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一世帯=一住宅からの転換

『日本列島再生論』より コンパクトシティ

少子高齢化と人口減に直面し、政府や自治体が進めてきた住宅政策が曲がり角を迎えている。

例えば公営住宅でも、一人で入居する高齢者が増えている。戦後、政府の統計や試算で使われてきた夫婦と子供二人のいわゆる「標準モデル世帯」は減り、もはや「モデル」として成り立たなくなっている。

東京都内に約二六万戸ある都営住宅では、名義人に六五歳以上の高齢者の占める割合が二〇〇五年度に五〇%を突破した。東京都は管理人の定期巡回などの対策を取ってはいるか、「我々は住宅という(コを作るだけで、中の人がどう暮らしていくかとなるとプライバシーの壁もある」(担当者)として踏み込めないのが現状だ。

大月敏雄東京大学准教授(建築学)は「公営住宅は、入居者の収入が増え、子供が成長したら退去するとの見通しで設計されていたが、退去者は増えず、気が付くと団地は高齢者でいっぱいになっていた」と指摘する。

政府は国土交通省と厚生労働省の連携で高齢者対策や健康対策と一体的な住宅政策の検討を始めたが、目立った成果は出ていない。

行政の当惑をよそに、民間レベルでは高齢化社会に合った新たな住み方の模索が始まっている。

高齢者、障害者、子供が分け隔てなく暮らす「現代の長屋」を目指すマンションが広島県にある。東広島市に二〇一一年三月オープンした「C-CORE東広島」だ。

一階にはデイサービス事業所や障害者福祉サービス事業所が併設され、障害者一〇人が働くカフェもある。二~五階が居住空間で、バリアフリーの全二三室に四〇人が住み、月一回は住民同士のすしパーティーや餅つき大会などが開かれる。

脳梗塞で車椅子生活を送る六一歳の花本光二さんは「カフェに行けば若い世代と会話が楽しめ、ヘルパーもいるので一人でも寂しくない」と話す。マンションを建設した住宅コンサルティング会社の岡本悦生代表社員も「入居者全員が家族のようで、誰か一人が少し顔を合わせないと皆が心配するから孤独死も防げる」と強調する。

欧米でも、独居高齢者の支え方は大きな課題となっている。

フランスでは、さまざまな世代が共存する住宅作りが進んでいる。高齢者用の住宅を既存の公団や民間アパートに組み込む計画で、「生きる(Vivre)」と「自由(liberte)」を組み合わせて「ビバリブ(Vivalib)」と呼ばれるプロジェクトだ。

住宅コンサルティングを行うビバリブ社(パリ)が、自治体や民間の住宅業者と協力して二〇〇八年に開始。パリなど約一〇地域八〇か所(高齢者住宅は一〇〇〇戸)に広がった。

欧米では成人すると親子の別居が当たり前で、高齢者の独居をどう支えるかは、大きな問題だ。

「パリで高齢者専門の住宅に入ると毎月二〇〇〇上一五〇〇ユーロはかかる。年金で暮らせる家賃で、高齢者が必要な手助けを受けながら、社会の一員として出来るだけ長く暮らせる住まいを目指しました」と、ビバリブ社ミュリエルこアュノワイエ開発部長は話す。

パリから約一三〇キローメートル東方の都市ランスにあるアパートを訪ねた。約四〇戸のうち一、二階部分の九戸が高齢者用に改造された。バリアフリーで、各部屋の入り口幅は車椅子でも行き来できるよう八五センチと、普通住宅(七〇センチ)より広い。シャワーには寝たまま入れる浴用ベッドが設置できる。各室の壁には深夜に目覚めてもトイレに行けるよう、誘導灯がついている。耳の遠い住民用に、呼び鈴が鳴るとランプが点灯する仕組みもある。直角に体の向きを変えなくても移動できるよう、各部屋の扉は廊下に扇状に設けられていた。

高齢者にとって、特に頼りになるのは、手助けが必要な場合に押す「呼び出しボタン」だ。各部屋に設置されている。ボタンを押すと二四時間対応の警備会社につながり、コールセンターがらゆる要求に応える。例えば、住民が体の異常を訴えると、医師や介護士をすぐ手配。「水漏れした」「コンピューターが壊れた」などの生活トラブルでは業者を手配してくれる。

六八平方メートルで、家賃は五二〇ユーロ(約五万三〇〇〇円)。上階にある一般住宅の半分だ。共同住宅の二割を高齢者用に改築すると、建物保有者は賃料収入や建設投資で減税措置が受けられ、補助金も出る。その仕組みを利用して、コストを抑えることに成功した。

元高校教員で六六歳のマリージャンヌーファレさんは二〇一一年秋から、ランスにある別のビバリブ住宅に一人住まいする。二〇〇五年に交通事故で脊髄を負傷して以来、左足がマヒして杖が欠かせない生活だ。以前住んでいたアパートでは風呂に入れず、困っていた。

現在の家では補助椅子や手すりがあって、一人でも入浴できる。「三階に住む若い母親と子育ての苦労話をしたり、八四歳の隣人の手助けをしたり。私にもまだできることがあると励みになります」と生き生きした表情で話した。

ファレさんの月収は約一八〇〇ユーロの年金で、家賃は五九〇ユーロ。生活費に約四〇〇ユーロかかる。外出が必要な時は、前日に予約すればミニバスが送迎してくれるサービスを利用する。毎週、詩の朗読会でいろんな友達と会うのが楽しみだ。「最近、中国人のお友達ができた。ここでは、家族の中で生活しているように感じます」。笑顔にゆとりが見えた。

高齢化と人口減の中で日本の住宅政策はどうあるべきか。

大月准教授は「行政は高齢者らの独居世帯の実情やニーズを把握してこなかった。まず調査をきちんとした上で、住民とともに独居世帯を支える政策を考えるべきだ」と言う。

近年は、一つの家に複数のぷ忌更か共同で暮らす「シェア(ウス」も増えている。単身の若者同士の事例もあれば、複数の夫婦や親子が庭を共有して同じ敷地内に住む事例もある。

東日本大震災前までは当たり前と思われてきた「一世帯=一住宅」の考え方が、今後もふさわしいのかどうか、震災を機に見つめ直す動きが広がっている。
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歩いて暮らせる街

『日本列島再生論』より 減り行く人口の中で

昨年の9月には、フライブルグを訪問しています

ドイツ南西部の人口約二二万人のフライブルク市。初夏の陽気に包まれた中心市街地は大都会と見まごうばかりの人出でにぎわっていた。

大聖堂近くには百貨店など様々な店舗が立地し、次世代型路面電車のLRT(ライト・レール・トランジット)などの公共交通機関と自転車、歩行者が行き交う。

先進的な取り組みで「環境首都」と呼ばれるフライブルク市は、安全で人に優しく、車なしでも便利に暮らせる街だ。東日本大震災後、にわかに注目を集めるようになったコンパクト・シティーのさきがけでもある。

フライブルク市は一九六九年、配達車両を除き、中心市街地への車の進入を禁止した。当初は商店街の店主らの反対もあったが、歩行者は増加し、理解が広がった。

一九九二年以降は、強制力がある地区整備プランで、食料品などを販売するスーパーの郊外への出店を規制し、中心部への買い物客の流入を促した。

超低床のLRTは「水平式エレペーター」とも言われ、高齢者や子供も利用しやすく、中心市街地の移動の主役だ。二〇一七年を目標とする新路線の整備や、郊外への延伸を計画中で、車の乗り入れ禁止地域の大幅拡大も進む。

フライブルク市で都市計画担当を務めるマーティン・ハーグ副市長は「『人が使いやすく、楽しめる街』が市のコンパクト・シティーの基本理念。経済性と社会性とのバランスをとった政策が必要だ」と強調する。

日本では、大規模小売店舗法(旧大店法)が二〇〇〇年に廃止されたことによって、郊外への大型店進出が加速した。大駐車場があり、大量の商品を車で持ち帰るスタイルが定着するにつれ、中心市街地の空洞化が一層進んだ。小規模店舗が多い商店街は「シャッター通り」と化し、郊外への公共交通手段のない住民は〝買い物難民〟となり、NPO(非営利組織)などが支援に乗り出す事例も多い。

政府は二〇〇六年九月、中心市街地の活性化を図るための基本方針を示し、コンパクトな街づくりの支援に乗り出した。東日本大震災後、被災地の復興過程で、少子高齢化社会に合った街のあり方としても、コンパクトーシティーの利点が注目されるようになったのは、既に述べた通りだ。限界集落問題の打開策として期待する声も出ている。

現状は、市町村が策定した中心市街地活性化基本計画が認定されると、国から補助などが出る仕組みだ。ただ、それでコンパクトーシティーの成功が約束されるわけではないことは、青森市の例が物語っている。一方で、青森市と同じ二〇〇七年二月に認定を受けた富山市は、国内での「成功例」として注目されるようになった。

富山市では、富山駅南側に位置する総曲輪地区の日曜日の歩行者数が二〇〇六年の二万四九三二人(八月調査)から、二〇一一年は二万七四〇七人(年四回の調査の平均)に増えた。中心市街地への転入者も増加しており、二〇〇七年から二〇一二年にかけて完成したマンション七棟はいずれも完売状態だ。

富山市のコンパクトーシティー構想の軸は、LRT環状線「セントラム」である。二〇〇七年に総曲輪地区に開業した広場付きの再開発ビルと富山駅をセントラムがつなぎ、週末は多様なイペントでにぎわう。

森雅志市長は「少子高齢化で車を運転できない人が増えてくる。歩いて暮らせる街をつくることが、今の行政に突きつけられている責務だ」と説く。

富山駅では、北陸新幹線開業に向けて高架化工事が進む。その下をLRTが駅南と駅北を結んで走る予定で、街の利便性は更に高まると期待されている。

人口増と経済成長の下で郊外に拡散した都市を人口減時代に合った街に再設計するには、公共交通網の再構築と中心市街地ならではの魅力づくりへの重点投資が必要だ。同時に、青森で新幹線の駅の立地が街づくりを左右したように、市町村と国、企業との連携が、コンパクトーンティーの成否のカギを握っていると言えそうだ。

社会構造の変化に合ったコミュニティーのあり方、住み方をめぐり、各地で試行錯誤が続いている。
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ポータルの機能改善項目

次期ポータルの機能改善の項目をまとめている。

 機能開発に対しては、既存機能・新規機能に機能改善を加えての価格にする。

 機能改善としては、2年前のヒアリングの結果に基づいて、ピックアップ

  (1)スタッフ間の横展開を行うためのコラボレーション機能:CSミーティングのデジタル化

  (2)お客様からスタッフ経由で本社に要望の吸い上げ、グラフなどで情報共有するアイデア・ボックス機能⇒CS活動

  (3)掲示板をプッシュタイプにして、メーカー情報のスルー化:ポータルでの一元表示

  (4)メーカーライブラリの見える化

  (5)オプションとして、スケジュール管理、ワークフローとポータル連携

  (6)オプションとして、お客様アンケートなどの入力負荷軽減

  (7)お客様情報を抜き出して、各社のデータファイルを作成して、変更分を自動反映。

  (8)抜出データファイルをグラフ・ケータイ表示などに活用

 機能改善と言いながら、既存ポータルおよび新規ポータルと抱き合わせでの開発を可能にする。既存・新規開発の内数にできれば、標準パック費用で対応可能。

  (1)コラボレーション:新規の「SNS」で対応=「ポータル見直しの方向性(案)について」121026の(2)SNS要素取り込みによるコミュニケーション強化で提示

  (2)要望吸い上げ:既存の「アピール・アンケート」の別パターンで対応

  (3)メーカー情報スルー化:既存の「お知らせ」をメーカーからのメッセージに拡大させる=「ポータル見直しの方向性(案)について」121026の(3)ポータル連携機能で提示

  (4)ライブラリ見える化:既存のライブラリの対象をメーカー保有のライブラリに拡大=「ポータル見直しの方向性(案)について」121026の(3)ポータル連携機能で提示

  (5)スケジュール・ワークフロー:オプションで別枠

  (6)アンケート入力:オプションで別枠

  (7)抜出データファイル作成:既存の「コンテンツ」の基幹系データ表示のルートの活用
  (8)抜出データファイル活用:既存の「コンテンツ」の基幹系データのパターンを販売店で加工できるようにする

岡崎図書館10冊から4冊をOCR化

 『Yの悲劇』

  読売新聞の体質から、メディアの問題点を明確にしたくて、表示した
  社論の犯罪
  社論を決めるのは私だ
  渡邊恒雄氏の思想
  大衆をいかに動かすか
  異論を認めない罪
  3・11を「チャンス」と考える感
  フクシマを徹底検証しない
  東京新聞の社論
  海外の情報に頼る
  ジャーナリズムの敗北
  独裁者の末路
  岐路に立つ新聞

 『アーカイブのつくりかた』

  ライブラリの進化として、メーカーのアーカイブを検索できるようにするというテーマとの関連
  デジタルアーカイブのデザインと企画
  デジタル化の多様性
  クラウド型デジタルアーカイブのデザイン
  facebookというデジタルアーカイブシステム
  デジタルアーカイブヘの第一歩
  Flickrのデジタルアーカイブ的活用法
  公共機関によるFlickr利用
  企業におけるデジタルアーカイブ化 ホンダ
  町民が作る図書館 小布施町

 『紙の約束』

  出生率と負債との関係は、国にとっても、地域にとっても、生活にとっても、大きな問題です。
  債務を後世に残す
  出生率の急落
  気づかれていない債務
  新しい姿勢
  エネルギー

 『毛沢東と中国ポスト』

  ポスト毛沢東時代(二〇〇〇-二〇〇九)に中国で分化は起こるのか
  小平の改革開放のプラス面とマイナス面
  権利保護運動、ネット上の監督、NGO--三大民間力量の興起
  知識人の分化
  中国共産党の分化~党内毛沢東派と民主派の出現
  調整と堅持--執政者の反応と選択
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死とは、宗教とは何か

『吉本隆明、自著を語る』より 『死の位相学』

-吉本さんは85年に『死の位相学』を、その12年後に『新死の位相学』というご本を出されました。これはかなり難しい、力の入った内容で、死について実に深い考察がなされています。今日は、吉本さんが考える死、そして宗教について、お伺いできればと思います。

吉本 今も『死の位相学』の頃の考え方でいるのかなといえば、そうだとも思いますけど、少しは進歩したことも考えていますね。進歩というのか、退行というのかはわかりませんが、多少は違うことを考えていると思います。簡単な例でいいますと、善光寺がそうです。日本国で主に行なわれている宗教には、神道と仏教がありますね。それで、仏教にもいろんな宗派がある。まあ、非常に生々しいから例にとれば、オリンピックの時に、中国政府は問題なくこれを遂行しようと思って、まず、チベット仏教を抑えましたね。

-はい。

吉本 抑えてまた反発されたので、人命の損害もあったと新聞やテレビでは報道されていました。その時、日本の仏教はどの宗派も何も言わなかった。中国天台の受け売りですけど、最澄の天台宗、これは今の比叡山ですね。比叡山も何も言わなかったし、空海の開いた真言宗も何も言わなかった。その他、僕が一番発言してもらいたいと思っていた浄土宗と、そこから分かれた浄土真宗も何も言わなかった。ところがただ一箇所、善光寺がチベット仏教を弾圧するのはよくないって、公然と言ったんです。「おっ! 何だ、ここだけか」と思いました(笑)。それで、善光寺とはどういうお寺なのか、ちょっと調べたんですよ。その中で僕が一番関心を持ったのは、善光寺が、仏教が宗派に分かれる以前の日本式仏教思想だということでした。

-え? そうなんですか。

吉本 ええ、実は最澄・空海以前の仏教だったんですね。チベット仏教もわりに古いでしょうけれど、善光寺はもう少し古い。『新死の位相学』でいうところの「アフリカ的」段階の最も典型的な宗教であり、仏教であるということです。つまり仏教の「アフリカ的」段階の唯一の本拠なんですね。今の日本の宗派宗教の在り様では、チベット仏教の弾圧に対して、「それはけしからん!」って声を挙げたくても、中国国家の弾圧が怖くてできない。ところが、善光寺は原始というか未開宗教だから公然と反対できたんです。どこの国でも同じですが、川念とか思想とかの根底にあったのは未開宗教なんです。これが僕流の言‥低でいえば「アフリカ的」段階。仏教のいろんな宗派は、そこから見解が分かれた、その次の「アジア的」段階にあります。善光寺というのはそれほど古代にまで遡ってはいないんですけど、日本の宗教が中国とインドの影響を受けて各宗派に分かれる以前の、民間宗教という意味になるのか混然とした信仰なんだそうです。だから無党派であって、かつ、人類の見解が分かれる以前の信仰ですから、国家や政府がどうだとか、共産党やイデオロギーがどうだとか、そんなことは関係ない。問題にしないんですよ。だから今回中国政府に対して公然と異議を唱えたのも不思議はないし、国家に対して怖がる必要もないということを、初めて僕はわかりました。感心しましたね。

-それはやはり「アフリカ的」なる仏教の強さであって、そこに宗教の宗教たる、最も重要な根拠がいまだに残っていて、要するに地域的な普遍性も、時代的な普遍性も持ち得ているんだというお考えですか。

吉本 そうです。唯物論などのイデオロギーをもってして、こうした宗教を迷信だと片付けるようなことはいくらでもあるでしょうけど、でも、迷信だとしたら、そのイデオロギーもまた、迷信の跡を継いでいるということがいえますね。つまり、「アフリカ的」なる宗教は、人間として考える、考え方の最も根本にあったものを信仰として保存しているわけですから。その保存の仕方がいいか悪いかは、いろいろ論議の分かれるところですが、でも、それを宗教として保存しているという厳然たる事実はどうしようもないです。これを否定したりなんかするっていうことは、人間である限りは誰にもできませんね。
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他者としての消費者をいかに取り入れるか

『吉本隆明、時代と向き合う』よし 花伝書(風姿花伝)

-以前、江藤淳さんが吉本さんとお話しになった時に、村上春樹は読まないとおっしやってたじやないですか。で、吉本さんが「ええ? それで文芸評論家ですか」っておっしやってたけども、江藤さんはその批判が全然こたえてませんでしたよね、むしろそれが自分のプライドになっているって。あれはまずいですよね、やっぱり。

吉本 (笑)。

-全然シーンとは関係ないところでやるっていうならともかく、文芸批評をやる立場で村上春樹を読まないというのは--けなすのは全然勝手ですけども--やっぱり降りたってことですよね。

吉本 そうでしょうね、そういうことだと思います。そういう意味合いでしばしば見当が違うぜっていうことがありましたよね。日本文萄家協会の理事長になって、純文学作品だけの書店を作ってみたりね。それは僕はやめたほうがいいと思ったんですけど(笑)。そういうのじゃないんだよと思うんですけど、まあ、あの人なりの節度でもあるし、それが真っ当だと思っていたんでしょうね。しかし、それは見当違いますよって言うよりしょうがないです。お互いにあまり人のことは言えないっていうことになるわけだけど、これは認識の相違で、あらゆる場合に違うじゃないのって感じたこともあるんです。それは学者にも感じることがあって、たとえば京大(当時)の浅田彰が典型で、「この頃、京大の学生の質が落ちた」って言っているわけです。だけどそれは違うと思うんですよ。昔の京大であれば、行けるなんて夢にも思わなかった人がだんだん行けるようになったということなんですね。だから質が落ちたわけじゃありませんね。私小説というものでも、以前だったら週刊誌も読まず、活字には縁がなかったっていう奴がこの頃読むようになったみたいで、底が全部上がってきてるっていうことです。だから読者人口も増え、一見外側から見ると、みんな週刊誌読んでるじゃないかってなるんだけど、よくよく探せばいいものはちゃんとあるぜっていうことだと思うんですね。

-本当にそう思います。

吉本 僕はそういうふうに解釈しますね。学生の質がこの頃落ちてとかって言うけど、そんなこと言うなら逆に、京大や教鞭の人の質が落ちたんだと思ったほうがまだまだいいですよ。

-ていうか、どっかで閉じちゃったんですね。

吉本 そうなんです、それなんですよ。

-閉じちゃって自己肯定しちゃったんですよね、自分にどっかでオッケーを出しちゃったんですよね。だからやっぱり、そこに聴衆なり他者なりが介在しなくなると、全部閉じちゃうし終わってしまうんだと思うんです。常に、聴衆とか他者を自分の表現なり学問の中にどう取り入れていくか、っていうことがすべてだと思うんですね。そのことが本当に『花伝書』に書いてあるんだなあという。これは究極だと思いますね。僕なんか勉強してないからよくわかんなかったけど、読んでびっくりしました(笑)。

吉本 本当にそう思います、ピカイチだと思いますね。ここまでやった人はいないっていうふうに思います。たけしとかタモリとかさんまとかなら、芸談をちゃんとすれば、ここまでできるかもしれないなという気もしますけどね。

-それぐらいの才能はありますよね。

吉本 だけど、そういう人たちが芸談みたいなのをするっていうのはちょっとないだろうな、とも思うんです。まあ、たけしなら他の分野、映画とかで表現しちゃうでしょうし、みんなそれぞれ違うところで処理しちゃうようなので、本当に集中して話芸なら話芸として芸談をやるっていう人は、なかなか今いないでしょうね。あとはもう学者のうちで優秀な人っていうことになると、折口信夫の『日本芸能史ノート』、それだけですね。この本もやっぱりすごいなあと思います。あの人の得意な分野で、発生史を考察するもんだから、起源はなかなかわかんないんですけど、順序がわかるようにちゃんと書かれてます。でも『花伝書』は本当に、もうこれ以上のものはないっていうぐらい日本が誇れる芸能書ですよね。

-本当の芸能書という感じだという。

吉本 そうだと思いますね、本当にそうですよ。ここまで言えたら、つまり人間の心理から論理から、芸の技術まで全部含まれていて、言ってみれば人間の肉体というか、肉体を動かして何かするという所作事についてのあらゆることが、とにかく全部考察の中に入っているってことですからね。これはやっぱりすげえものだなって思いますね。
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消費者を主体に考える時代

『吉本隆明、時代と向き合う』よし 花伝書(風姿花伝)

吉本 僕らの常識でいえば、現在っていうのは消費過剰の社会になっているわけですから、純文学の作家とか批評家とか、消費主体でないものはもう誰も援助してくれないっていうことになると思うんですね。昔は、誰からも援助してもらえないのは左翼の文学者とか小説家で、よっぽど作品がいいと、今度はちゃんと普通の出版社の雑誌が二般のように扱ってくれたんです。今は消費者つまり読者を主体に考える時代ですから、純文学の作家とか批評家っていうのはもう助けてもらえなくなっちゃうんじゃないかと思うんです。そうすると、自分で工夫するか、やり方を変えるか、つまり読者をどっかでイメージして書くか、あるいは別の職業について予備役としてやるしかありません。それじゃなければ、万が一もないでしょうけど、出版社が生活を保障する形で書かせるとかですね。そうしなきや純文学は大体潰れちゃうんじゃないかと思ってますね。

-いや、僕は保障なんかしなくていいと思うんですよ。商品価値のないものは極端に言えば潰れてもいいと思っていて、だから吉本さんの最近のご本を読んで、ちょっと違和感を感じる部分があったんです。吉本さんは、今の出版社の人間っていうのは商品性云々はさておき、ある程度優れた作家に対してサポートしていかないと大変なことになるんじゃないかとおっしゃっているんですけれども、僕自身はそんなことは一切すべきじゃないという考え方なんですよ。

吉本 (笑)ああ、そうか。潰れるなら潰しちゃえっていう。

-そんなのほっときやいいじゃないかっていう。で、これは、吉本さんの啖呵の中でも好きなもののひとつなんですけども、柄谷行人さんか誰かが「日本の優れた批評家も、海外に出ていくためには、英語で書くとかそれなりに努力しなきやいけない」って言ったら、「何言ってやがんだ。本当に読みたい本があれば、ちゃんと向こうから訳させてくれって言ってくるんだ」っておっしゃってたじゃないですか。うわ!カッコいいなあと思ったんですけど(笑)、やっぱりそれと同じだと思うんですよね。

吉本 (笑)まあ、そうなんでしょうね。確かにそうなんでしょうけど。

-たとえば、本当に優れた作家なのに、上手く大衆的な評価を受けずに困っちゃってる人はいるかもしれないと思うんです。で、出版社がちゃんとプロデュースして出せば上手くいくのかもしれないんですけど、それはあくまでも商業的な思惑の中で、つまりこいつをどうにかすればきっとビジネスとして成立するだろう、という発想でやるんだったら僕は全然オッケーだと思うんですね。けれども、いい奴だから援助してやろうっていうのはおこがましいだろうと思うんです。それはもう出版社のマスターベーションですよね。「いい作家」っていうこちら側の判断そのものが、おこがましいものじゃないだろうかという感じがするんですよ。

吉本 ああ、なるほどね。

-僕らの業界で言えば、ビートルズは三十何社のレコード会社に全部断られたんです。お前らみたいな才能のない奴らは駄目だって。だけども、いわゆる自主制作でレコード店に並んだとたん、客は蟻の大群のように押し寄せたわけですよ。それぐらい市場はちゃんと見るわけですよね。で、俺はやっぱり、売れない作家は援助しないぞっていうね(笑)。

吉本 そうか、そうか。いや、でもそれはとても謙虚な言い方だけど、要するに純文学とかって言っていて売れないっていうのは、ほっとけほっとけって言っているわけですね(笑)。

-(笑)まあ、そうなんですけど。

観客が存在することのもうひとつの利点

吉本 僕はやっぱり純文学畑で育ってきたもんですから、自分も含めてかわいそうだなあって思うんです。それは、同情心だけじゃないんですね。この人たちはあまりにもご時世を知らな過ぎるよ、っていうのがやっぱりあるんです。時代が本当に消費過剰で、文学で言えば読者過剰になって、読者がつかない限りは経済が迎えてくれないって知っていれば、どうにかすると思うんですよ。そうだったら覚悟の決め方があると思うんです。つまり、自分だけで完結しないように少し工夫しなきやいけないって考えるか、そうじゃなければ、もう読者が誰もいなくなって飢えそうになっても構わないからやるっていうふうに腹を括っちゃうか、どちらかだと思うんですね。そこまで腹を括れば、ちょっといい作品が出てくると思うんですよ。今もう既に、そういうふうに考えるべき時なんだと思うんですね、純文学の人は。だけどそんなこと全然知らないで相変わらず高級だと思ってるわけですね(笑)。
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豊田市図書館22冊からの7冊をOCR化

岡崎図書館の10冊

 222『毛沢東と中国 下』ある知識人による中華人民共和国史

 321.1『世界正義論』

 338.9『紙の約束』マネー、債務、新世界秩序

 070.8『Yの悲劇』独裁者が支配する巨大新聞社に未来はあるか

 007.5『アーカイブのつくりかた』構築と活用入門

 933.7『ユダの覚醒 下』

 112『偶然性の問題』

 913.6『舗装道路の消えた世界』

 061『新・日本学誕生』国際日本文化研究センターの25年

 536『満州鉄道写真集』

豊田市図書館22冊からの7冊をOCR化

 『セルフマネジメント』

  ナースのための本
  コミュニケーション理論
  死が近づいた人のセルフマネジメント支援

 『情緒発達と看護の基本』

  同じく、ナースのための本
  人間のこころと行動
  現代社会とこころ

 『吉本隆明、時代と向き合う』

  『花伝書(風姿花伝)』の記述があったので、抜き出し
  実践書としての『花伝書(風姿花伝)』
  知識を殺すという発想の源泉
  現代の芸能に通じるロジック
  誰のために芸術をやるのか
  「美しい花」と「花の美しさ」
  消費者を主体に考える時代

 『吉本隆明、自著を語る』

  「死」と「位相」という言葉が引っ掛かったので抜き出し
  『死の位相学』
  『超西欧的まで』

 『日本列島再生論』

  人口減少とコンパクトシティへのアプローチが書かれていたので抜き出し
  減り行く人口の中で
  厳しい現実
  都心の「限界集落」
  歩いて暮らせる
  コレクティブハウス
  コミュニティーの再生
  「儲かるコミュニティー」への脱皮
  スマートシティー
  一世帯=一住宅からの転換

 『スニーカー文化論』

  ソーシャルメディアと身近なスニーカーとの組み合わせに興味を持った
  ソーシャルメディアと「スニーカーゲーム」
  コミュニケーション手段の進化
  貧困層の文化からメインストリームの文化へ
  ブログ兼情報サイト
  話題のブログ情報サイト「ハイプビースト」の影響力
  ツイッターとハッシュタグ(#)
  インスタグラムでビジュアルを共有する
  ソーシャルメディアを活用するスニーカーメーカー
  ネットショッピングの隆盛
  価格がつリ上がるスニーカーのオークション売買

 『自己超出する生命』

  著者の独自理論がよく分からないので、抜き出し
  生命は、こうして物質宇宙と生物のからだを創り、そのからだを視座にして自己超出する
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現代社会とこころの問題

『情緒発達と看護の基本』より 現代社会とこころより

生きる実感のなさ

 社会問題化している自殺、引きこもり、不登校、自傷行為などから単純にそれらの人々に共通するこころの問題を取り出すことはできないが、生活における充実感のなさや生きる実感のなさが背景にあると思われる。

 内閣府国民生活選好度調査によれば、「生活全般に満足している」「まあ満足している」と回答した人の割合は, 1984年の調査をピークに少しずつ低下している。また、心の豊かさ・物の豊かさについては、1970年代は物の豊かさを重視する人が心の豊かさを重視する人を若干上回っているが、70年代後半からほぼ同数になり、80年代になってからは心の豊かさを重視する人が徐々に増え、物の豊かさを重視する人を引き離している。

 1950年代後半、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれ、それらがほぼ浸透した1960年代半ばには、カラーテレビ、クーラー、自動車が「新三種の神器」と呼ばれるようになった。ちょうどこれらが浸透したころと、物の豊かさを重視する人と心の豊かさを重視する人の割合が逆転し始める時期(1970年代後半)はほぽ一致しているといえよう。その後、生活全般に満足できる人の割合も減り始めている。

 高度経済成長下で便利さやささやかな享楽を求めて「三種の神器」や「新三種の神器」に代表される物を手に入れることを目標にし、物を手に入れることでささやかな幸福感を味わえたという意味では心も満たされた(50年代後半~70年代後半)。しかし、これらの物がおおよそ揃ってきてからは、これ以上の物を手に入れることを目標としにくくなった。その後、心の豊かさを求めながら、その実体が何なのかわからないまま今に至っているといえる。目標のないまま、仕事にも生活にも充実感を得ることができず、何のために働くのか、何のために生きているのかとさまよう現代人の姿が浮かんでくる。

人とのつながりの希薄さ

 心の豊かさを求めながら、孤立感や孤独感など人とのつながりの希薄さを訴える人が増えている。先に示したように 自殺を考えたことのある人では「悩みやっらい気持ちを受け止めてくれる人がいない」と回答する率が高く、引きこもりの原因の一っとして人間関係の不調が挙げられる。不登校の要因についても、対人関係の不調が影響することは少なくない。自傷行為をする子どもは,自分の身体を傷つけることで「イライラした気持ちが解消され、やってスッキリした」と訴えることがあるが、言い換えればつらい気持ちを誰かに打ち明けたり相談することで解消するような方法がとれないということになる。

 内閣府による2004(平成16)年[安全・安心に関する特別世論調査]によれば、人間関係について難しくなったと感じる人が25.7%,どちらかと言えば難しくなったと感じる人が38.2%で、合わせて63.9%の人が「人間関係が難しくなったと感じる」と答えている。さらにその要因については「人々のモラルの低下」が55.6%で最も多いが、「地域とのつながりの希薄化」54.3%,「人間関係を作る力の低下」44.5%,「親子関係の希薄化」32.3%など人間関係の希薄化か挙げられている。

 人間関係は人を安心させる方向にも不安にさせる方向にも作用するが、人が安心して生きていくためには、信頼感に基づいた良好な他者との関係が必要になる。逆に不信感に基づく人間関係からは恐怖や不安が生まれやすく、猪疑心や敵恢心から被害感に発展することもある。人間関係が希薄であるとは、人との関係に深入りしないことになり、対人関係がもたらす不安を回避する意味では意義もあるが、同時に人との間に信頼関係を作ることができないことにもつながる。

 希薄な人間関係では信頼できる人をもちにくいため、自分を肯定的に見て認めてくれる人が周囲にいないことにもなる。確固たる自分をもち、周りが何と言おうと動揺しない人もいるが、通常、人は社会とのつながりの中で受け入れられ、認められて初めて自分の存在の意味や価値を確認できる。ところが希薄な人間関係の中では自分に価値を見いだせず、自信を喪失し、より対人接触を避けることになる。そのうち、「誰にも認められない自分は不要だ」という発想に至り、「どうせ何をやっても同じ」と投げやりな生活態度になってしまう。より一層引きこもるか,自暴自棄になってしまうか,まれには「自分かうまくいかないのは誰々のせいだ、社会のせいだ」といった被害感から破壊的な行動に至る場合もある。

 このように人間関係は人が生きていく上で基本となるものであり、心の豊かさを実感するためには、まず自分か生きていることを喜べることが前提となる。人間関係が形成される過程については,以下「現代社会と親」「現代社会と子ども」の項で述べる。
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こころの危機

『情緒発達と看護の基本』より 人間のこころと行動

人は、ストレスの多い環境の中で、自らの課題を抱えながら、また周囲の人々と交流しながら生きている。人のもつ意識的、無意識的な諸機能により、心身の環境は一定の状態を維持しつつ成長を遂げるように調整されている。しかし、ときとしてこの安定が破られることがある。このような状況が危機である。危機という言葉が、実際には生活状況の深刻な急変など外面の変化を指すこともあるし、身体的、精神的な病的症状の出現(あるいはその徴候)を指す場合もある。いずれにせよ、危機とは、これまでの対処法や調整手段では効果的な解決が得られないことが予想されるために、緊急に何らかの対応が求められる重要な時期のことである。

こころの危機という言葉はいろいろな状況で用いられるが、ここでは従来の行動による対処やこころの防衛機制が破綻をきたす代表的な場合である、①成熟的危機、②心的外傷、③精神疾患の発症、④家族内葛藤から生じる危機、の4点について述べることにする.

 (1)成熟的危機

  人は発達段階に応じた人生の課題に直面する。例えば、青年期は自我同一性が確立する時期である。この時期に同一性獲得につまずくと、エリクソンが同一性拡散症候群と名づけた一連の症状を呈するに至る。こうした人は「やる気が起きない」「希望がもてない」などと訴えるために,やればできるのにやらないでいると見なされて,「怠けている」「わがまま」などと周囲が見なしがちになる。しかし、成熟の課題を抱えているこころのエンジンは、自分(や周囲)の思うようには動かないのである。こうした点を念頭に置いて接しなければ、善意の励ましのつもりが、かえって事態をこじらせることにもなりかねない。

  近年増えていると伝えられる、社会的に引きこもる人の中には、精神疾患に罹患している人や人格の偏り(人格障害)が問題となる人もいないとはいえないが、まず成熟という観点から理解に努めるべき事例が多いことは間違いないであろう。

  このほか、乳幼児期から老年期に至るまで、いわゆる不適応行動がみられる場合には、その人の人生の課題の達成、すなわちこころの成熟が危機に瀕している可能性があるということを認識する必要がある。

 (2)心的外傷

  大規模な災害の被災者、犯罪被害者、虐待の被害者など心的外傷を受けた人は、急性ストレス反応のほか、後になり心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症する場合がある。PTSDは一定の症状がみられ、一定の基準に基づいて診断される医学的疾患である。そのため、ひとたび発症すれば医学的治療の対象となる。 PTSDについては、拡大解釈されている場合もないとはいえないが、発症して苦しんでいる人がいるのは紛れもない事実である。PTSDに対する社会の無知が二次的な心的外傷を生む危険性も指摘されている。こころの危機はPTSD発症の時点ではなくて、危機的な事態が発生した時点で発生していると認識するべきであろう。このような考え方に立ち、心的外傷を受けた人に対しては、症状が現れていなくとも早期からの予防的対応が求められる.

 (3)精神疾患の発症

  こころの悩みと精神疾患にころの病)は別のものである。人は誰でもいつでも、多かれ少なかれこころの悩みをもっており、場合によっては悩みがよりよく生きるための原動力にもなる。しかし、精神疾患は悩みの有無によらず、一定の症状をもち、その症状から医学的な診断が下される状態である。悩みが一見、精神疾患の原因であるようにみえても、発症には脳の機能、その疾患へのなりやすさ(脆弱性)、遺伝子などの生物学的な要因の関与が明らかにされつつあり、単純に悩みを病気の原因ととらえるべきではない。このような意味で、精神疾患の発症は、脳というこころの基盤の危機であるといえる。精神症状は本来、自分の意思に反して出現しているものであり、軽く見えるからといって、本人がコントロールすることは困難なものである。それまで悩みをもっていた人に、こうした精神症状が付け加わった場合、悩みを解決する力は障害される。また、仮に悩みが解消したからといって、一度発症した精神症状は消えるものでもない。例えば、会社での対人関係の悩みがあった人に幻覚や妄想が発症した場合には、会社を休んでも幻覚や妄想は消えるものではなく、適切な薬物療法などが必要になる。医学的治療は本来の悩みを解決するものではないため、治療と並行して,あるいは時期をみて、こころの悩みを解決する援助を行うことが必要となる。

 (4)家族内葛藤から生じる危機

  家族は互いに影響を与え合う集団であるが、家族成員のうち誰が問題の原因かが理解しあえず対立が深刻化することがある。例えば、仕事人間で深夜まで帰宅しない生活を続ける父親と、それを批判しつつ、大学を卒業しても就職せずその父親に経済的に依存している息子が深刻な対立をする場合などがその例である。この場合、父は会社の要求に対して責任を負い過ぎているし、息子は社会人としての責任を回避しているという問題がある。

  それぞれが自分の立場を正当化し、相手に対して批判的な態度をとり続ける場合、悪循環が生じ、互いのこころのありようにも深刻な影響が生じることがある。家族は長い歴史の中で、互いへの感情を培ってきており、不用意な注意や指摘は問題解決どころか、こうした悪循環を刺激して事態を悪化させる場合もあることを念頭に置く必要がある。

  家族成員の中に成熟の問題を抱える人がいたり、あるいは精神的な疾患を抱える人がいる場合、問題が個人レペルにとどまらず、家族関係の中でより悪化したり、複雑な様相を呈することがまれならず認められる。このような場合、発端となった問題が何であれ、家族成員間の関係のあり方に危機の本質があると考えられることもある。
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スピリチュアルペイン

『セルフマネジメント』より

わが国では、“spirit”に対する訳語は定まっていない。しかし、1998年に開かれた世界保健機関執行理事会において, 1983年、「健康の定義」にspirituaKtyの概念が検討されて以来、spiritualityの概念に対して、さまざまな意見が述べられている。spiritualには,[精神的な]「精神の」「霊的な」「魂の」「崇高な」「気高い」「超俗的な」「超自然な」「神の」などの意味がある。このことから、「スピリチュアルベイン」とは、「精神的な苦痛」「霊的な苦痛」「魂の苦痛」とも訳されている。しかし、「精神的」あるいは「霊的」といった用語は理解しにくいため、この章では窪寺の説明に基づき、spiritualityを次のような意味で用いる。「人生の危機に直面して生きるよりどころが揺れ動き、あるいは見失われてしまったとき、その危機状況で生きる力や、希望を見つけ出そうとして、自分の外の大きなものに新たによりどころを求める機能のことであり、また、危機のなかで失われた生きる意味や目的を自己の内面に新たに見つけ出そうとする機能のことである」。よって、スピリチュアルペインとは、難治性疾患死に直面し、その窮境のなかで人間が生きる意味や目的を自己の内面に新たに求めようとして苦悩している状況ともいえよう。

また、「苦悩」sufferingは、『広辞苑』によると「苦しみ悩むこと」「精神的な苦しみ」とある。この「苦痛」や「痛み」「苦しみ」を示す英語はさまざまあるが、painやpangには、精神的な苦痛や苦悩、心痛、悲痛といった意味があり、主に肉体的な特定の個所の痛みや、それに伴う不愉快な出来事によって生じる心理的身体的な痛みを示す場合が多い。sufferingには、「……の下で(suf)支える[耐える](fer)の意味があり、動詞には「耐え忍ぶ]などの意味がある。そこで死が近づいている時期に生じる実存的苦悩を述べるときは、sufferingの意味の「苦悩」を用い、身体的痛みあるいは心理的な痛みに関しては「苦痛」(pain)という用語が妥当と思われる。このような区別によれば、「スピリチュアルペイン」という用語は本来「身体的痛みに伴う精神的あるいは霊的苦痛」という意味になり、「苦悩」(suffering)と同義といえよう。

近年、医療の高度化、複雑化、専門化に伴い、看護師が施設内で求められる業務の内容も変化し始めている。例えば、看護実践の場も一般病院のみならずホスピスあるいは在宅にまで及び、そのような場での看護は、「医師の指示通りに看護行為を行うjといった内容から、医師、看護師、薬剤師、栄養士、作業療法士らによって構成されている多職種とともに協働し、実践するといった状況へと変化している。特に ターミナル期の人は、疼痛、全身倦怠感などの身体的苦痛や、心理的・社会的な問題に加え、生きる意味や目的に対する苦悩を抱いていることが多い。そのようななか、看護師は患者にとって誰より自分の病状やそれに伴う苦痛を知っているため、訴えを言いやすい立場にある。その訴えのなかには、身体的苦痛のみでなくスピリチュアルな側面もあるため、看護師は患者の訴えをよく聴き、耳を傾けて対応する能力が必要と考える。そのような意味で看護師には、患者との関係性のなかで患者の苦悩を援助していく上での大きな責務が課せられている。

トラペルビーは、看護は「人間対人間のプロセス」であり、単に「できるだけ高い適正な健康水準」を取り戻すよう援助することのみでなく、「病人が病気・苦難・痛みの体験のなかで意味をみつけるよう」5)援助することであるという看護理論を生み出した。このように、彼女は、「病気は深い意味を含みうる」という独自の考えを唱えており、この考えはフランクルのロゴセラピーの考えに基づいているといわれている。そこで、トラペルビーの看護観の基礎にあるフランクルのロゴセラピーにおける重要な人間関係のあり方について述べ、ターミナル期患者のF意味充足」に向けた看護について述べていきたい。
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