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池田晶子 好き嫌いとの付き合い方

104イケ『暮らしの哲学』070909 池田晶子

 「好きなものは好きだ」「嫌いなものは嫌いだ」としか人間は言えない。それ以上それを説明できない、理由を遡れない「好み」もしくは「趣味」の不思議について、前回は考えました。好みと趣味の不思議は、動物にすら観察される、ゆえに、この情動こそ人間と動物とを根底から衝き動かしているものだと言いました。

 しかし、「情動」と言うから、それは人間と動物に限られるように聞こえますが、どうもそれだけではなさそうだ。「好みのオス」「好みのメス」という原始的なレベルをさらに遡ると、原子レベルにすら、この「情動」は働いているのではないか。

 なぜ、水と油は合わないのでしょうか。なぜ「合わない」ということが起こるのでしょうか。逆に、水と塩ではなぜ合うのでしょうか。「合う」「合わない」はなぜ決まっているのでしょうか。

 科学的には、水の分子と油の分子、水の分子と塩の分子、それぞれの分子式がこうだから、だから「合う」「合わない」と言えましょう。しかし、「なぜ」、それはそういうことになっているのか。

 あるいは、さらにミクロの原子の世界で働いている力、ある原子とある原子の間で作用している引力と斥力、これ自体、そもそも何なのか。「引き寄せる」「斥ける」とは、好きと嫌い以外の何ものでもないと、私には見えます。

 その力は、そのままマクロの世界に働いているのも観察されます。「引力」、月と地球が引き合う力、「斥力」、互いに離れてゆく星雲同士、なんと、宇宙とは、壮大な好き嫌いのドラマではないのですか。

 鉄の魂は磁石の魂に恋していると言ったのは、ゲーテだったか、古代の哲人だったか忘れましたが、科学を超え、さらに「なぜ」を遡ってゆくと、世界の光景はどうしてもそういうふうに見えてくるんですね。世界すなわち宇宙とは、引き寄せ合い、斥け合う魂たち、すなわち宇宙的な諸力の混然たる運動性であるといった光景です。

 それで、我々人間を、とりあえずこの「魂」、宇宙的な諸力のある種の現われとしての魂と置いてみると、この好き嫌いの謎の形が、見えてくるように思います。「合う」魂、「合わない」魂とは、引力と斥力の関係ですね。当人には、どうしてそうなのかわかりません。「どういうわけか」、好きなものは、どうしても好きで、嫌いなものは、どうしても嫌いだ。「自分には」、これはどうしようもない。だって、気がついたら、そうとしか感じられない自分であったのだから。

 これを、「前世」の記憶から説明しようとする人もいます。ある種の嗜好とは、前世の経験による決定だという理解です。しかし、そのように理解しようとするまさにその理解が、その人の好みの理解だということを思い出しましょう。魂の何であるかなど、人間の理解を超えています。人間を「人間」として表象するのでなければ、魂を個人として特定するのは不可能です。しかし魂とはそれ以前に、宇宙的混沌における何らかの作用みたいなものでしょう。そっちの側から見てみると、「前世」による理解は、あくまでも物語です。

 私はむしろ、この「好き嫌い」の説明不能性を、物理的初期条件に似たものと解します。初期条件、すなわち、(何らかの理由で)この宇宙が存在した刹那、このようでなくともよかったのに、このようであったという、まさにそれが嗜好です。どうしてそうなのか。宇宙白身にも説明不能でしょう。だって、どっちでもよかったんだから。その意味で、好みというのは偶然のものです。偶然のものだから説明できないのだ。

 いずれにせよ、好みは個人的にして主観的なものだという理解がいかに浅いか、おわかりでしょう。好みは個人のものではない。個人なんてものをはるかに超えて、宇宙へ通じる深い謎です。宇宙生成の動因とも言うべき、不可知の力なのですよ。

 そういう視線でこの人間社会を見てみると、好きの嫌いの、引き合ったり斥け合ったりしている魂の光景は、それなりに面白く見えてきます。水と油とは、どうやったって合わないのです。好きなものは言われなくても好きだし、嫌いなものは好きになれと言われても無理だ。それならそれで、人は自分に正直になってよろしいのではないのでしょうか。だってそれは、個人の責任ではどうしようもないのだもの。

 私もかつては、根性が悪い人間というのがどうしても好きになれず、それはよくないのではないのかと思っていたことがありました。心性の卑しい人間などは存在しない、それは相対的な判断であって、本来的な人間として遍く平等に感じなければならないと。

 それは原理的にはその通りなのですが、生理的には生身の人間には、やっぱり無理なんですよ。そしてまたじじつ、心が卑しく貧しい人間というのは、やっぱり存在するんですよ。

 でも、そんなことは、じつは、ピーマンというものがこの世に存在する。そしてピーマンが嫌いな人はピーマンが嫌いだ。でも嫌いなら食べなければいいんだ。これと同じことだと気がついてから、楽になりましたね。なるほど存在することは認める、でも私は関知しないと、こういう態度でいいんですね。嫌いを嫌いと排斥せずに、共存することが可能になります。無理はやっぱりよくありません。嫌いなものを無理して食べると、きっとお腹を壊します。

 好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとは、まるで子供のわがままみたいですが、とりあえず素直にこれに従ってゆくという手はあるでしょう。ただしこの場合大事なのは、あくまでも「素直に」ということであって、素直に好みに従っているように自分では思っていても、じつは素直でない場合が多い。人は、利害や損得と好き嫌いとを混同しやすいのです。自分の得になるものが好きで、損になるものが嫌いだと思うのは、素直な情動のようでいて、そうではない。これは単なる計算です。

 お金持ちが好きで、貧乏人は嫌いだ。そういう好みで、お金はあるけど心は貧しく卑しい人と付き合っていると、その人の心も貧しく卑しいものになります。これは、その人の魂の健康にとっては悪いことですね。だからそういう計算は間違いのもと、好き嫌いはそういうこの世の地平を超えているという原点に、常に立ち戻るようにしましょう。

 これ以上は遡れないという自分の嗜好、つまり原点に気づいた時こそ、人は、自分の魂の求めに従い、自ずからの人生を送ることができるようになるのでしょう。
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