未唯への手紙
未唯への手紙
他者としての消費者をいかに取り入れるか
『吉本隆明、時代と向き合う』よし 花伝書(風姿花伝)
-以前、江藤淳さんが吉本さんとお話しになった時に、村上春樹は読まないとおっしやってたじやないですか。で、吉本さんが「ええ? それで文芸評論家ですか」っておっしやってたけども、江藤さんはその批判が全然こたえてませんでしたよね、むしろそれが自分のプライドになっているって。あれはまずいですよね、やっぱり。
吉本 (笑)。
-全然シーンとは関係ないところでやるっていうならともかく、文芸批評をやる立場で村上春樹を読まないというのは--けなすのは全然勝手ですけども--やっぱり降りたってことですよね。
吉本 そうでしょうね、そういうことだと思います。そういう意味合いでしばしば見当が違うぜっていうことがありましたよね。日本文萄家協会の理事長になって、純文学作品だけの書店を作ってみたりね。それは僕はやめたほうがいいと思ったんですけど(笑)。そういうのじゃないんだよと思うんですけど、まあ、あの人なりの節度でもあるし、それが真っ当だと思っていたんでしょうね。しかし、それは見当違いますよって言うよりしょうがないです。お互いにあまり人のことは言えないっていうことになるわけだけど、これは認識の相違で、あらゆる場合に違うじゃないのって感じたこともあるんです。それは学者にも感じることがあって、たとえば京大(当時)の浅田彰が典型で、「この頃、京大の学生の質が落ちた」って言っているわけです。だけどそれは違うと思うんですよ。昔の京大であれば、行けるなんて夢にも思わなかった人がだんだん行けるようになったということなんですね。だから質が落ちたわけじゃありませんね。私小説というものでも、以前だったら週刊誌も読まず、活字には縁がなかったっていう奴がこの頃読むようになったみたいで、底が全部上がってきてるっていうことです。だから読者人口も増え、一見外側から見ると、みんな週刊誌読んでるじゃないかってなるんだけど、よくよく探せばいいものはちゃんとあるぜっていうことだと思うんですね。
-本当にそう思います。
吉本 僕はそういうふうに解釈しますね。学生の質がこの頃落ちてとかって言うけど、そんなこと言うなら逆に、京大や教鞭の人の質が落ちたんだと思ったほうがまだまだいいですよ。
-ていうか、どっかで閉じちゃったんですね。
吉本 そうなんです、それなんですよ。
-閉じちゃって自己肯定しちゃったんですよね、自分にどっかでオッケーを出しちゃったんですよね。だからやっぱり、そこに聴衆なり他者なりが介在しなくなると、全部閉じちゃうし終わってしまうんだと思うんです。常に、聴衆とか他者を自分の表現なり学問の中にどう取り入れていくか、っていうことがすべてだと思うんですね。そのことが本当に『花伝書』に書いてあるんだなあという。これは究極だと思いますね。僕なんか勉強してないからよくわかんなかったけど、読んでびっくりしました(笑)。
吉本 本当にそう思います、ピカイチだと思いますね。ここまでやった人はいないっていうふうに思います。たけしとかタモリとかさんまとかなら、芸談をちゃんとすれば、ここまでできるかもしれないなという気もしますけどね。
-それぐらいの才能はありますよね。
吉本 だけど、そういう人たちが芸談みたいなのをするっていうのはちょっとないだろうな、とも思うんです。まあ、たけしなら他の分野、映画とかで表現しちゃうでしょうし、みんなそれぞれ違うところで処理しちゃうようなので、本当に集中して話芸なら話芸として芸談をやるっていう人は、なかなか今いないでしょうね。あとはもう学者のうちで優秀な人っていうことになると、折口信夫の『日本芸能史ノート』、それだけですね。この本もやっぱりすごいなあと思います。あの人の得意な分野で、発生史を考察するもんだから、起源はなかなかわかんないんですけど、順序がわかるようにちゃんと書かれてます。でも『花伝書』は本当に、もうこれ以上のものはないっていうぐらい日本が誇れる芸能書ですよね。
-本当の芸能書という感じだという。
吉本 そうだと思いますね、本当にそうですよ。ここまで言えたら、つまり人間の心理から論理から、芸の技術まで全部含まれていて、言ってみれば人間の肉体というか、肉体を動かして何かするという所作事についてのあらゆることが、とにかく全部考察の中に入っているってことですからね。これはやっぱりすげえものだなって思いますね。
-以前、江藤淳さんが吉本さんとお話しになった時に、村上春樹は読まないとおっしやってたじやないですか。で、吉本さんが「ええ? それで文芸評論家ですか」っておっしやってたけども、江藤さんはその批判が全然こたえてませんでしたよね、むしろそれが自分のプライドになっているって。あれはまずいですよね、やっぱり。
吉本 (笑)。
-全然シーンとは関係ないところでやるっていうならともかく、文芸批評をやる立場で村上春樹を読まないというのは--けなすのは全然勝手ですけども--やっぱり降りたってことですよね。
吉本 そうでしょうね、そういうことだと思います。そういう意味合いでしばしば見当が違うぜっていうことがありましたよね。日本文萄家協会の理事長になって、純文学作品だけの書店を作ってみたりね。それは僕はやめたほうがいいと思ったんですけど(笑)。そういうのじゃないんだよと思うんですけど、まあ、あの人なりの節度でもあるし、それが真っ当だと思っていたんでしょうね。しかし、それは見当違いますよって言うよりしょうがないです。お互いにあまり人のことは言えないっていうことになるわけだけど、これは認識の相違で、あらゆる場合に違うじゃないのって感じたこともあるんです。それは学者にも感じることがあって、たとえば京大(当時)の浅田彰が典型で、「この頃、京大の学生の質が落ちた」って言っているわけです。だけどそれは違うと思うんですよ。昔の京大であれば、行けるなんて夢にも思わなかった人がだんだん行けるようになったということなんですね。だから質が落ちたわけじゃありませんね。私小説というものでも、以前だったら週刊誌も読まず、活字には縁がなかったっていう奴がこの頃読むようになったみたいで、底が全部上がってきてるっていうことです。だから読者人口も増え、一見外側から見ると、みんな週刊誌読んでるじゃないかってなるんだけど、よくよく探せばいいものはちゃんとあるぜっていうことだと思うんですね。
-本当にそう思います。
吉本 僕はそういうふうに解釈しますね。学生の質がこの頃落ちてとかって言うけど、そんなこと言うなら逆に、京大や教鞭の人の質が落ちたんだと思ったほうがまだまだいいですよ。
-ていうか、どっかで閉じちゃったんですね。
吉本 そうなんです、それなんですよ。
-閉じちゃって自己肯定しちゃったんですよね、自分にどっかでオッケーを出しちゃったんですよね。だからやっぱり、そこに聴衆なり他者なりが介在しなくなると、全部閉じちゃうし終わってしまうんだと思うんです。常に、聴衆とか他者を自分の表現なり学問の中にどう取り入れていくか、っていうことがすべてだと思うんですね。そのことが本当に『花伝書』に書いてあるんだなあという。これは究極だと思いますね。僕なんか勉強してないからよくわかんなかったけど、読んでびっくりしました(笑)。
吉本 本当にそう思います、ピカイチだと思いますね。ここまでやった人はいないっていうふうに思います。たけしとかタモリとかさんまとかなら、芸談をちゃんとすれば、ここまでできるかもしれないなという気もしますけどね。
-それぐらいの才能はありますよね。
吉本 だけど、そういう人たちが芸談みたいなのをするっていうのはちょっとないだろうな、とも思うんです。まあ、たけしなら他の分野、映画とかで表現しちゃうでしょうし、みんなそれぞれ違うところで処理しちゃうようなので、本当に集中して話芸なら話芸として芸談をやるっていう人は、なかなか今いないでしょうね。あとはもう学者のうちで優秀な人っていうことになると、折口信夫の『日本芸能史ノート』、それだけですね。この本もやっぱりすごいなあと思います。あの人の得意な分野で、発生史を考察するもんだから、起源はなかなかわかんないんですけど、順序がわかるようにちゃんと書かれてます。でも『花伝書』は本当に、もうこれ以上のものはないっていうぐらい日本が誇れる芸能書ですよね。
-本当の芸能書という感じだという。
吉本 そうだと思いますね、本当にそうですよ。ここまで言えたら、つまり人間の心理から論理から、芸の技術まで全部含まれていて、言ってみれば人間の肉体というか、肉体を動かして何かするという所作事についてのあらゆることが、とにかく全部考察の中に入っているってことですからね。これはやっぱりすげえものだなって思いますね。
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