みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

自分の心が責めたとしても

2023年10月25日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 3章11−24節

 時間の合間を縫って取り組んでいる「日ごとに」(聖書同盟刊)の改訂版の制作が大詰めになりました。テーマに沿って毎日読むように組まれているので、聖書を横断的に読むための良い手引きです。

 ヨハネは「互いに愛し合うべきである」とここでも書きます。それは教会にとってはまさしく初めから聞いている使信。しかし、聞くのと行うとでは大違いです。ヨハネはここで、カインを例にあげます。極端なようにも思えますが、人と人との間には憎しみやねたみが厳然とあるということを改めて考えさせる例です。「カインはひどいことをした」とここを読むと思うことでしょうが、その矛先(ほこさき)は他ならぬ自分に向けられているということに、私たちは気づく必要があります。

 ヨハネはこのことばを、教会に宛てて書いています。主にある兄弟姉妹の間にカインのような問題が横たわっていたのです。同じ教会で歩むという交わりを与えられている者たちが、考え方ややり方の違いが気になって仕方がないなどということは、度々起こります。そのような者たちの心に、14節は迫ります。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです」とのことばです。

 「愛」とは自分が勝手に描くものでないということも、16節から考えさせられます。自分で決める愛ではなく、教会が決める範囲でもなく、キリストが示したこと、なさったことこそ、愛なのです。

 20節の「たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます」ということばに目が留まります。この場合、自分の心が責めるとはどのようなことなのでしょう。自分の内側の声に責められることなくという意味でしょう。「神は私たちの心よりも大きな方」ということばに励まされて、自分を見、主にある兄弟を見る者でありたいと、心から願います。


キリストに倣(なら)う

2023年10月24日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 3章1−10節

 月曜日の夕方、スーパーで買い物をして近くのバス停でバスを待っていましたら、男の子を連れた女性が「あなた、銀行のカードを落とさなかった? 日本人のだとレジの人が言っていたので、きっとあなたたちではないの?」と声をかけてくれました。財布を確認すると、確かにありません。急いで戻って行こうとすると、男の子が「ぼくが見つけたんだ!」と大きな声で言います。「ありがとう!」とお礼を言って、スーパーに戻り、無事にカードを受け取ることができました。ありがとうございます!

 ヨハネはこの手紙ですでに、「神のうちにとどまっていると言う人は、……イエスが歩まれたように歩まなければな」らないと書いています。ここでは、神の子であるクリスチャンへの約束と、神の子の生き方を明らかにしています。

 神の子への素晴らしい約束、それは2節にあります。キリストが現れたときに、キリストに似た者となるということです。今の自分を見るならば、それにはるかに遠いことに気づかされるのですが、希望がここにあります。そして、「キリストをありのままに見る」ということばに目が留まります。その日がやってくるのです。そして、この間違いのない希望は私たちの毎日を支えます。

 4節以降には神の子どもと、悪魔の子どもとが対比されます。ここでのヨハネのことばの背景には、この時教会を脅かしていた間違った教えがあります。偽教師たちは自分たちには特別な神についての知識があると自慢し、教会を揺さぶっていました。ヨハネは、そのように教えている人々がどのような歩みをしているのかを注意深く見るようにと、書いています。行い、実によって判断せよと……。


初めから聞いていること

2023年10月23日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 2章18−29節

 三日間の「修養会」を終えて帰宅しました。帰宅して最初にしたのは、新しい靴を履いて公園を歩いたことです。履き初めは何となく馴染んでいない感じがしますね。でも、楽しみでもあります。

 ヨハネがこの手紙を書き送ったアジア(現在のトルコ西部)の諸教会は、偽りの教えに揺さぶられていました。ここでヨハネは「反キリスト」ということばを繰り返します。驚くべきは18節に「多くの反キリストが現れています」とヨハネが書いていることです。さらに19節に「彼らは私たちの中から出て行きました」とも書いています。つまり、反キリストは教会の中から出て行った者たちなのです。

 その教えが偽りかどうかの判別は、イエスをキリストだと告白しているか、それとも否定しているかによるとヨハネは続けます。20節の「聖なる方からの注ぎの油」、また27節の「御子から受けた注ぎの油」ということばに目が留まります。それは、聖霊のことを指しています。イエスをキリストと信じる者のうちに聖霊が注がれ、そのお方が聖書を正しく教えてくださると、ヨハネは読者たちに書いています。

 確かに人は、聖霊によらなければ、ナザレの人イエスがキリストであるということを告白することはできないのです。パウロは「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません」とコリントの教会に書きました(1コリント12章3節)。

 そして、「とどまる」ということばにも目を留めたいと思います。初めに聞いたことにとどまること、それが御父と御子にとどまることになるとヨハネは書きます。新しいもの、新しいこと、新しい教えは人の心を引きつけさせます。しかし、この手紙の書き出しは次のようです。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの……。」

 ぶれてはならないのです。


手でさわった!

2023年10月21日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 1章

 教会の修養会が金曜日から日曜日まで行われています。今回は、近隣の教会の方も参加され、いつもとはまた違った豊かさを覚える交わりを楽しんでいます。天候が今一つなのですが、土曜日には太陽が顔をのぞかせてくれるとよいと願っています。

 ヨハネの手紙を書いたイエスの弟子の一人ヨハネは、ヨハネの福音書で自分の名を出さず、その代りに「イエスの愛された弟子」と自分を書いています。考えてみると、そのような書き方もかなり大胆だと思うのですが、ヨハネはそれほど、イエスのそばにいたのです。

 この手紙のはじまりは、イエス・キリストの紹介から始まるのですが、それはヨハネならではの書き方です。私たちが聞いた、自分の目で見た、じっと見つめた、そして自分の手でさわったというのは、初めからあったお方、いのちと呼ばれる方、御父とともにある方、私たちに現れた方のこと、それはイエス・キリストなのだと彼は書きます。

 彼はここでは、空想上のキリストを紹介しているのではありません。聞いて見て、じっと見つめて、そしてさわったと言います。それは、イエスはじつは肉体を持ってはいなかった、なぜなら神だから……という、間違った思想が教会に入り込んで混乱させていたことを前提とした書き方です。

 この1章でヨハネは、初めからあった方、神が私たちがじっと見つめ、さわることができる肉体を持ってくださったこととをまず書いています。もう一つは、神は光であって神には闇が全くないとも書いています。

 神は光であり私たちは闇だという考えも、当時の教会を混乱させていました。ヨハネはそうではないと言います。光である神との交わりを持つ者が闇の中に歩むはずはないのだとして、二元論的な生き方に真っ向から立ち向かいます。

 だからこそ、罪を犯したならば悔い改めるのです。悔い改めた者を神はキリストにあって赦してくださる、この約束が確かなので、私たちは裏表なく歩むことができるのです。


その時代が来る

2023年10月20日 | アモス書

アモス書 9章

 日本から素敵なSNSメッセージが届きました。送り主が描いた作品が数点添えられています。そのどれもが光を感じさせるもの。「遠い国からの良い消息は、   疲れたたましいへの冷たい水」という箴言25章25節を覚えました。ありがとうございます。

 アモス書の終わりには、ようやくのことで回復のメッセージが届けられます。今回「みことばの光」にアモス書を執筆した方が、アモス書には厳しい神のさばきが続くのでどのように読者の方に届けるのかが難しいと話しておられました。

 確かに、9章前半ははこれまで以上に神のさばきの厳しさが伝わってきます。悪事を行う者は誰一人として神から逃れおおせることはできないということばが、人が隠れるであろう場所を挙げながら届けられます。「よみ」と「天」、「カルメル山」と「海の底」がここには出てきます。神を敵とするならば、これほど恐ろしいことはありません。

 ここを読んで詩篇139篇を思いました。ここには、神が私の側にいてくださるならば、これほど心強く安全なことはないと歌われています。

「たとえ 私が天に上っても そこにあなたはおられ 私がよみに床を設けても  そこにあなたはおられます。私が暁の翼を駆って 海の果てに住んでも そこでも あなたの御手が私を導き あなたの右の手が私を捕らえます。」詩篇139篇8−10節

 8節以降には、イスラエルの回復の約束が届けられています。11節の「その日、わたしは 倒れているダビデの仮庵を起こす」ということばに目が留まります。この約束がイエス・キリストによって実現し始めていることは、使徒の働き15章16―18節にこのことばが、主イエスの兄弟ヤコブによって引用されていることで分かります。

 心塞がるような、ひどいことが次々に周りに起こる時だからこそ、キリストの福音によってのみ、私たちには希望があるということを、アモス書の終わりに覚えます。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki