時代が変わり制度が変わり生活様式も変わり、それにあわせて町も姿を変えさせられる。仕方ない、変化へ順応しなければ生活していけなくなる、取り残されてしまう。
そんなひとつに町の名前がある。横山側から錦帯橋を渡った岩国側には、1600年頃(慶長年間)の町割りによって造られた城下町の町並みが残っている。ここは。岩国城に向かう縦方向の道幅約4.5m、横方向の道幅は2.7mとほぼ統一された基盤の目のように作られた、と書いてある。
子どもの記憶で最も栄えていたのが本町、そこは玖珂町、柳井町、鍛冶屋町、塩町と呼ばれる区分けがあった。本町は一時、銀座と称し1から4丁目まで区分けされていた。祭りには動けないほどの人出でにぎわっていて。
この城下町一帯は「丁目番号」制度で「岩国」ひとつにまとめられた。それで道を尋ねられると困ることが多い。旧町名がこの歳になっても浸み込んでいる。
古い町名を忘れさせないと、歴史町名を記した表示があちこちに取り付けてある。どの表示も板は黒ずみ墨も薄れ読み辛くなっているが、昔を知るものには懐かしい。城下町らしいものが沢山残っており、また 伝統的建造物も各所にある。これらの保存について検討されているが、問題は多いという。
(写真:歴史町名を記した木の札と城下町の図面<webより>、ちなみに本町は2、3、7、9)