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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

鏡開きの真似

2025年01月11日 | 回想

 使っている手帳に今日11日は「鏡開き」と載っている。広辞苑では「正月11日ごろ鏡餅を下げて雑煮・汁粉にして食べる行事」とある。もうひとつは 酒好きの方向きに「祝い事に酒樽のふたを開く」とありこの方が喜ばれるだろう。祖母は鏡餅で善哉を作っていた。そのころは家族も多く大きな鏡餅で作っていた。

 母も受け継いだが、次第に家族がへり普通の餅を使うようになった。私が結婚してからは妻が続けている。今は広辞苑に載っている通りの善哉か汁粉を作っているが、夫婦二人では小さな鍋で済む。子どもころの見ていた大鍋はどこかに消えている。

 鏡開きで思い出すのは息子が剣道を習っているころ。近くの公会堂が練習場だった。鏡開きの日は子どもらは練習、母親らは隣の炊事場で善哉、大きな鍋で作り、練習が終る頃に炊き上がるように準備していた。父親には善哉会への案内は届かなかったように思うが、鍋や食器類の運搬にだけ声掛けがあった。だから味の記憶はない。

 今朝も最低気温はマイナス、朝方は少々風もあり体感温度は低い。我が家の今年は汁粉だった。所用で出かける私の都合に合わせ、妻は朝食後まもなく作り始め、熱いうちに頂いて徒歩で出かけた。内からの温もりで所用を済ませられた。

 (今日の575) 餅を喰う焼いた焦げ跡香ばしい

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今日は良寛忌

2025年01月06日 | 回想

 たまたま調べたいことがあり、古い本に載っていたことを思い出し取り出した。1991年3月の発行なので34年前の古い本、私的には捨てがたい800頁ほどの1冊で、薄いクリーム色の紙はあせた様子もなく生き生きとしている。用を終え、この本の下段のある出来事カレンダーの今日をみた。

 「良寛忌」が目に付いた。江戸時代後期の曹洞宗の僧侶・歌人・書家などであり、諸国を行脚されたことなどよく知られている。1831年忌日とある。ほかに昭和60年の東海・関東地震で大阪で16年ぶり進度、1㌦が200円台突破など、米国では1987年日本の貿易黒字減らし法案がだされた。面白くよんだ。

 これは別資料で、今日は「世界の戦争孤児の日」という。こうした日のあることを初めて知った。これは、フランスのある団体によって制定され、「戦争によって親や親戚などの保護者を喪った子ども達=戦争/戦災孤児が社会的に弱い立場に置かれ、人権が保障されていない問題を知り、考えるための日」とある。「戦争という負の連鎖を断ち切り、全ての人の権利が保障される世界にするため、私たちにどんなことができるのか一緒に考えませんか?」と問うている。

 昨年のマイブログを繰ってみた。小寒の入り。山裾の道で、真っ青な空を背景に枯れた葉をつけた大きな枝が陽を浴びていて、枯れた木も山の風情の一つ、と言いながら、枯れ葉の功罪を書いている。書いていれば何か残る、ブログもいいことがある。ブログトラブル今日も回復待ちで、控えの原稿を残している。

 (今日の575)争いを好まず出家諸国行く
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献血・輸血の重要性

2025年01月05日 | 回想

 世の中は明日が仕事始め。なのに献血を呼びかける採血車3台が並んでいる。世の中の活動再開に先駆けて仕事中、人の命を繋ぐに欠かせない仕事、年始だ何だと言ってはおれないのだろう。頭が下がる。ここでは日曜日に採血車が定期的に来ていつも3台並んでいる。今日は人出の影響か、採血する人の姿は見かけなかったが、いつもは何人も見かける。

 採血は何十回しただろう。回数を重ね日赤から何回か記念品などを頂いことがある。最初の経験は献血と言わず「預血」という時代から始めた。それは知人の手術で必要だった。しかし、予定した手術で預血カードが不要になり、手持ちしていた。近所で輸血が必要な人から相談があり、カードを使ってもらった。

 姪が野犬に追われ小川に転落、頭蓋骨の手術を受けることになった。輸血が必要、それも鮮血輸血という。諸検査を受け私の血液を提供することになった。手術中は隣の部屋で待機。いざその時はベッドを高くしヘッド差を利用し床面で採血、スート抜けていくのが分かった。

 現役のころの休日の話もある。休日出勤で仕事をしていたら独身寮の管理人から「寮生が入院、病院から緊急輸血の要請が来た」と連絡が入った。人事課員の私は3つの独身寮に連絡し、血液型を問わず在室の全員に病院への急行を依頼した。多くの寮生が駆けつけ手術は成功した。献血年齢を大昔に越えたが、輸血の重要性は認識しており、手術の成功例から献血の重要性を改めて思いなおす。

 (今日の575) 献血が出来る健康幸せだ
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ミカンのころ

2024年12月22日 | 回想

 ミカン、みかん、蜜柑、どれを使うのが正しいのだろうか。辞書では「蜜柑」となっている、が、使い方は、使う人のその時の気持ちや状況などによって使い分ければいい、私はほかの言葉でもそう思って漢字や仮名に使い分けしている。まさか文意から未刊に未完に味感などと間違いは起きないだろう。

 今はそんなミカンの季節で県内にはブランド品の「大島みかん」がある。極早生は9月下旬から10月、早生は11月、中生・普通は11月下旬から1月、高糖系は12月から2月中旬まで出荷、品種によって異なっているが、いつの出荷の物でも美味いことに間違いなしだ。

 若いころ、大島大橋など夢のころの話し。職場責任者の実家が大島のミカン農家、ということで誘われるままにミカン狩りで何度かお邪魔した。ミカンは食べ放題、昼食は地元料理を腹いっぱい、土産はもぎたてのミカンを持てるだけ、帰りは連絡船乗り場へ見送りしてもらう。ミカン狩り料金はご両親へのわずかなお土産だった。スーパーなど無い時代、買う時は近くの小売店時代の古いお話し。

 初めて公開するミカン狩りの極秘情報。好き放題に採ったミカン山は出荷用のミカンを収穫するミカン山で、観光農園のそれとは別という。出荷用の山は陽当たりや潮風の向きなど商品としての厳選に耐えるので、素人さんは絶対に入れないということだった。さて、今もそんな区分けがあるのだろうか。

 (今日の575) 指先がミカン色して一休み
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しち・ご・さん

2024年11月15日 | 回想

 「七五三」と書いて「しち・ご・さん」と読む。ずいぶん昔に教えられたがつい「ひち・ご・さん」と言っている。祝儀に用いる数の中の三つをとったもの、いう意味もある。そうだが、庶民的には「男子は3歳と5歳、女子は3歳と7歳とに当たる年の11月15日、つまり今日は氏神に参拝する行事」の日に当たる。

 我が家の七五三は孫の3歳の時が初めて。今から20年以上前になる。これが孫新聞創刊号の記事になっている。創刊後からそのころの様子がわかる。少し早く10月19日(実際は2歳10カ月)に済ませている。着物はママの選んだ物で初めて着たこと、平仮名が読めます、ママとパソコンで楽しく遊んでいます、11月にはパパとママと3人でディズニーランへ行きます。着物姿と赤い自転車に乗る写真を載せている。

 先日の日曜日に、親子とも着飾って手を繋ぎ氏神様への長い石段を、1段1段ゆっくりとした歩調で上っていく2組を見かけた。この神社は車で社殿の傍まで行けるが、こうして一足一足踏みしめて上ることが、先々で何かを生み出す糧になるだろう、どこのどなたか分からないのに、そう思いながら後ろ姿にエールを送った。

 写真館で撮った孫3歳の宮参りの記念写真、それを見ながら嫁から聞いた話を思い出す。小学校入学、7歳の宮参り、小中高大の各卒業式など記念写真の時期には必ず誘いがあったという。そうか、カメラが普及した今ならではの商い術だと思った。待っていては何もやってこないのだ。

 (今日の575) 石段を上る親子の七五三
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高卒の採用試験

2024年09月16日 | 回想

 来春高校卒業予定者についての採用試験が始まる報道を見て思い出す。まず、所定の様式でハローワーク(職安の呼称がなつかしい)で求人票の確認をうける。次いで求人依頼校へ求人票などを送付する。その後、送付の各校を訪問し、進路指導の先生へ諸説明をし、生徒の推薦を依頼する。中国・九州の各校を訪問したことを思い出す。

 試験の前日、遠方からの応募者は前泊とする。各地からの応募者はいづれも初対面、緊張気味だが、テーブルに食事が並ぶと緊張は解け元気な食べっぷりに毎年ホッとした。試験が終わると前泊者は車で最寄りの駅まで送り、各校に終了を連絡する。さて、それからの関係者による選考会議から採用者を内定する。結構な作業になる。

 採否を決定する。不採用となった応募者の学校へその説明のために訪問する。その時の気持ちを退職後書き残している。その一節、「巣立ちの前に、厳しい現実に遭遇させる役目を恨み、新しいチャンスが与えられるように願いながら校門をくぐった。あの時の生徒たちが、いま次のチャンスを活かしていることを信じる」。

 こうした選考で最も注意し気をくばったのは、関係機関からの指導もあったが「公正な選考」だった。そのことが、重い気持ちでの不採用説明の学校訪問でも、自信を持った説明に至ったと思っている。最近は高卒の就職希望者は大幅に減り、人出不足の深刻さは大きなニュースになるほどだ。採用担当者の苦労は大変だろう。

 (今日の575) 面接の握りこぶしが目に浮かぶ
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てっぽう草の音

2024年09月15日 | 回想

 何年か前の川土手法面での話しから。鎌を使って腰くらいに伸びている雑草を刈っている人を見かけた。こうしたところの草刈りは除草機を使うのが当たりまえだろうと思いながら「綺麗になります」と声を掛け、「鎌ですか」と問うた。手を休めて「ヤギの餌にするため刈っております」という答え。聞くとヤギが好んで食べる草を刈っているという。

 その草は、子どものころに遊んでいた草で「てっぽう草」と呼んでいたが、正式な呼称は今も知らない。てっぽうのいわれはこうだ。手の親指と人差し指で輪を作る。そこにてっぽう葉を置き、葉の中央部分を指で軽く押さえ窪みを作る。指の輪を作った反対の手のひらで窪みの上を思いっきり叩く。その時、輪を作って手が下がらない力を入れて支える。

 叩かれた窪みは「パン」という音を発する。叩いた手をのけると、草の葉の真ん中に穴が空いてる。パンという音は押された空気の圧力で穴が空く。空気が逃げ去った跡になる。誰の音が大きいか、そんなことを競い合った。遊びの道具などない朝鮮戦争勃発より前の古い古い話し。

 「ヤギにこの草(てっぽう草)を食べさせると乳がよく出る」と教わった。飼育したことはないが、鎌を使われる姿から幸せなヤギだと思った。散策道のある1カ所に不思議なほどの面積で茂っているてっぽう草を見て思い出した。

 (今日の575) 雑草も遊びのためにゃ工夫する
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アロエの力

2024年07月25日 | 回想

 近所のアロエが元気に色濃く茂っている。もう何十年になるだろうか、アロエが茂ると思い出すことがある。それは知人が「かっちゃん(知人は私のことをこう呼ぶ)、気づかんじゃろうが髪が薄くなりよる、何か手当した方がええでよ」と飲みの席で教えてくれた。それほど気にしないまま時間が過ぎた。

 知人は親からの仕込みで健康と髪を保つための実践として「アロエ」を毎日2~3㌢食べる。一家全員が髪の抜けなどを気にしないでいるという。確かに知人のふさふさで黒々とした髪は素晴らしいと思う。先日も出会ったが、年相応ではあるがふさふさで黒い髪は昔とあまり変わらない。

 「アロエを食べる」、その忠告をその時から実践していれば今の薄い薄い頭頂には至らなかったのではと悔やむことしきりだ。何かしてしまったと後で悔やむことを「後悔先に立たず」というけれど、私のように何もしなかったので今を悔やむのは何と言うだろう。

 当時、我が家の狭庭に鉢植えのアロエは何個かあった。 繁殖力は凄いので毎日口にしても何の支障も起きなかったのに、頭頂が薄くなることをそれほど気に掛けなかったことが今日の姿となった。CMでは効果即効が幾つもあるが、ここまで歳を重ねたので自然に逆らわないで済まそうと思う。1週間で効果、そんな夢はまだ見ていない。

 (今日の575) 薄くても理髪料金変わりなし
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あの時の涙

2024年07月16日 | 回想

 備え付けの新聞を読んでいるとある会話が聞こえてきた。近くの席で話し込んでいた女性連れの一人が涙声で「もらい泣きして涙が止まらんかった」言う。もらい泣きしたその内容は分からないが、優しい人なんだと思いながら自分はどうだろうと考えた。そうした場面に幾度も遭遇したり立ち会ったが、薄情なのかもらい泣きの記憶は浮かんでこない。でも涙に心を痛めたことはある。

 その涙は20代半ばのころの事だが今も記憶に残る。父は、病身な母と長男の私と弟妹3人を残して現役で急逝した。これからどうする、長男としてそればかりが気になった。葬儀を終え家族が落ち着きかけたころ「親が死んでも涙を流さん」という噂が耳に入った。これは世間がくれた試練だ、そう思い新しい生活を模索した。

 四十九日の法要を終えた夜、「安心してくれ、やっていける」、自信を確かめるように床の中で父に伝えた。不意にほうを熱いものが、「自分にも涙がある」そう思うと嬉しくてぬぐうことが出来なかった。泣けなくてつらかった、その思いはこの時に消えた。「泣きたいときには泣けばいい」という。でもそうならないこともある。

 あの涙から間もなく60年。うれしい涙も哀しい涙も何度かあったかもしれないが強く記憶に残っている涙は思い出せない。涙は人間らしい感情の表れという。血も涙もない人だけにはなりたくない。

 (今日の575) 頬つたう熱き涙に涙した
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氷の思い出

2024年07月10日 | 回想

 暑い季節になると冷たい物の購入が増える。スーパーには商品を家まで持ち帰りのための氷が準備されている。その氷ボックスに掲示が出ている。内容は「お買い上げいただいた商品に見合った量の氷をお持ち帰りください」。その昔は見かけなかったように記憶する。レジャーという言葉が一般的になったころから様子が変わってきたように感じる。

 購入商品の持ち帰りとは思えない氷の盗り方を時々見かける。最も驚いたのはレジャー着姿の男性がクーラーボックスに氷を入れている。順番待ちで眺めていると、罰悪そうにクーラー半分ほどで立ち去った。よくない事とは分かってやっているとしか思えない。スーパーの店員から注意されるのも見たことがる。

 私の高校時代、当時もっとも高額なアルバイトの日給は350円だった。仕事は暑い夏休み、1貫目の大きさの氷の塊を自転車に積んで配達する。当時は今のような冷蔵庫ではなく、厚目の木の板で作った箱に銅板を張ったもので、箱の最上段に氷を置いて箱の内側を冷やしていた。今は想像すらしにくいだろうが、氷は昔から夏の生活に欠かせない貴重品だった。

 そんな氷の塊を買いに行ったことがある。父の葬儀の日は残暑の厳しい日だった。家庭葬の時代、お世話いただいた近所の人に飲んでもらおうと風呂に水を張り、氷の塊を2個入れてビールやサイダー、ジュースなどを冷やした。葬儀の手伝いを仕切られた人が「ええ考えじゃった」とひと言発し、グラスに注いだビールを一気に飲まれる喉の動きは今も目に焼き付いている。
 
 (今日の575) 氷塊に頼りしころの懐かしく
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