詩篇 24篇
日曜日は、お借りしている教会と合同の収穫感謝礼拝。礼拝後には、それぞれが持ち寄った食べ物をいただきました。この日の楽しみの一つはリンゴ絞り。コンテナ二つ分のリンゴを、子どもたちが器械の中に投げ込むと、リンゴが粉々に。それをリンゴ搾り器で絞ると美味しいリンゴジュース(いわゆる生搾り)のでき上がり。でも、気がついてみたら私は飲むことができませんでした。来年のお楽しみにとっておきましょう。
詩篇24篇は、後半の7節以降がメシアについての預言としてよく知られ、その部分に目が行ってしまうのですが、前半ではどのようなことが歌われているのでしょうか。
神の前で人間はどうあるかということです。初めのことばが目に留まります。「それは主のもの」ということばです。なぜか、それは主が私たちが住まわせてもらっている地の基を据えられた方だからです。「それは主のもの」というこの一言を忘れないように、そうしなければ人間は欲望のかたまりのようになります。
3−6節には、誰が主の前に立つことができるのかという問いかけ、それについての答えが明らかにされます。「これぞヤコブの一族」とほんとうの意味で胸を張って言えるのは、一人もいないということではないかと、ここを読んで思いました。
しかし、私たちに希望がないわけではありません。それは自分自身によるものではないということが、7節以降で明らかになります。「栄光の王」とはこの詩篇の作者が待ち望んでいたお方。イスラエルの王であったダビデが「栄光の王」を待ち望んでいたのです。「それは主のもの」ということばの意味を知る者だけがいいうる希望ではないかと考えました。
問われます。何を、誰を待ち望んでいるのだろうかと……。