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ヘーゲル 歴史と絶対者--善悪なき進歩?

『哲学は何を問うてきたか』コワコフスキより

歴史と絶対者--善悪なき進歩?

表現は違っても、これはヘーゲルが取り組んだ問題でもある。ヘーゲルの目論見は絶対精神の歴史がもつ意味を完全に発見することだ。絶対精神は自身の究極的な完成に向かう進歩の過程で欠かせない道具として人間文化の歴史を用いる。こうして、存在が進化していく発端である(このことはヘーゲルにとって議論する必要がないほど紛れもなく明らかな真理)と同時に存在の進化がいたる目的でもある絶対精神の歴史が、完全な統一性を達成する過程を構成する要素に人類の歴史がなる。このような統一性を達成するために、絶対精神は自身と自身による認識の対象との間にある壁を壊さなければならず、認識の対象を完全に同化することによって両者を隔てている距離を解消しなければならない。なぜなら、認識の対象が絶対精神にとってよそ者だとしたら、それは偶然的なものということになり、ゆえに絶対精神を制約することになるからだ。絶対精神はすべてのものを包括しなければならない。つまり、すべてでなければならないのだ。これもキリスト教神学から受け継いだ問題である。神は神自身のうちに神自身を通じてすべてを把握しており、神から切り離されたものが神の外部にあるとしたら無限であるべき神を制約することになるのだ。歴史の苦行を通じて、絶対精神が存在の偶然性を廃して(しかし存在の多様性を破壊することなく)存在を完全なまま吸収し存在と同一化する時のみ、必ず完成に向かうように予め定められた進歩の過程が究極目的を果たして終わる。この進歩は、カントの哲学における進歩とは異なり、無限に続くことはありえない。もし永遠に続くなら、覆われるべく残された地面はずっと同じ状態のまま--つまり無限に長い--ということになり、実際には進歩が全く起こっていないことになるからだ。ゆえに、絶対精神の進化は終わりがなければならないのだ。

この進化は、到達した一つ前の段階を常に否定し続けることを通じて起こる。否定が継続することでそれぞれ前の段階が廃され、遅かれ早かれ新たに到達した形態も破壊される。しかし、前の段階は破壊されても完全に消滅するわけではない。次の段階でも前の段階における豊かさは保持されるからだ。

われわれがこの過程を理解できるのは、理性を持っているからだ。理性は存在の進化を認識するだけでなく、それ自身が存在の進化を構成する要素でもある。そうだとすれば、理性自体が絶対精神の道具として変化しうる相対的なものだということに当然なる。言い換えれば、世界や世界内部の物事に対するわれわれの認識は、常に世界を構成する部分であり、世界と独立に存在するものではない。このことがもたらす帰結として考えられることは、存在が完全な究極形態を獲得するまでは、真理を普通の意味では全く主張できないということである。せいぜい、歴史に応じた正統性を主張できるだけなのだ。これは、認識に対する態度の変化を示している。念頭におかれていることは--少なくとも、存在が完全に偶然性から解放され、意識がその対象と統一され、絶対精神の無限性が完全に実現するまで--われわれの思考それ自身が外部の観察者や立法者ではなくわれわれの思考が対象とするものを構成する要素であるという事実に、われわれが気づくということだ。

このように、永遠に妥当すると想定される理性の抽象的な法則を通じて理性を定義することはできない。しかし、世界が、進化の過程でもっと高度な状態に進歩していくことに伴って、ますます合理的になっていくということは確信できる。世界の宿命は、理性に満ち溢れていくことで実現していくのだ。ヘーゲルの最も有名で最も頻繁に言及される金言は、現実的なものは合理的であり合理的なものは現実的であるというものだ。この物議をかもす見解は、通常の基準で判断してどんなに受け入れがたくても、最も恐ろしい形態でさえもまさにそれが存在しているゆえに是認すべきだという根拠に基づき、実際に存在している社会制度や政治制度すべてには合理性があると認めなければならないという憂鬱になる指示だと解釈されてもきた。これは、全面的な無気力を求めるものになりうるのだろう。しかし、このような解釈は正確とは言えないのだろう。なぜなら、まず確認しなければならないとヘーゲルがまさに述べていることが、進化の各段階で観察されると考えられるものはその没落が差し迫っているから存在していることであり、実在しているように見えているだけで実際には必ず進歩をもたらす避けがたい力によっていつでも追い払われてしまうことであるからだ。しかし、ヘーゲルは、このことをどのように確認すればよいのかを教えてくれたりはしない。存在するすべての段階が必ず消滅することはわかるが、見えているものがなお歴史的に十分な存在根拠をもつものなのか、すでに時代遅れになったもう食べてしまった御馳走の記憶なのか、確定する手段はない。特に、抽象的な道徳原理に基づいて、言い換えれば、現実化していないが望ましいとわれわれが考えること、つまり理想的な世界についての考えを持ち出すことによって、このことについて断言することはできない。ヘーゲルはこのような道徳主義的な世界の見方を無意味なユートピア建設だとして拒絶する。出来事の継起は不可避でわれわれには変える力がなく、試みる意味もないのだ。ゆえに、最終的には、単に存在しているという理由で存在しているものを是認する行為が、最善で唯一合理的な道筋なのだ。
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