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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

さよならポケベル

2019年09月30日 | 回想

 記憶から消えかかりそうなポッケトベル、略して「ポケベル」と呼んだ。今風に言えばスマートホンを「スマホ」、携帯電話端末を「ガラケー」と呼ぶ。これはガラバコス化した端末の通称になった。ガラバコス化した理由は、国内で生産された携帯は機能や性能があまりに独特で世界基準から外れ海外進出が困難だったという。

 携帯電話の無い時代、会社からの緊急呼び出し、あるいは社外にいる同僚に至急な連絡事項が発生した時などに、あらかじめ設定している固定電話に掛けたりかけさせたりする約束で持っていた。何度か受信したり発信したが、ゴルフ場は山間地のためか応答の無いこともあり気があせった記憶はあるが、当時は便利な連絡手段だったが、携帯電話に変わりベルトからさよならした。

 そんな思い出あるポケベルが今日でいよいよサヨナラという。現在は関東地区で1500人の利用者数というが、これからの通信連絡手段をどうされるのだろうか、人ごとではあるが気に掛かる。現役時代、夜は枕元に置いて寝たことを思い出す。固定電話に連絡するより、情報を本人に届けるには確実な手段だった。

 ポケベルが高校生など若い世代の連絡手段して重宝されたという。言葉を数字に置き換えて楽しんだそうだ。「0833はお休み」「10105は今どこ」「49は至急」などスマホの化け文字と変わらない使われ方に、若い人らの感覚はいつの時代も変わらないようだ。また一つの時代が終わり5Gの時代に入る。さてスマホはどんな進化を見せるのだろう。
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つえぬけ

2019年07月03日 | 回想

 次々と発生する線状降水帯は九州各地に千㍉を越す雨量をもたらしている。このところ毎年の様に続く九州での地震、台風、豪雨などの自然災害による被害は、どこまで予防策を講ずれば防げるのだろう。特に人命に関わる方策は最優先で手当てして欲しい。

 注意喚起では「土砂災害から身を守る」ため早めの避難、それが出来ない時は山の斜面から少しでも距離のある2階などに身を寄せるよう呼び掛けている。これまで台風や大雨で山崩れが発生、斜面を引っ掻いたような土色の跡を何度もみた。最近は映像でその恐ろしさを身近に感じており、早めの避難が大事なことを知る。

 子どものころ、山が崩れることを周囲の大人は「つえぬけ」と呼んでいた。「あそこの裏山がつえぬけ」そんな話で見に行ったこともある。「つえぬけ」は方言かと思ったら消防科学センターの資料に「山が落ちる、山やがけなどが崩れること」と説明があった。つえこむ(遺込)とは土などが崩れ込む崩壊するとある。

 つえぬけを目撃した父は、その勢いに身震いしたと話した。隣家は土砂が家の中に突っ込みつぶれた。わが家は風呂とトイレが持ち去られ、池が埋まり鯉が住人の身代わりになったが、流されて満水になった防空壕で何匹か助かった。山津波は場所を選ばず、土石流は河川を下流へと進む。明日まで続く雨予報、人命だけは奪うなと願っている。
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賞与のあれこれ

2019年06月28日 | 回想

 今日、国家公務員に夏の賞与が支給された、昼のニュースで知った。7年連続のプラスで平均35・5歳の一般行政職で約68万円という。賞与ともボーナスともいうが普通6月と12月に給与とは別に支給される金銭、民間では賞与の支給されない小企業もある。また、8月の盆に支給されところもあると聞く。何度貰っても嬉しいもので、現役時代、これで大型の買い物ができ、家庭内を明るく丸くする効果を担っていた。

 現役時代、賞与は4月から9月分を12月に、10月から3月分を6月に支給されていた。支給は厳しい査定、といっても査定される当人は何の関与もできず、何段階かの過程はあるが秘かに行われた。当人は支給金額を見てどの段階かを知る。それを納得するしかない制度、1度苦い経験がありその回復には涙が出た。

 今をさかのぼること何十年前、給与も賞与も現金支給だった。賞与は給与額よりかなりの増額になる。その現金を、社員千数百人分の袋へ入れる。ペアを組んで確認しながらの作業だが、支給額は袋ごとに異なりそれはそれは苦労した。総額が金種ごとに準備してある。1枚の過不足もなく机上から姿を消すと袋いれは終了する。数回経験したが、夫のそして父の威厳を保つ重要な仕事だった。

 そう、給与、賞与の現金支給制度は「誰が働いて家族を守っているのか」の権威付けの核だった。職場や金融機関の合理化が噛みあい振り込みとなり、給与明細持ち帰りと化した夫であり父となった。共働きが一般的となった現在では想像できない昔話だろう。我が家は、定年まで私が引き出し夕方に現金を持ち帰り、何とかその地位を保った。
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60年の月日

2019年04月10日 | 回想

 今日は、ご退位を20日後に控えた平成天皇のご結婚60周年の記念日。このころ、この地方でもTV電波が比較的簡単に受けれるようになり、馬車による記念パレードを多くの人が画面を見つめた。平民から皇室へという大転換の時をテレビは伝えた。その日は高校卒業して就職から10日目、交替勤務で映像はチラッと見ただけだった。

 その前年、1958年11月27日、学校で授業中にクラスの一人が「ちょっと授業を抜けます」と手を挙げた。教師が何事かと聞くと「皇太子さまの婚約の号外を配るため」と答える。彼が新聞少年であることをクラスの者は知っていた。号外は準備され販売店に届いていることになる。「号外を持ってくれるなら授業を抜けてよし」と教師は笑顔で許可を出した。

 そう長い時間ではなかったと思うが、皇太子明仁親王と正田美智子さんの婚約が決まったという号外を我がクラスは見ることが出来た。学校で最初に知ったと思うが、クラスの反応や、自身のその時の想いなどは悲しいかな、記憶に残っていないのは残念である。

 象徴の務めを果たされる陛下とそれへの敬慕と支える皇后の優しさで国民と触れあう姿には心を打たれる。また、平和を強く希求され言葉や振る舞いには、国民の安穏、やすらかに穏やかに暮らすことを望まれる姿を知る。平成も残りわずか、新元号をどう思われたか、ことばに残されて欲しい。
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せっく

2019年04月04日 | 回想

 子どものころの話になる。4月4日は「せっく」といい、隣近所が子どもからお年寄りまでが、敷いたゴザの上に車座に集い宴を開いていた。宴では、各家庭手作りの「料理」を重箱に詰め持ち寄る。それを食べながら楽しんだ。カラオケの前身かもしれないが、蓄音機から流れ出る音楽に合わせ歌ったり踊ったりしていた。

 今でいう桜の下で楽しむ花見に似ている。料理とは言うが、思い返せば毎日の食事に少々何かがプラスされた程度だった。それでも重箱を提げて喜んで参加した。そのことが集落や地域の交流や親睦となり、助け合う絆になっていたように思う。盛んに言われる災害時の共助は無意識のうちに醸成されていたのだろう。

 なぜ4月4日なのか教えてもらってはいない。考えてみると雛と端午の節句の中間ということで分け隔てないいい日だったかもしれない。節句は節日(せちにち、せつじつ)ともいい、季節の変わり目に祝祭を行う日という。人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)などの式日がる。せっくと地域交流、昔人の知恵は今にも通じる。

 新入社員が初仕事として花見の場所取り、今も続いているのだろうか。何十年も前、配属された学卒社員。命じられるままに、日の高いうちに出かけた。場所を確保したが、隣の宴席から一杯奨められ、そのまま寝入ってしまった憎めない話も肴にしたことがある。せっくも時が移れば中身も変わる。錦帯橋とそばの公園の桜は満開という。今週末は未だ花見が出来そうだ。
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似たようなこと

2019年04月02日 | 回想

 隣の席からおしゃべり、特に聞くつもりはないが聞こえてくる。話の内容は、失礼だが、しゃべっている人らが若いころ仕えた上司のあれこれ。相当に年数が経っていると思うが鮮明に思い出しているところを見ると、よほど腹に据え兼ねる人だったようだ。聞こえる内容に身にいくつか似た話があると思い出した。

 「例の資料できましたか」とある朝始業前に上司の最速があった。「今から作業します」という返事に、「今から始まる会議に使う資料、だから昨日頼んだ」という。確かに昨日指示された。しかし、それは午後8時をまわっていて、私が帰宅準備をしている時で、上司は宴席の帰りだった。反省、指示されたら「いつまでか」と締め切りを必ず確認する。

 ある検討テーマの進捗場を聞かれ「だいたい順調に進んでいます。ただ一つ〇〇さんの関係が送れています」、こんな返事をした。「だいたい」とはなんだ、と詰問で返された。おおよそと言えばよかったのだろうが、つい教養の無さが表に出た。先輩から「概ね」と答えたらよいと教わった。

 パソコンなど夢のころでも、エクセルなら苦も無く出来る資料を電卓を最新の文具として横に長い表を作る。表中の一マスの数値が変われば縦横再計算になる。まだできないのかと聞かれ「締め切りまでには完成させますから、もう少し待ってください」と答えた。根性悪なのだろう、今なら苦笑にも値しないことを懐かしんでいた。
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切り干し大根

2019年01月28日 | 回想

 いわれは知らないが「大根人参大嫌い」と子どもは食べることを嫌ったというが、大根を食べなかったという記憶は思い出せない。その時期には、大家族の我家には欠かせない一品だったと思う。その頃の我家では白だけでなく赤大根も作っていた。と言っても表面だけ赤紫で仲は白大根と同じ色だった、と思う。

 そんな大根、最近は買うよりも頂く方が多く、贅沢に食べている。煮る、おでん、酢もの、漬物、サラダなどなど、レシピ集を開くと古くから伝わる庶民の食材らしく無数の食べ方で出てくる。そして手が掛からず簡単な調理法が紹介されている。料理研究家だけでなく主婦の手作りアイディアがいい。

 貰って保存していた大きな白大根、それは両手で持つほどの太さと重さがある。姿は真円で真っすぐに伸びたいい姿をしている。包丁を入れるのが忍びない気もするが、食べられてこそ大根が喜ぶ、と切り干し大根を作るため包丁を入れる。切れ端をひとつ口にすると、水分たっぷりで甘みのするそれは、美味い切り干しになりますと宣誓しているように感じる。

 子どものころ野菜は自家製だった。大根の時期には母と祖母が切り干し大根作りに励んでいた。当時は包丁で刻むしか方法はなく、大きな木製のたらいにまな板をのせ、向き合って大根を切っていた。干すと早く均一に乾くよう一日に何度もかき回していた。手を掛けるほどうま味が出るはず、乾燥注意報の続くなか、出来上がりに期待しよう。
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鏡開き

2019年01月11日 | 回想
 
 今日は鏡開き。祖父母の時代の餅つき、親戚が集まり我が家で朝から夕方まで石臼でついていた。思い出はいろいろあるが、大きな鏡餅を作るのは祖母で、2臼目のつき上がりで作るしきたりだった。量目は分からないが直径が手をじゃんけんのパアの様に広げた巾ほどのいい形の大小作る。飾り場所は床の間で脚高の三方にのせられていた

 その頃は祖父も元気だった。仕事で昼間いない父に変わって主についていた。私が中学生になると祖父を手助けした事を思い出す。鏡餅は切腹に連なることから切ると言わず割る、開くというそうだが、その役は祖父だった。無病息災を願って焼いたり善哉に入れて食べた。餅は貴重な食料であった。

 息子は小学校1年になって近くの公会堂で教える剣道教室へ通った。寒稽古は朝の5時過ぎから始まる。板張りの床は見ただけでも冷たく感じるが、小学生の剣士たちはその板張りに正座も含め寒稽古に励んだ。その仕上げは鏡開き、母親たちが準備した善哉は美味かったと聞く。稽古には付き添っていたが、残念ながら善哉の会に参加していない。

 鏡餅とは言いにくい鏡餅もどきを備えている我家、遺影の祖父母は昔を思いながらもどきを見下ろしているだろう。もどきとなった弁解はさておいて、神仏に感謝して供え、無病息災などをお願いしている気持ちは以前と変わっていない。正月行事も終わる、姿勢を正し正月気分を追い払い良い年を作り出そう。
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鯖とクジラ

2018年12月28日 | 回想

 子どもころにはリイヤカーに魚箱を積んでおばさんが行商に回っていた。売れた魚は魚箱の上で処理していた。現代のスーパーでも頼むと注文通り処理してくれるから、この部分については変わっていない。我が家の注文はたいてい青魚で、鯖か鰯か鯵、タコかイカくらいだった。母が留守の時は言われたものを処理してもらっていた。

 鯛やカレーなどは記憶にないが、新聞に包まれた赤黒い塊がクジラ肉を知ったのは高学年になってから、最近の国際捕鯨委員会(IWC)脱退のニュースを聞きながら思い出した。学校給食が給食らしくなったのは高学年になってから。給食は大家族の我が家では作れない献立が多く、そんな中でもクジラ肉の日は楽しみだった。

 鯖は骨が除きやすく、身もしっかりしていて贅沢な一品だった様に思う。今でも鯖は好きだ。青臭いからと嫌われる魚のひとつと聞いていたが、このところ鯖ブームという。そんな中、鯖缶の人気急騰で店頭の鯖が品薄という現象が起きている。鯖缶が美容と健康にいいという女性の需要増がブームを呼んでいる。鯖は貧乏人の食べる魚と行商のおばさんは話していたが、庶民の食卓を潤わせたいい魚ということになる。

 クジラ肉は何年いや何十年も食べていない。IWC脱退で商業捕鯨が開始されクジラ肉がどのように市場へ出回るのだろう。30年もの間調査捕鯨のクジラ肉で賄ってきた台所、どう変わるのだろう。日本の貴重な蛋白源としての歴史をどう復活するのだろうか。若い人らにどの程度指示が得られるのだろう。IWC脱退に伴い「関係国への裏切り。味方の国に丁寧に説明していく」という外務省の重い口調、鯨はどう思うだろうか。
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電話機の日

2018年12月16日 | 回想

 1年365日にすべての日が何かの日になっている。国民祝日や語呂合わせ、商売繁盛など主旨は様々だが、楽しむ分にはいい。そんな一つ、3行記事に今日は「日本の電話創業の日」という。1890年というから明治23年、意外と遅い文明開化という気がするが、便利なものが使えるようになったことは素晴らしい。当時は東京と横浜で加入は200あまりとある。

 電話の記憶は子どものころ家から100㍍くらいに在った分限者といわれる家だった。それは木製の電話ボックスの壁についていた。左手で受話器を耳に直角に当て、送話口に顔を近づけて話していたように記憶する。当時の人が携帯やスマホの通話を知ったら驚くか科学の進歩に唸るか聞いてみたい。

 父の没後、いろいろあり電話の設置を申し込んだ。「2年くらいお待ちいただきます」といいながら窓口の人は申込書を受け付けた。何がどう変わったのか知らないが、驚くほど早くダイヤル式の黒電話が付いた。忘れられない初回に掛かって来たのは「明日、異動辞令が出る。出社するように」という上司の声だった。当該職場への異動希望を出していたが発表がなく諦め半分の気持ちだった。夜勤予定は急遽変更になった。

 そんな電話機も円形数字板回しからプッシュ式、番号登録や受信番号表示、留守電や勧誘電話受信拒否など何度か買い換えた。子機の登場は長電話を助長したともいう。そんな固定電話機は減少し今は携帯やスマホの時代、この先は5Gに変わる、どこまで進化するのやら。そして電話線が消えるのはいつだろう。番号を覚えなくて良くなったのはボケ防止のためにどうだろうかと思っている。
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