歴史ある建築物や神社仏閣、古民家などに使われている建築材を見ると、今では目にすることが出来ないほどの巨材が使用されている。それらは幾度となく目にした数十年のそれらとは比較できないことは分かるが、それを言い表す言葉は見つけられない。
今、大工を生業をしているK君とはかって短い期間だったが同じ釜の飯を食った。彼は古民家をはじめとして木造りの家に心を寄せ、研鑽している。彼が仕事として手がけた家をはじめ、それに付帯する仕事への取り組みなどについて、ブログから「木造り」の素晴らしさを学ばせてもらっている。
彼は、木が生かされ、木が喜び、木が役目を終えた後で再び息吹を与えようと工夫している。小さな端材にも生を与える工夫など、その発想に驚くことがある。それだけに原木買いつけ時のブログからは厳しい眼力と木への愛着を感じる。美術家の審美眼を感じさせる。
枝打ち、それは樹木の発育を促すため下枝や枯れ枝を切り落とすこと。特に、節のないよい材木を得るために行う作業。枝打ちの知識としてはこのくらいのこと。実際にその作業を目にしたことはない。ひと枝切り落とされるたびに、霧のようだがキラキラとした柔らかい光が薄暗い地面へ届く、そんな映像を見るといつも、いい光景だと嬉しくなる。
枝打ちされた杉の木を見上げながら、中山間地域の諸問題のひとつに林業の衰退があることを思い出す。彼は輸入材に頼らず、その土地の木を、その土地に活かすことが木の命を活かし、木を喜ばす方法という。材木の地産地消の基本かもしれない。心から木を愛する大工職のいることを、見上げている杉の木に話した。
(写真:この杉はどこに活かされていくのだろう)
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