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電子書籍は紙の本を殺すのか

『読書脳』より 「読書の未来」石田英敬(東京大学附属図書館副館長)×立花隆

立花 ところで、電子書籍は日本でも普及しつつありますが、欧米ではかなり先行していますよね。一般読者ではなくて、本のディープな読み手、いわゆる読書人といわれる人たちの間でも電子書籍は受け入れられているんでしょうか。

石田 何カ月か前に、フランス人の古くからの友人に会ったらキンドル派になっていたんでビックリしました。とても保守的で、電子書籍に手を出すような人間には思えなかったからです。欧米の読書人の間で、電子書籍が急速に読者を獲得しているのはたしかでしょう。新書のような軽い読み物まではすべて電子書籍化してくれれば私個人としては有難いと思っています。新書やエンターテイメント系の小説、ある程度読み飛ばせる本は電子書籍で、長くて本格的なものは紙の本で、という具合にいずれみんな読み分けるようになるんじやないでしょうか。

立花 サイエンス系の教科書は分厚くて重いから、電子書籍で済めば、ぼくとしては有難い(笑)。しかも電子書籍だと、改版されたとき、簡単に中身を差し替えることも可能です。これまでぼくはけっこう重量級の教科書を新たな版が出るたびに買っていたんですが、やっぱりカサばる。ただ大きな図版は、いま出回っているビューアーの画面サイズだと全体像を一度に表示できない難点があります。ビューアー自体、もう少し大きくする必要があるでしょうね。ただ、それも時間の問題で、もっと利用しやすい形態で、もっと高精細のビューアーがどんどん出てくるだろうと思います。

紙の本から電子書籍への移行も劇的変化ですが、過去をふり返れば、スクロール(巻物)からコデックス(冊子本、綴じ本)への移行も書物史の中では革命的な出来事でした。『読むことの歴史』(ロジェ・シャルティエ、グリエルモーカヴァッロ著 大修館書店刊)を読むと、その辺の事情がよくわかります。たとえばコデックスになってはじめて本にタイトルを付けるようになったとか。写本から活版印刷への移行も本の形式に大変化をもたらした。本に目次や索引を付けるのが二般的になったのも活版印刷が登場した後です。

石田 いまアップルのiPadなど、スレート(石版)型のデバイスが出てきていて、それはそれで便利ですが、コデックスの備えている機能はなかなか捨てがたい。むしろスレート型デバイスの登場で、コデックス型の利点があらためて認識できるようにもなりました。

立花 ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』という十五世紀パリを舞台にした小説に、「コレがアレを殺す」という有名な章がありますよね。そこにノートルダム大聖堂の司教補佐クロード・フロロが、印刷されたばかりのグーテンペルクの印刷本と寺院の大伽藍を比較して、「コレがアレを殺すだろう。書物が建物を」とつぶやく場面が出てきます。グーテンペルクの活版印刷が登場したからといって、それで建物が消えることはありませんでしたが、大聖堂に象徴されるキリスト教が絶大な権力を振るっていた中世は終った。写本に代る印刷本という新しいメディアの登場が文明の交代を促したわけです。いま、これまでの印刷本に代る電子書籍が登場して普及しつつあるわけですが、十五世紀と同じように、「コレがアレを殺す」ことはありえるんでしょうか。

石田 iPadのような電子的なスレートが、己アックスを殺すのか、ということですね。いま立花さんがおっしやったように、実際にグーテンベルクの印刷本がノートルダム大聖堂を殺すことはありませんでした。メディア史研究でも一般に、古いメディアを新しいメディアが完全に乗っ取ってしまうとは考えられていません。広く受け入れられているのは、成層論、つまり、新しく登場するメディアが古いメディアを完全に消し去るわけではなく、層が堆積していくように、各メディアの関係が変っていくという説です。これまで新しいメディアが登場するたびに「コレがアレを殺す」という議論がくり返されてきましたが、スレートとコデックスの関係だけでなく、テレビ、ラジオ、映画などマルチメディアとの関係についても考えなければならないと思うんですね。マーシヤル・マクルーハンは、活版印刷技術が生みだした文化圏としての「グーテンベルクの銀河系」による文明がまもなく終焉を迎え、テレビに見られる視覚優位の電子メディアによる文化圏の到来を予見しました。しかし、実際にいま見られるのは、マクルー(ンが描いた未来像より複雑な状況です。たしかに電子メディアは世界を席巻していますが、活字メディアの中心的役割を果たした文字が消えてなくなったわけではなく、むしろインターネットの登場で文字が復権してきたともいえます。ただし文字は復権したけれども、紙の上の文字においてではないという点が状況を複雑にしているわけですが。

立花 たしかにメール、メッセンジャー、ブログ、ソーシャルネットワーキングサービスなど、ウェブ上のいたるところに文字が躍っている。インターネットの登場で、人類がやりとりする文字量は爆発的に増えたことは間違いありません。

石田 特に、何かにコメントを付けるというのが、インターネットでの発信活動の柱の一つですよね。記事、動画、写真、音楽などに対して多数の閲覧者がコメントを付ける。それによってウェブは成り立っています。動画共有サービスのニコニコ動画なら再生中の動画そのものにコメントを表示させることもできる。しかし、現状では、コメントのつけ方に秩序が確立していません。私はそれがインターネット上で起る問題の背景にあると考えています。

立花 ウェブ上で、あるメッセージなり、コンテンツなりにコメントを付け加えるとはどういう行為なのか。それは紙の本で言えば、注釈とか脚注を付ける行為に非常に近いと思うんです。注釈の付け方には、意見の表明、引用、参考文献の例示などいろいろある。フランスのポンピドゥー・センターのグループと共同研究で、注釈のカテゴリーの洗い出しをしているところですが、いずれはそこで得られた成果をソフトウェアの開発に活かしたいと考えています。
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