宗祖親鸞聖人 降誕会法要にお参りした。雨にも関わらず多くの門徒のも皆さんが集う。報恩講以来の顔合わせの方もあり「元気でしたかいのう」の会話があちこちで聞こえる。
讃仏偈(さんぶつげ)を読経のあと法座が始まる。法座はいつ聞いても感銘する。降誕会では「諸行無常」、無常とは「栄えるものはみんな衰える」と思われているが、その逆も無常という。無常とは「常に移り変わる」ということが本当の意味だ、と解かれた。
「老」の字について聞くと「年とった人」という答えが返る。老は本来「敬う」という尊敬の意味を持つという。大老・家老・老舗・敬老・老熟・老練などいくつもの日本語がある。老は経験をつみ様々なことに関して巧みな知恵をつけてきた。それが「老」の本来の姿と説かれる。
では老が敬われなくなったのはなぜだろう。昔は何かを教わるのは老からだった。今はネットや書籍中心に変わった。例えば育児や離乳食は義母から教わり、そこから和も生まれた。老は増えたがその力の使い場が不足している。
降誕の法座に促されたのか、先日植えたゴーヤーに花が咲いた。径1センチあまりの黄色い花が1輪、これが実の1号になるのだろうか。梅雨の雨と勘違いしたのか、鉢植えの紫陽花、これもひと花開き始めた。色は薄い青色だが小さな蝶がとまっているようだ。
説話の中に「付くべき縁があれば離れるべき縁もある」という1節があった。縁あって咲いたこの花、どんな無常を越えていくのだろうか。
(写真:紫陽花<左>とゴーヤ<右>の初めての1輪)
縁を大切にしたいですね。これからも、いろいろ教えてくださいね。
それにまつわる素敵なブログ、朝開いてみて、大きな得をした気分で読み進みました。
失われつつある人間味とか人と人とのつながりの大切さ、など多くを学ばせて頂きました。
アジサイもゴーヤも見事に花開くことでしょう。