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蒋介石政権における日本とアメリカ

『中国史』より 最近世史 国民政府

 蒋介石政権を動揺させ、最後には中国における足場を失わせてしまったのは、内政の行詰りからではなく、かえって当時の複雑な世界情勢の作用であった。特に日本が大きな責任を負わなければならないが、しかしその背後にあってもっと大きな働きをしたのはアメリカの外交である。

 アメリカは日露戦争までは、日本に好意を示し、この戦争の終結もアメリカの仲裁の努力に頼る所が多かった。しかるに戦後アメリカの満洲鉄道中立案に日本が反対し、かえってロシアと結んで、アメリカが狙っていた満洲への進出を拒否してから、アメリカの政策は一転して日本敵視の方針に変った。そこへ起ったのか第一次世界戦争であり、アメリカも日本も連合国側に立ったがその役割は違っていた。アメリカはヨーロッパ戦線に軍隊を送り、それが勝敗を決定する原動力となったが、日本はドイツの膠州湾を占領した外は、もっぱらその海軍力をもって海上警備に当り、イギリスの同盟国として、いわゆる東洋の番犬の役目を勤めた。これと同時に日本の商品も広く欧米の植民地の間に行き渡った。さて大戦が終了すると、各国はその植民地から日本を締め出しにかかるのであるが、特にアメリカは戦中に獲得した世界に対する指導者の地位を利用し、戦時成金の日本を屈服すべく全力を傾倒してきた。軍備縮小を名とするワシントン会議(一九二一-二二年)、ロンドン会議(一九三〇年)は実は日本圧迫を目的とするものであり、排日移民法案(一九二四年)はもとより、中国における日本の特殊地位を認めた石井〔菊次郎〕・ランシング協定の廃棄(一九二三年)など、これでもか、これでもかというほどに露骨な日本敵視政策が次々と実施された。ことにアメリカにおける株式大暴落(一九二九年)に続く世界経済の大不況は各国の保護貿易政策強化の傾向を招き、こうなると植民地を持たない日本やドイツ、イタリアなどの諸国の立場が困難になってきた。当時商品市場として有望な地域は、インド、中東、ラテン・アメリカなど、すべてイギリス、アメリカの植民地、もしくは勢力範囲内にあり、日本に残された市場は中国より外になかった。しかしここも各国の競争が激しく、特に日本は日本の進出を好まない中国人民、及び外国資本家による排日運動によって商権が脅かされる立場にあった。そして安全に商業を営もうとすれば、いわゆる勢力範囲を設定するより外なく、勢力範囲設定の政策はますます排日運動の激化を招くのであった。

 こういう情勢になってくると、日本はいよいよ中国における既得権益に固執せざるを得なくなる。奉天の張学良の態度に希望を失った日本は楊宇霜を擁立して親日地方政権を樹立しようとしたが、張学良は先手を打って楊宇霜を殺してしまった。そこで日本軍は最後の奥の手を出して武力発動に踏切り、張学良軍を追い出して全満洲を占領した二九三一年)。そのあとここへ天津に塾居中の宣統廃帝溥儀を連れ出して執政とし、やがて皇帝の位に即かせ、満洲帝国を造るという、時代離れのした大芝居を打った(康徳元年=一九三四年)。

 この頃南京の国民政府は前面に日本軍の圧力を受けている外、裏面にも江西の瑞金を根拠地とする共産紅軍の脅威を受けていた。何度か大軍を動かして包囲攻撃するが、いつも敗北し、殺された師団長黄紹雄の首が板にのせられ上流から流れ下るという一幕もあった。最後に物資の流入を断ち、封鎖作戦を行うと、紅軍は食塩の不足に苦しみ、包囲を突破して湖南に出で、いわゆる大長征の結果、陝西に入って保安に根拠を構えた(一九三五年)。
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