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「自分中心」になれればプラスの実感が増えていく

『「なりたい未来」を引き寄せる方法』より もっと自分中心で生きでみよう

自分のなかにある無数の材料のなかから、どんな言葉をチョイスするかは、自分の意識によって決まります。

人を敵だと思っていれば、人を攻撃する材料しか見えません。人の心に無知であれば、どんなに善良であっても、自分を守る材料が見えないために、傷つく結果となる

それが目の前に存在していたとしても、「意識のベール」がそれらを覆い隠してしまうのです。

だから、先の母娘の例でいえば、肯定的なコミュニケーションの言葉を知識として知っていたとしても、まず、こんな言葉を使う場面すら、見えないのです。

いま見えないものは、未来においても過去においても見えません。だから過去においても現在においても未来においても、「固着している情報」を塗り替えないかぎり、似たような言動パターンで動き、似たような状況が起こり、似たような結果になるということなのです。

たとえば、あなたは職場で自分の能力を発揮したいと思っています。

けれども、実際の職場があなたの目には、

「上司が私の能力を低く見ている。上司が私の意見を聞いてくれない。同僚が私の足を引っ張る言動をとる。同僚が自分の仕事を私に丸投げしてくる。後輩が私の言うことに従ってくれない」

というふうに映ります。

こんなふうに相手の言動に目を向けて「他者中心」的に考えてしまうと、

「私のまわりには、私のじやまをする人ばっかりいて、自分の能力を発揮することができない」

というような気持ちになってきて、やる気が失せてしまうでしょう。

こんなとき、「自分中心」的な考え方ができる人であれば、まず「それぞれの問題」を分けて考え、それぞれの問題に対して一つひとつ向き合って、丁寧に解決していこうとするでしょう。

上司が「私の能力を低く見る」かどうか、それは上司の自由だ。

上司が「私の意見を聞いてくれない」。これに対して、具体的にどうやって解決していこうか。

同僚が「私の足を引っ張る」。これに対しては、具体的な問題が発生したときに取り組もう。

同僚が自分の仕事を「私に丸投げしてくる」。これに対しては、自分が引き受けていいところとそうでないところをはっきりと意思表示しよう。

後輩が「私の言うことに従ってくれない」。コミュニケーションが足りないのかもしれない。もっと具体的に話し合ってみよう。

こんな姿勢で臨めば、必ず結果もよくなってきます。

なぜなら、解決に至るまでのプロセスのなかにこそ、プラスの実感や力強い手応えの実感があるからです。

もしそうやってプラスの実感を積み重ねていれば、あなたは「まさか」と思うよりは、

「そういうことだったんですか。うまくいったのはたまたまだと思っていたのですが、プラスの実感がプラスの結果を招く、ということだったのですか。これで謎が解けました」

などと言うにちがいありません。

実際に自分の望みをかなえて満足している人や幸せな人、充実した生活を送っている人たちは、この「意識の法則」を経験的に知っているのです。知っているからこそ、順風満帆の生活を送りつづけているのです。

「しなければならない」や罪悪感から解放されて自由になればなるほど、プラスの実感や充実感を覚えるようになるでしょう。

いま感じているあなたの実感が、増えていけば増えていくほど、未来は保証されたも同然なのです。

まさに私が「自分中心心理学」で唱えているように、「自分中心」の概念は、誰もが必ず経験し実感していくだろう「人類の進化」なのです。身のまわりに起こる出来事はすべて「心の反映」

人は見ようとしないものは見えません。みんなが同時に同じ光景を見ていたとしても、それをどう見るか、どう解釈するかは、個々それぞれです。自分の関心があるところしか見えないのです。

だからこそ、自分に起こっていることは、すべて「私の心の反映」だということができるのです。

自分を中心に置くと、自分の身辺で起こることは、すべて自分の意識を反映しています。そういう意味では、自分の身辺に起こっていることはすべて、「自分を知るための情報」だといえるでしょう。

自分を中心にした視点に立つと、環境や出来事のなかに、自分がいるのです。

私たちは、自分の顔を見ることができません。

鏡に映る自分を見たり、写真に映っている自分やビデオを見ることはできますが、そこに映し出された自分が、「本当かどうか、じつはわからない」という立場に立っているのが私たちなのです。

自分を知るには、起こっていることでしか判断できません。そのときどきに起こる出来事やそれぞれの場面のなかに、自分の片鱗を見ます。それですら、表層的なものにすぎません。

顕在意識の世界と無意識の世界とでは、見えるものが大きく異なります。こんな無意識の世界にまで領域を広げるならば、あらゆる視点から自分を見ることができてもなお、自分の全貌は見えてこないかもしれません。

この世界は、誰もが、自分を知るためにある。「神は、あらゆる自分を知るために、あらゆる角度から自分を映し出すものとしてこの宇宙を創造した」といわれますが、そんな宇宙の存在理由と、私たちのホログラム世界の存在理由とが相似形のように重なって感じられて、私には、私たちという存在が、とても尊く思えてくるのです。
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