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死とは、宗教とは何か

『吉本隆明、自著を語る』より 『死の位相学』

-吉本さんは85年に『死の位相学』を、その12年後に『新死の位相学』というご本を出されました。これはかなり難しい、力の入った内容で、死について実に深い考察がなされています。今日は、吉本さんが考える死、そして宗教について、お伺いできればと思います。

吉本 今も『死の位相学』の頃の考え方でいるのかなといえば、そうだとも思いますけど、少しは進歩したことも考えていますね。進歩というのか、退行というのかはわかりませんが、多少は違うことを考えていると思います。簡単な例でいいますと、善光寺がそうです。日本国で主に行なわれている宗教には、神道と仏教がありますね。それで、仏教にもいろんな宗派がある。まあ、非常に生々しいから例にとれば、オリンピックの時に、中国政府は問題なくこれを遂行しようと思って、まず、チベット仏教を抑えましたね。

-はい。

吉本 抑えてまた反発されたので、人命の損害もあったと新聞やテレビでは報道されていました。その時、日本の仏教はどの宗派も何も言わなかった。中国天台の受け売りですけど、最澄の天台宗、これは今の比叡山ですね。比叡山も何も言わなかったし、空海の開いた真言宗も何も言わなかった。その他、僕が一番発言してもらいたいと思っていた浄土宗と、そこから分かれた浄土真宗も何も言わなかった。ところがただ一箇所、善光寺がチベット仏教を弾圧するのはよくないって、公然と言ったんです。「おっ! 何だ、ここだけか」と思いました(笑)。それで、善光寺とはどういうお寺なのか、ちょっと調べたんですよ。その中で僕が一番関心を持ったのは、善光寺が、仏教が宗派に分かれる以前の日本式仏教思想だということでした。

-え? そうなんですか。

吉本 ええ、実は最澄・空海以前の仏教だったんですね。チベット仏教もわりに古いでしょうけれど、善光寺はもう少し古い。『新死の位相学』でいうところの「アフリカ的」段階の最も典型的な宗教であり、仏教であるということです。つまり仏教の「アフリカ的」段階の唯一の本拠なんですね。今の日本の宗派宗教の在り様では、チベット仏教の弾圧に対して、「それはけしからん!」って声を挙げたくても、中国国家の弾圧が怖くてできない。ところが、善光寺は原始というか未開宗教だから公然と反対できたんです。どこの国でも同じですが、川念とか思想とかの根底にあったのは未開宗教なんです。これが僕流の言‥低でいえば「アフリカ的」段階。仏教のいろんな宗派は、そこから見解が分かれた、その次の「アジア的」段階にあります。善光寺というのはそれほど古代にまで遡ってはいないんですけど、日本の宗教が中国とインドの影響を受けて各宗派に分かれる以前の、民間宗教という意味になるのか混然とした信仰なんだそうです。だから無党派であって、かつ、人類の見解が分かれる以前の信仰ですから、国家や政府がどうだとか、共産党やイデオロギーがどうだとか、そんなことは関係ない。問題にしないんですよ。だから今回中国政府に対して公然と異議を唱えたのも不思議はないし、国家に対して怖がる必要もないということを、初めて僕はわかりました。感心しましたね。

-それはやはり「アフリカ的」なる仏教の強さであって、そこに宗教の宗教たる、最も重要な根拠がいまだに残っていて、要するに地域的な普遍性も、時代的な普遍性も持ち得ているんだというお考えですか。

吉本 そうです。唯物論などのイデオロギーをもってして、こうした宗教を迷信だと片付けるようなことはいくらでもあるでしょうけど、でも、迷信だとしたら、そのイデオロギーもまた、迷信の跡を継いでいるということがいえますね。つまり、「アフリカ的」なる宗教は、人間として考える、考え方の最も根本にあったものを信仰として保存しているわけですから。その保存の仕方がいいか悪いかは、いろいろ論議の分かれるところですが、でも、それを宗教として保存しているという厳然たる事実はどうしようもないです。これを否定したりなんかするっていうことは、人間である限りは誰にもできませんね。
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