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関東軍の独断専行に対する天皇陛下

『「文藝春秋」で読む戦後70年』より 松本清張 私観・昭和史論--明治官僚制の崩壊と先端技術

関東軍を代表とする軍の出先機関が中央の参謀本部や陸軍省の統制に服していたなら、破滅的な戦争への暴走は防止できたであろう。司令官にその行為が見えたならば、ただちに喚び返して任を解き、責を問うべきである。その第一号の該当者が山県有朋自身であった。

日清戦争のとき、山県は第一軍司令官となって出征、二十七年十月、鴨緑江を渡河して九連城を陥れた。大本営はここで冬営を命じたが、山県はそれを退嬰策なりと一蹴、桂太郎の第三師団に攻撃を開始させた。第三師団は敵中に深く入りすぎて重囲に陥り、三ヵ月間苦闘した。山県は勅命により東京に召還され、天皇に拝謁して第一軍司令官と枢密院議長とを同時に解職され、監軍という閑職に追いやられた。山県の独断専行が甚だしいために、これ以上彼を軍司令官にしておくと大局的な戦争遂行ができないというので参謀次長川上操六が伊藤博文に泣きつき、勅命召還を乞うたという。

のちの関東軍の独断専行もこのように処分すればよかったのだ。しかし、時代は陸軍の第一の実力者山県を処分した当時とはくらべものにならないくらい陸軍の暴力が強大になっていた。

それでもまだ僅かながらこれを防げるチャンスがあった。張作霖爆死事件をめぐる「聖断」と田中義一首相である。

昭和三年六月、国民党の北伐軍に圧迫されて北京から退去する張作霖の乗った列車が、瀋陽付近の満鉄交差点で日本軍に爆破され張作霖は横死した。田中内閣はこれを「満州某重大事件」と称して閣内で処理しようとしたが、元老西園寺公望は、

 「かくの如き事実があったとすれば、これを軍紀によって立派にただしてこそ陛下の御面目も立ち、国際的信用も維持することができる。かくの如きことを闇から闇に葬ると、日本の陸軍の信用をますます失墜し、ひいては国家の面目を傷つけ、聖徳を蔽うことになる。かくの如き明白な事理をまるで弁えず、これを闇から闇に葬ろうと努めている連中にも実に困ったものだ。この事柄だけは西園寺も見逃すことはできぬ」

と云い、人をして田中にすすめ、天皇に報告させた。

田中は、西園寺の激励もあって、張作霖爆殺の責任者(関東軍司令官村岡長太郎中将、関東軍参謀河本大作大佐ら)を軍法会議にかけ、この旨を天皇に上奏すると閣議で主張した。閣議は一致して反対し、行政処分で収拾すべきだという白川義則陸相の意見を支持した。閣議のみならず、政友会の党員はみな行政処分に加担した。田中はなおも軍法会議を主張してやまなかった。このころの田中は立派であった。

そのあいだにも西園寺からの田中への懲憑はしばしばであった。

かくて昭和三年十二月二十四日午後二時、田中は宮中に参内した。「作霖横死事件には遺憾ながら帝国軍人が関係しているものの如く、目下鋭意調査中ですが、もし事実とせば法に照らして厳然たる処分を行なうべく、詳細は調査終了次第陸相よりその旨を申上げます」と上奏して退下した。天皇からは「国軍の軍紀は厳格に維持するように」との言葉があった。二十五日、田中は各閣僚に個別に、また二十六日には閣議に於いて総理大臣として決意を告げ、併せて意見を徴したのであった。だが各閣僚は、田中首相がだれとも相談することなく元老と謀って、かかる重要なことを独断で上奏したことを難じた。

昭和三年二月の総選挙では与党の政友会が議席を減らしていた。不戦条約で政府は枢密院にいじめられた。そうした苦労を重ねた末に、張作霖爆殺の責任者を司法処分(軍法会議)とせずに行政処分(予備役編入、停職など)にする方針を陸軍中央から迫られた田中は、やむをえず閣議にはかった。全閣僚異議なく承認した。田中の挫折である。

そこで、四年六月末、田中は参内して、「その後、調査いたしましたが、日本の陸軍には幸いにして犯人はないということが判明いたしました。しかし警備上の責任者の手落ちについては、これを行政処分をもって始末いたします」と上奏した。

天皇は、

 「この事件を犯人不明としてその責任者を単に行政処分で終らせたということは、帝国の陸軍の綱紀を維持する所以でないということを御妙念になり、田中総理に対し、

 「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」

と言って奥に入られてから、鈴木侍従長に向って、

 「田中総理の言うことはちっとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」

と言われたのを、侍従長もまだ就任早々で慣れないから、その陛下のお言葉をそのまま総理に言ったので、田中総理は涙を流して恐催し、即座に辞意を決して総辞職を決行し、田中内閣は遂に倒れた》

田中が「最初に言ったこと」とは、前年十二月二十四日の上奏のことである。

なお、これ以後、天皇は内閣関係者に直接影響を与える政治的発言を控えるようになったという。

もしこのとき、村岡関東軍司令官と河本参謀とを軍法会議にかけることができたら(両人が作霖爆殺の首謀者であるのは「東京裁判」で明らかにされた)、その後の盧溝橋事件もなかったろうし、関東軍による満州国のでっちあげも困難であったろう。犯人は片端から軍法会議にかけられるからだ。

張作霖爆殺事件で軍法会議をあれほど強硬に突張っていた田中義一の腰くだけも(田中は辞職後まもなく病死)、西園寺が「君側の奸」と狙われるようになったのも、軍・民連繋の右翼暴力の波によった。

天皇は軍紀の粛正を望んだ。ゆえに田中の変節を悪んだ。声色を敢えて動かして彼を叱責された。不興をこうむった田中はいたく衝撃をうけた。しかし、天皇の追及は陸軍大臣に及ばず、また後継内閣にも及ばずして熔んだ。それ以上にわたると、君臣の間の秩序に乱れがくるからである。君臨すれども統治せずという抽象的な言葉を引合いに出すまでもない。この場合は天皇をとり巻く官僚制の秩序である。

創業明治天皇のときは、君臣のあいだはもっと友だちつきあいに近かった。それを引き離して天皇を超権威のきらびやかな玉座に孤立させたのは明治後半になってからである。伊藤博文や山県有朋であろう、とくに山県であろう。これについては、あとで考えることがある。
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