法もある。満州鉄道をめぐって、そのシナリオもかなり現実的であった。

宅配便のラスト・ワンマイル

 宅配便のラスト・ワンマイルをコミュニティで請け負えば、コミュニティは潤います。役員を決めて、回覧板を回すのと同じことです。また、コンビニをコミュニティの傘下にしてしまえば、地域でのビジネスが可能になります。
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ジャンヌ・ダルク、フランスを救う

『ナポレオンの直観』より ⇒ パートナーはジャンヌ・ダルクに例えることがしばしば

 私の故郷では、ジャネットと呼ばれていましたが、フランスに来てからは、ジャンヌと呼ばれています。私はドンレミの町に生まれました。私の父は、ジャック・ダルクと呼ばれ、母はイザペルです。

 ジャンヌ・ダルク、または英語名の「ジョーン・オブ・アーク」が、魔術を行使した嫌疑をかけられた一四三一年の異端審問裁判の冒頭陳述は、そのように始まる。裁判所は、彼女に有罪の判決を下し、火あぶりの刑に処した。二五年後の一四五六年、別の裁判によって、彼女の嫌疑は晴らされた。さらに数世紀後を経た一九二〇年、カトリック教会により列聖され聖人となった。ジャンヌ・ダルクは、フランスやその兵士たちの守護神であり、歴史上で最も知られた英雄の一人である。

 それでも、謎は残る。彼女はどのように成功したのだろうか。彼女はわずか一八歳の小作農の娘であったにもかかわらず、一年足らずの間にフランスをイギリスの侵略から救った。彼女はヨーロッパ全土のさまざまな国家間における長い戦争の歴史上でも、最も長い百年戦争の形勢を逆転させたのだ。ヨーロッパの国同士の戦いは、第二次世界大戦の終わる▽几四五年まで続いた。六世紀もの間の幾十もの戦争を経ても、ジャンヌーダルクは、その間に存在した何百人という軍の指揮官の中でも際立っている。

 ジャンヌはどのようにそれを成し遂げたのだろうか。当時はどちらの側でも、それは魔法だと考えられた。彼女の敵方であるイギリスは、それを黒魔術の魔女と呼び、彼女の味方であるフランスでは、それを良き魔法つまり聖なる奇跡と呼んだ。彼女を有罪に処したのはイギリスの裁判所であり、彼女の名誉を回復したのはフランスの裁判所だった。ジャンヌ自身は、神からの声が、彼女が何をなすべきかを伝えたと主張した。つまり、ジャンヌ自身もまたそれを魔法と信じていた。

 それは、ナポレオンのひらめきという魔法だった。振り返ってみれば、過去の例、平常心、「直観」と決断というすべての要素をそこに見ることができる。実際にそれが起きる時、どのように説明してよいのか誰もわからない。幸運とかチャンスとか運と捉える人もいる。中世においては、人々はそれを神のわざと呼んだ。百年戦争に苦闘するフランス人にとっては、神のわざがジャンヌだった。

 これがジャンヌが聞いた神の声の説明である。

  私が一三歳だった時、私の行動を助けてくださるとの神様からの声を聞きました。最初はとても恐れおののきました。私がフランスに来ると、この声をたびたび聞くようになりました。声は神様から伝えられ、三度目の声を聞いた時に、それが天使の声であることがわかりました。この声はいつも私をやさしく守ってくださり、また明確に理解することができました。聖ミカエルが私のところに来られた時、聖カトリーヌと聖マルグリットも私のところに来られるので、その指示に従うようにと言われました。

  陳述を通じて、ジャンヌは神からの声に加えて三人の天使という四つの声について、何度も言及している。なぜ、聖ミカエル、聖カトリーヌと聖マルグリットという三人だったのだろうか。

  中世の油絵や絵画では、鎧に身を包んだ聖ミカエルは、悪魔と戦う様子がよく描かれている。ジャンヌが最初に声を聞いたという一四二五年には、聖ミカエル要塞でイギリスの攻撃を撃退するという百年戦争の中で、フランスが数少ない勝利を収めている。聖カトリーヌと聖マルグリットについては、ジャンヌの地元の教会にある彫像の中にいた。アンティオキアの聖マルグリットは、ジャンヌのように羊の世話をし、アレキサンドリアの聖カトリーヌは高貴な家庭に生まれた。二人とも、ローマの異教徒に服従することを拒否したために、処刑されている。

  つまりジャンヌの天使たちは、偉大なる兵士であり、外国人の支配者の手の内で亡くなった二人の乙女だった。そして、一四二五年聖ミカエルは、自分の名前がつけられた町を救ったことになる。中世の時代においては、聖人の逸話は人々にインスピレーションをもたらすものだった。自分が模倣したい聖人を選んで祈ることによって、その精神が自分の中に宿るようになった。さまざまな聖人が、さまざまなインスピレーションを与えた。ジャンヌは聖ミカエルのように兵士になることを決めた。そのためには、聖カトリーヌと聖マルグリットのように処女でなくてはならない。そうしないと兵士たちが、彼女の指揮に従う代わりに、性の対象とみなすかもしれない。たとえそうでなくても、聖カトリーヌと聖マルグリットのように、外国人の支配者の手に落ちて死ぬという危険も理解していた。

  一四二八年、ジャンヌが一六歳の時、イギリス軍はオルレアンを攻撃した。町はロアール川にかかる主要な橋を守っていた。もしオルレアンが陥落してしまうと、フランスの運命は決まる。

  その声は、私にフランスに行って、オルレアンの包囲を解くように言いました。そして、フランス国王の助けに参じるようにと。その声はまた、私と共に戦う兵士を与えてくれるから、ヴォークルール要塞の守備隊長であるロベール・ボードリクールに会いに行くようにとも告げました。ロペールは二度まで私を拒否してはねつけましたが、三度目に私を受け入れて兵士を与えてくれました。



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プラトンの哲学 宇宙への問い

『プラトンの哲学』より 宇宙の想像力 『ティマイオス』あらすじ

私たちが住むこの宇宙は、一体どうなっているのか、その問いに現代の宇宙物理学は、かなり詳細な説明を与えてくれます。一三七億年ほど前に、宇宙は突然の爆発によって生まれ、以後急速に膨張しながら現在のようになってきた。この爆発が「ビッグバン」です。これは理論や観測から積み上げられた仮説ですが、宇宙をめぐる諸現象がそこから説明されています。

このような自然科学の知見こそ、プラトンさん、あなたが生きた時代、あなたが考えた理論から現代までに、もっとも大きな発展を遂げた領域の一つでしょう。現代人は、こと科学理論に関しては、古代哲学は歴史的、あるいは好事家的関心の対象でしかないと考えています。初期のギリシア哲学では、宇宙論を中心とする「自然」の考察が中心でした。哲学発祥の地ミレトスやその周辺では、自然学者たちが宇宙のあり方や変化をさかんに論じていました。宇宙は無限か、有限か。大地は平面で宇宙の下にあるのか、それとも球形で宇宙の中心に位置するのか。大地の形状はどうなっているのか。宇宙は一つだけなのか、それとも無数にあるのか。こういった問いに多様な回答が提示されたのです。

近代まで哲学は自然科学と分かち難く結びついており、科学者と哲学者が明瞭に分化したのは現代になってからです。自然科学がきわめて専門化され、哲学者はその最先端の知見に付いていくことが困難になったためです。哲学は自然科学から撤退し、かつての自然学や宇宙論は物理学が担うようになっています。現代を生きる私自身も、科学の最前線の知識をきちんと持ってはいません。科学と哲学、両者は二つの独立の学問となり、それぞれがさらに細分化して専門研究が進んでいるのが現状です。

「プラトン」という名は、カルキディウス(四世紀頃)がラテン語に訳した『ティマイオス』をつうじて、中世では宇宙論者として知られていました。制作神による宇宙制作の理論です。自由奔放な想像で、現代には通用しないと思われがちですが、シュレディンガー(一八八七-一九六一)やハイゼンべルク(一九〇一-一九七六)ら、現代の物理学者たちはプラトン対話篇の愛読者で、そこから多くのヒントを得たと言われています。量子力学の理論を打ち立てた(イゼンベルクは、青年時代に屋根の上で『ティマイオス』を読みながら、物質の究極はプラトンが考えた幾何学図形のようなイデア的なものか、それとも数式なのか思索していたと、後年、『部分と全体』という著書で語っています。『ティマイオス』の魅力は、始まりにどこまで遡れるか、その想像力にあります。言葉と理性による挑戦です。

それ以前にも大きな影響がありました。ルネサンスに復権したプラトンの自然学は、コペルニクス、ケブラー、ニュートンら近代の理論家たちに、自然法則を数学的に捉え、自然界を解明する新たな宇宙論を示しました。なかでもケブラー(一五七一―一六三〇)は『ティマイオス』の幾何学的宇宙理論に刺激を受け、「プラトン立体」とも呼ばれる五種の正多面体が、六つの惑星の軌道に対応すると想定したほどです。近代科学はプラトン主義のもとで進歩しました。

万物は斉一的な秩序で成り立ち、原因から合理的に説明される。その洞察を打ち立てた古代ギリシア哲学が西洋科学を生みました。素朴には、異なった場所や時や状況で異なった現象が起る、そんな風に考えても不思議はありません。しかし、時間や空間をつうじて万物が従う法則や理論があり、その斉一性の根拠が数、つまり、算術や幾何学というイデア的秩序にあるとする見方は、すぐれてピュタゴラス派的、プラトン的でし。た。自然法則の数学性、つまり、あらゆる自然現象が理性、計算で説明されるというこの考え方は、現代では当たり前になっています。理論が真理であり、現象や実験はその理論との関係で説明される、そういう科学の見方は、ギリシア人の自然観の子孫なのです。その原点が『ティマイオス』です。
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古代ローマの本屋と図書館

『古代ローマの生活』より 教育と学問

教育

 共和政期の伝統的なローマの教育観は、親が子供の教育に責任を持つというものでした。読み書き計算の基本は父親自らか息子や娘に教えていました。水泳や武器の扱い方などは父親か息子に、機織りや料理などは母親が娘に、自ら手本を見せなから覚えさせていたようです。

 名門の元老院家系の息子は一六歳くらいになると、父親の友人の政治家などのお供をつとめ、一七歳くらいで見習い将校として従軍していたので、その前からあらかじめ父親は、息子を元老院の議場や広場の演壇などに見学に連れていって、政治生活の一端に触れさせていました。こうした伝統的な教育方針は帝政期においても、父祖の遺風を重んじるいくつかの家でおこなわれ続けていたようです。

 征服や通商を通じて、ギリシア世界とょり頻繁に接するようになった紀元前三世紀ころから、ローマでも教育を生業とする教師の存在か徐々に見られるようになり、七歳くらいから一一歳くらいの子供たちは、それまで父親か教えていた読み書き計算といった学習の基本を、初等教師のもとで学ぶようになります。むろん、皆がみな初等教師のもとに通っていたわけではありません。ローマには義務教育という考え方がなかったからです。

 政治エリートの子弟には一流の学者が家庭教師としてつけられることもありました。たとえばグラックス兄弟の孟母コルネリアは、世界中から一流の教師を集めて、この兄弟にあてがったそうです。また、今でいう「学校」のような教育目的のための施設はなかったので、初等教師は、自分の私室で、あるいは店舗の軒先や公共建造物の空きスペースを借り、そこに何人かの生徒を集めて、朝早くから正午ころまで授業をおこなっていました。寺子屋に近かったと考えてよいでしょう。

 初等教師の多くは、東方のギリシア文化圏出身の奴隷や被解放自由人だったので、ローマ社会において教師はながらく低い地位にとどめおかれていました。授業料も安かったようで、なかには代書屋の副業で収入を補う教師もいたようです。

 前二世紀の末ころから、ギリシア語とラテン語で書かれた文学作品(主に韻文)をテキストにして文法や文学を教える中等教師(文法教師)や、演説をより説得的なものにするための技術(修辞学)を教える高等教師(修辞学教師)も現れるようになります。

 帝政期になると、政策決定は皇帝の手に集中するようになり、元老院や広場での演説の重要性は低下していきましたが、それでも修辞学は教育の要と見なされ、法廷弁論家のような職業に進む男子にとっては不可欠の学問だったので、帝政期には主要な都市で、修辞学教師の公設ポストが設けられるようになりました。ちなみに、国から給料をもらって口ーマで修辞学を教えた最初の教師は、一世紀後半のクィンティリアヌスだったと伝えられています。

 元老院議員の息子のような政治エリートたちは、ローマで修辞学を修めたのちに、さらにギリシアなどへ留学することもありました。あのキケロは自らも、そしてその息子もまたギリシアに留学しています。父親は才能も勉学意欲もある留学生でしたか、息子の小キケロのほうは、悪友との遊興で父親の仕送りをすぐに使い果たして、金の無心を繰り返していました。どうやら、こういうバカ息子はいつの時代にもいたようです。

本屋と図書館

 本屋と図書館の数は、その社会の知的レベルを計る一つのバロメーターといえますか、では、古代ローマはどのような情況にあったのでしょうか。

 共和政末期から元首政期にかけてのローマの街には、ローマ広場に接するあたりにアルギレトゥムという地域があって、ここに本屋と靴屋が多く集まっていたそうです。当時の本は、現在の紙の原型であるパピルスや、牛や羊などの皮をなめした革紙に文字を筆写して作っていました。本屋も、靴屋と同様、革を扱っていたので、同じ地域に店を構えるようになったのでしょう。

 大手の出版業者としては、キケロの著作を扱っていたアッティクス、ホラティウスの著作を扱っていたソシウス兄弟、マルティアリスとクィンティリアヌスの著作を扱っていたトリュフォンなどの名前か知られています。ちなみに、現在のような本の形(紙を何枚も重ねて綴じた形)は一世紀ころから見られるようになりますが、それか主流となるのは四世紀以降のことで、それまでは、巻物の形で販売されていました。

 伝えによれば、ローマ最初の公立図書館は、アウグストゥス帝がガイウス=アシニウス=ポッリオに命じて、「自由のアトリウム」という場所に造らせたものだそうです。アウグストゥス帝はこの他にも二つの図書館を、マルスの野とパラティヌス丘に造らせました。のちの皇帝たちもいくつかの図書館を建設しましたか、なかでも有名なのか、トラヤヌス帝がローマ市に建設したウルピウス図書館で、図書閲覧室はそれぞれ一四〇坪ほどの広さかあったそうです。      ノJ

 皇帝だけでなく、裕福な元老院議員などか自分にゆかりのある地に図書館を寄贈したり、図書館の維持費を支払ったりしている事例も存在します。二世紀はじめの元老院議員であった小プリニウスは一〇○万セステルティウスを故郷コムム(現コモ)の図書館に寄付しています。

 一〇〇万セステルティウスといえぼ、小プリニウスの年収分くらいにあなり、バカにできる額ではありません。図書館には、本を管理する司書や本の内容を筆写する書記など、多くの職員が働いていたので、図書の購入費に加えて人件費などもかかり、相当な維持費が必要だったのでしょう。

 本を収集する習慣がいつごろローマに定着したかは定かではありませんが、史料で確認できる限りでは、やはりローマの東方進出のころからのようです。

 前二世紀半ばに戦われた第三回マケドニア戦争後に、ローマの将軍であったルキウス=アエミリウス=パウッルスは、マケドニア王ペルセウスの蔵書を入手し、ローマで個人の図書館を造ったと伝えられています。また、前一世紀半ばの第三回ミトリダテス戦争のときに、ローマの将軍ルキウス=リキュウス=ルクッルスは、ポントス王の蔵書を戦利品として得て、彼個人の所有としました。ギリシアをはじめとした東方の先進文化にふれて、ローマ人の蔵書熱に火がついたようです。こうして共和政末期以降、学芸を重んじる元老院議員や金持ちたちのあいだでは、屋敷に個人用の図書室を設けるのが二般的となっていきました。

 七九年のウェスウィウス山の大噴火で埋没した都市ヘルクラネウムの近郊に、パピルス荘と呼ばれる個人の別荘趾が残っていますか、そこからは、木製の本棚から炭化した一八○三巻ものパピルスの巻物が見つかっています。
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