マタイの福音書 20章1−16節
日曜日に出席した礼拝、子どもたちの賛美が生き生きとして、未来に希望を抱かせる教会だと嬉しくなりました。
ここでの「天の御国のたとえ」は、ペテロの心の内側を照らすようなものだったのでしょう。彼はイエスに胸を張って言いました。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」
最初からあなたの弟子として歩んで来たのだから、私こそ、あなたから良いものをいただくことができるという思いが、このことばに隠されているように思います。
イエスの「五時から男?」のたとえは、そんなペテロの、いやペテロたちの考えを打ち砕くものでした。確かに、社会の常識で考えるならば朝早くから雇われた労働者と、仕事が終わろうとする5時に雇われた労働者とが雇用者からもらえるお金が同じというのは受け入れられません。
ですから、12節のいっしょうけんめい働いた人々の話には説得力があります。働く時間が違うのですから、給料に格差があって当然だと思います。
イエスは、この話にはそんな抗議が起こるのをもちろん知っておられました。ですから、13ー14節のことばに目が留まります。主人は「友よ」と言っています。この呼びかけからは、主人の労働者たちへのこころが伝わってきます。
14節の「与えたいのです」にも目が留まります。神の恵みを感じさせる覚えさせることばです。神は私にも「与えたいのです」と考えておられるのです。